フィラル大森林
「ギャウ?」
酷く朧気で、脳からこぼれおちてしまったかのような俺の思考が、耳元で響く恐ろしく低い唸り声と、何かざらざらとしたものが顔を削っている感覚で覚醒する。
そうしてクリアになった俺の視界いっぱいに写るのは、元の世界にいた時だったら確実に失禁するだろう凶悪すぎる面構えの巨大なトカゲだ。
一見すればただの化け物でしかないその生物に、しかし俺はもう見慣れてきてしまっていた。
俺はその巨大蜥蜴を前に動揺することなく、セーニョ大帝国を出てからの6日間の旅路で一周まわって可愛く見えてきた〈大蜥蜴〉なる魔物を押しのける。
「お前、また俺が寝てる時に顔舐めただろ……」
「ギ!?」
自分の顔面に残る大蜥蜴の唾液のとヤスリで削られたようなヒリヒリとした感覚に内心でため息をつきながら、俺は身を隠していた大樹の根元で立ち上がり、そして凝り固まった身体をほぐすため大きく伸びをした。
―――俺が今いるのは、大陸最大の魔境〈フィラル大森林〉。
俺の周囲に広がるのは、隙間なく木が生え、日光の侵入を遮る葉のベールで覆われた広大な森。スギに似た大木が乱立する、この薄暗いフィラル大森林というこの魔境で、大蜥蜴とともにミズルに教えてもらった村を目指して今日で6日目だった。
ミズルに教えられた方角に進めば、およそ一週間でセーニョ大帝国の勢力外である小さい村に辿り着けるはずなのだが、しかしまだ村につく気配は欠片もない。
「よし、とりあえず朝ご飯にするか!」
1人の寂しさを紛らわそうと声を出し、俺はミズル達に支給された袋からめちゃくちゃ固いクッキーみたいなパンを取り出す。マズい。
この食料も残り7日分程しかなく、一応余裕はあるものの遭難してしまえば詰むレベルの残量でしかない。
流石にその貴重な食料をあげる訳にもいかず、とりあえず大蜥蜴にはこの大森林の草で満足してもらっている。まぁ兵士が草でいいって言ってたから草でいいんだろう。
「村は影も形もないし、戦いは慣れないし、本当に俺の選択は正しかったのか……?」
胸の内に不安を秘めながら、俺は歯が折れそうな程硬いパンを無理やり噛み切って、粗末な容器に入った鉄臭い水で流し込む。
本当に、いくらなんでも国家が本気で動けばもう少しまともな食事くらい用意できたのでないかと、愚痴のひとつもこぼしたくなるほどの待遇。
正直、ここでの食事は到底美味しいなどとは言えないが、それでも恐ろしいほど食べられるものが少ないフィラル大森林では貴重な食料であることは事実だった。
少しでも、可能な限り節約しなければ、本当に死ぬ。
「大蜥蜴、行くぞ。」
そうして十分ほどで食事を終えると、俺の不安も知らずに呑気に草を食んでいる大蜥蜴に跨った。
ミズル達に支給された地図と方位磁針を懐から取り出し、進む方角を定めて、俺は今日も彼らに教えられた方角へと進んでいく。
今日も、ひたすら村へと向かって歩き続けるだけだ。
その動き自体はもはや慣れたものではあったが、それでも俺はつい一週間前まで治安のいい日本という温室で育ったただの中学二年生だった。
寝袋を着て、森の中では比較的マシと言える生活を送ってはいても、やはり普段とは違う生活には疲労がたまるし、神経が削れていくのを日々感じる。
ここでの頼れる相棒である大蜥蜴に進むのを任せると、俺はゴツゴツとした漆黒の鱗で覆われた大蜥蜴の背で、ほんの少し水を飲んで横になった。
この森の中で川が見つかっていない以上、こうした水すらも節約するべきなのは俺だって分かってるが、それでもこの生活は現代人の俺にはかなり堪えるものがあった。
たまにはこのくらいリラックスしなければ、本当にいつか気が触れてしまいそうだ。
もしかしたら、あのろくな思い出のない国の方がマシだったのではないかと、脳内では常に「もしかしたら」の選択が渦巻いている。
とはいえ、この少しだけ休む時間ですら警戒は怠ってはいけない。
