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開かれ、そして閉ざされた五つの扉から、音も無く看板が消えた。
どころか、一つを抜かした四つの扉が、溶ける様に壁と成って行く。
やがて扉は一つだけとなると、それは開かれ、中からシュレディンガーが姿を現した。
格好は何時もの通り、少々古めかしい貴族風の青い上着に対を成す様に真っ赤な赤い木靴である。そのどちらもが、まるで新品であるかの様に汚れ一つ無く、皺一つ無い。
閉ざされようとしている扉の隙間から見えたのは、着衣の畑である。
まるで栽培されている様に新鮮なそれらが、木々に実り、地から顔を出していた。
物は造るよりも、探す方が圧倒的に手間の無いものである。
その事を少年は良く知っていた。
余り知られていないその探し方についても、また良く。
シュレディンガーは、今卸したばかりの瑞々しい服装に身を包み、実に上機嫌な様子だ。今にも鼻歌など奏でそうな調子で、狭い広間を渡り歩き、対岸の扉へと手をやる。
そうしてその戸を開くと共に、彼は今来た扉の方を向いた。閉ざされたそこには、新たに別の看板が取り付けられている。およそこの様なものであった。
『一人のM・V・Hが、五世界分の墓碑』
それを眺めながら、シュレディンガーは寂しそうに、だが同時に嬉しそうに言った。
「ばいばい、僕のお母さん。さようなら」
そうして彼が戸を開け放てば、そこには彼の良く身知った街並みが広がっている。
シュレディンガーはそっと脚を踏み出すと、通りの中を歩き始めた。まるでこの地に始めて来る様な、新鮮な感覚を胸に抱きながら。全く、世界という奴は、一人の人間が減ったり増えたりするだけでも、結構変わって来るものなのである。更に言ってしまえば、そこを流れ出る時間もまた違って来るものだ。大いなる誤差の範囲内によって。
「おやっ、シュレディ、シューレじゃないかっ。何処に行ってたんだお前っ」
と、その時少年は、見知った、だが懐かしき顔に声を掛けられた。
屈託の無い声だ。余計な思案も意味も無い、純粋な親切心による言葉。
彼の唇に、くすりと笑みが灯る。全く、知人と言う奴はこうでならなくっちゃ。
「あ、カールおじさん、久しぶり。元気にしてたかな?」
「そいつぁこっちの台詞だよ。皆、心配してたんだぞ。ハイゼンベルクさんとこの奥さんと一緒に偉くまた長い間居なくなっちまいやがって、一体全体どうしてたんだい」
対するカールは苦味を帯びた笑みで返す。
悪戯っ子そうな微笑を讃えつつ、シュレディンガーはそっと頭を振って言った。
「それは内緒。言ったらつまんないからね。でも、うん、結構愉しかった、かな。後もうね、シューレなんて名前で呼ばなくて良くなったよ。シュレディンガーでいいんだ」
そこに義母マリアの事は一言も加えられていなかったけれど、相手はまるで気にも止めていない様だった。ただ一言、「そうかい」と頷けば、彼は少年へ向けて何かを放った。
シュレディンガーが片手で見事に掴んだそれは、一個の程好く熟れた桃であった。
「また今度、と言っただろ? 持って行きなよシュレディンガー。後ハイゼンベルクさんとこには顔出してやんな。お前も奥さんも消えちまって、何とも寂しがっていたから」
にやりと笑うカールに対し、彼もにやりで返す。そうして無言の内に、たわわに実った果実へ、皮ごと歯を突き立てれば、甘酸っぱい味と匂いが口の中にぶわと広がり、シュレディンガーは何よりも増した頬笑みを浮かべるのであった。
END