終末アップルパイをご一緒に
小羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「きたれ」と言う声を、わたしは聞いた。
そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉が従っていた。彼らには、地の四分一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた。
ヨハネの黙示録第六章第七節 第八節
たとえ明日世界が滅びようとも、今日私は林檎の木を植える。
マルティン・ルター
抗い難い倦怠を感じながら、アンナ・Sはソファーの上で横たわっていた。
既に日は高々と昇り、白レース越しにその物憂げな顔へ光が差し込んでいる。が、彼女は鬱陶しそうに呻き、目元を軽く腕で覆うだけで、起き上がる仕草は毛程も無い。格好も寝間着姿のままだ。ソファーの対岸にあるテレビ画面からは明るく、だが空しい声が部屋の中に木霊している。勿論、彼女はちらとも見ず、耳に入る音も右から左へ、だ。
それもこれも、昨晩送られて来た予報のせいよ。
アンナは乱暴に目を掻くと、呻き声と共に額へ片手を当てた。
今までにも不快な予報なら幾らでもあった。出来るならば避けたい様なものも。しかし思い返せば、また実際に起きて見れば、大したものでは無かった。少なくとも彼女はそうだったと思っている。恐らく本当は、予め知っていたからこそ身構えられたのだろうが、既に過ぎ去ったものに興味を持つ彼女では無い。真に大事なのは今だけなのだから。
けれど、今回のは別格だった。虚ろな記憶の中でも、はっきりと断言出来る程に。
アンナは昨晩の予報を思い出し、もう一度呻き声を上げた。
気分が悪い。まるで女性のあの日の様に。だがこれは体の変化に伴うものでは無く、純粋に精神的なものだから、余計たちが悪い。向精神薬の類でも飲めば話も別だろうが、そんなものに頼るのは、何だか負けた様な気になって嫌だ。
となれば、当然の様に巫女へ会いに行くのも億劫である。
この家から彼女が登録している未来予報局まで行くには、路面電車と両脚を使って一時間も掛かってしまう。衝撃の緩和、愉悦の保持、何よりも情報の即時伝達が為、断片的な形で脳内の受信機へと送信される予報の詳細を聞くのは誰でも自由に行える権利ではあるが、もう五分後には起こるかも知れない、或いはもう五分前には起きてしまったかもしれない……まぁそんな事は滅多に無いのだが……事柄を詳しく聞く為だけにわざわざ出向くなんて、アンナは御免こうむりたかった。それが何時起こるかは兎も角、今日の何時かに必ず起こる未来であり、しかもその未来がろくでも無いとすれば、尚更の事で。
しかし同じ位、予報の真意を知りたいという思いも強いのだから、煩わしい。
簡単に一言、電話口で聞ければ良いのに、と彼女は本気で考える。そうすれば、一歩も出たくない気持ちそのままに、目的は遂げられるものを、何故予報局も巫女も政府もそうしてくれないのだろう。税金を払って上げている市民の感情を何だと思っているのやら。
もしくはテレビかラジオを通じてでもいい。すっかり無視していたが、今映っているトーク番組の司会者は彼女のお気に入りだ。喋りは面白いし、馬鹿馬鹿しい程明るい性格は好感が持てるし、それより何よりとってもハンサムだし。
そうだ、彼の口から言ってくれるのが一番いい。アンナはゆっくりとだが体を起こすと、司会者の方に視線を送って、我ながら名案と思えるこの意見を想像して見た。
皆さんどうも今日は、『今朝も素敵なアカシックTV』司会のエドガー・タイターです(観客から盛大な拍手)。それでは本日最初は、アンナ・Sさんの未来予報から。今日の何時か、とそれが何時かなんて聞かないでくださいよ、僕は巫女じゃないんだから、例え僕が私に、エドガーがエディになろうともね(大仰な笑い声)。はは、ま、今日の何時か、アンナ・Sさん、貴女に起こるのは、はっきり言って良い出来事ではありません、いや寧ろ悪いと言ってもいいでしょう(暫しどよめき、沈黙)。貴女は今日の何時か、とある男性とベッドの上で抱き合う事となるでしょう。巫女はそれが誰なのか知っていますが名前は出さず、そうですね、貴女の愛する人物です。貴女はその男性と抱き合い、キスを交わしながら、愛の言葉を囁き合っている……何処が不幸なのかって感じですね?(小声で。笑い声、付き合う様に小さく)。しかし、災厄は行き成り現れるものです。貴女か、貴女の愛する男性か、どちらか最初なのかは解りませんが、突然っ、貴女と彼は絶叫します(絶句。同時に周囲も絶句)……貴女方は何かを見ます。それが何なのかまでは解りません、しかし、それはとても恐ろしいものです。とてもとても、嗚呼恐ろしさの余り瞼も見開かれ、喉も枯れんと騒ぎ回る位に、そして極限の恐怖が末、やはり何かに気付いた貴女は、愛する者と共に笑い出すのです、まるで狂った様にげらげら、げらげら、げらげらと何時までも……それが今日貴女に起こる出来事です。何をどうしようともう変わる事無く、絶対に起こる出来事です。何故ならラプラスの巫女は、未来予報士は、これを見た貴女の行動も踏まえた上で予報していたのですから。えぇ、外れはありません、残念な、そして哀しい事ですが(スタジオ全体が沈黙に包まれる)……でもご安心を。私は、いえここに居る私達は貴女の味方です。起こる事に思い煩わされる必要はありません。巫女如きに憤慨しては駄目です……いや寧ろ気にしては駄目です、無視してください、えぇ完全に、そんな奴も事も無かった位に。それが辛い予報を乗り越える最良の方法です。頑張ってくださいアンナ・Sさん。そして忘れてはいけませんよアンナ・Sさん、我々は貴女の味方だという事を。そして試練を乗り越え、一周りも二周りも大きくなった貴女が、このスタジオにやって来てくれる事を願いましょう、では皆さん彼女に心からの拍手をっ……
アンナは瞳を瞑った。告げられた予報ではこの程度の内容しか考えられなかったけれど、それでもこれは彼女を慰めるのに充分だった。座ったまま背筋を伸ばし、今にも周囲から上がってきそうな拍手を受け入れる様に、両腕を軽く広げて行く。
と、その時背後から物音が聞こえ、アンナははっと、身を翻した。慌てて後ろを見れば、彼女の夫、ルドルフ・Sが居て、姿見を見ながら上着を羽織っている所だった。
「あら貴方、何処かにお出掛けですか?」
もしや見られただろうか。彼女は夫の方へ笑顔を飛ばしつつも内心酷く動揺ていた。それを隠す様に金色の髪を撫で付ける。我ながら実にわざとらしい仕草だ。
「嗚呼、少しね……未来予報で気になった所があるものだから」
けれどルドルフの興味は鏡に映る己へと向けられ、アンナの方を見ようともしない。夫の相変わらずの態度に、彼女は安心と同時に腹立たしさも覚えたが、今日ばかりはそれも許そう。下らない空想に耽っている所を目撃されたよりかは、幾分良い。
「あらそうなの。珍しいわね、行く程のものなんて……私は今日もすっかり良い予報だったのに。これも日頃の行いという奴かしら? どう思う、あなた?」
しかし、喜ばしい事と許せる事とは、また違う問題だ。アンナはソファーの背に上半身を置くと、自分で出来ていると思える程度に挑発的な笑みを浮かべて見せる。
さてこれならどうかしら。
「嗚呼、確かに……そうかもしれないな」
だがつくづくルドルフ・Sという男は面白味の無い男だった。
彼はたった一言そう返すと、電車の時間に遅れると言って、忙しない足取りで居間を後にして行く。アンナの方など、ろくに目もくれないで、だ。
「そう……いってらっしゃい」
彼女は弱々しくその背へ向けて応えると、溜息と共に再びソファーへと横たわった。
独りになった今、落胆の表情を隠す必要は全く無い。本当にどうしてあんな男と結婚してしまったのだろうと、昔の自分に言いたかった。確かに顔は良い……それだって、あのエドガー・タイターには及ばない……が、所詮それだけでは無いか。愛想は無いし冷たいし私の誕生日に欲しいと言った物をくれた事は無いし。
暫くの間、そう憮然とした表情で彼女は寝転がっていた。
と、そこでアンナは行き成り身を起こした。
予報や夫の事なんかで悩むのが煩わしくなった。
そんなもの達を煩わしいと思う自分を煩わしいと思い始めたのだ。
途端倦怠は消え、新たに活力が湧き起こる。ソファーから立ち上がったアンナは寝室へと向かった。力強い足取りで廊下を進み、螺旋の階段を掛け上がって、夫とは別の部屋へ脚を踏み入れるや、後ろ手で扉を閉めた。物々しい音が家中に響く。
そして部屋に入るや、洋服棚を開け放つと、彼女の真に愛する隣人が為の服選びをし始める。曰く、彼との最中に何かが起こるらしいが、もうそんな事は知った事で無い。
それにきっと大丈夫だろう。
林檎の様に真っ赤なワンピースを体へ寄せながら、アンナは思った。
確かエドガー・タイターも言っていた気がするわ、皆が貴女の味方だって。