ここは魔境だ。―――この森には魔物が出る。
頻度は決して多くなく、また武道の経験がなくても〈剣術〉のスキルを持つ俺と危険度がC級程度の強さである大蜥蜴と協力すれば一瞬で倒せるようなEからD級の弱い魔物が多いが、それでも既に貰った鉄の剣には既に血が染み付いていた。
魔物とはそもそも、この世界のどこにでもある魔力と呼ばれるものが、邪神という神の一柱により穢れ、その穢れた魔力が形となって具現化した生き物らしい。
そして、これら穢れた魔力が多く存在する場所を〈魔境〉と言い、今俺たちがいるこのフィラル大森林もそれに属する。
神だのなんだのは意味不明だが、用は穢れた空気が穢れた生き物を生み出しているというわけだ。
故にこの森には魔物が多く、俺もこの六日で雑魚魔物相手とはいえそれなりに戦いを経験している。
「まあ、基本大蜥蜴がボコしちゃうからな……」
本当は早く強くなって時空の天使に会いたいんだが、俺が想像していた何倍も大蜥蜴は強かった。
俺の腰くらいまでの身長と白い毛並み、木の枝を武器にした貧弱な魔物〈犬人〉や、1m以上の巨体を持つ蜘蛛〈巨大蜘蛛〉など、初日に教えて貰った魔物はほぼ全て遭遇している。
とはいえ大体は大蜥蜴が突進すればあっけなく死ぬ。あの数百キロもある巨体に突進されれば魔物は一瞬でグチャグチャになって、それを見た俺が吐くのがここ数日の、いつもの流れだった。
俺は精々、〈森亀〉といった硬い魔物や大蜥蜴の突進で倒しきれなかった瀕死の魔物、複数体の魔物に襲われた時にこの錆びた鉄の剣を〈剣術〉スキルに従って振りまくっていただけだ。
今だって魔物を殺すのは心が痛むし、グロ耐性も全くついていない。
精神面では、呆れるほど俺は全く成長していなかった。
―――ただ、身体面では大きな変化があった。
「まさかレベルアップとやらで、ここまで露骨に身体能力が上がるとは……この世界、本当にどうなってんだ?」
そう。俺の身体能力が、初日より明らかに向上しているのだ。
俺はあのプロジェクターみたいな魔道具がないとステータスを確認できないから詳しくは分からないが、恐らくこれが俗に言う「レベル」があがったということなのだろう。
スタミナも上がっているようで、眠る時間を省いてかなり無理に進んでもこの程度の疲労ですんでいる。
「本当、良く考えたらレベルアップさまさまだよなぁ……」
このレベルアップの恩恵により、俺はなんとかここまで生き抜くことが出来たと言っても過言ではない。
その理由の一つが、意外と弱点の多かったエクストラスキル〈天才〉だ。
「〈天才〉のスキルで覚えられるのは俺が出来る範囲のものだから、身体の作り的に無理なスキルが多い魔物だとろくにスキルも覚えられない。ってか。本当、魔境だといきなりゴミスキルになるなんて聞いてねぇよ……」
この6日間で、俺は一つもスキルを覚えられてはいない。
というか魔物の動きは一々ファンタジーなのでどれがスキルなのかもあやふやだったりする。
チートスキル〈天才〉は、人間専用と思った方がいいだろう。
本当に、どうして生き残れたのか自分でも分からない。
そんな見切り発車で始まったこの6日間、俺は飲食や寝る時間以外ほとんど休みなく村へと向かっている。
基本的に歩いているのは大蜥蜴だが、魔物と出会う頻度が想像以上に高く、かなりの疲労が溜まっていた。
〈天才〉は役に立たないから、俺のレベルが上がる以前なら既に体力的に参っていてもおかしくないのだ。
これは恐らく、スタミナの上昇による恩恵だろう。
また、ステータスの防御の値のおかげなのか、岩のように硬い大蜥蜴の背に跨っていても、初日や2日目程痛くは感じない。
小さいが、地味に助かる効果だった。
それと他に、ステータスの上昇で分かりやすかったのは素早さだ。
ここでの生活の4日目で迫ってくる魔物から走って逃げた時に気付いたが、なんと明らかに以前より数段ほど早くなっていた。
元々足の速さには自信があったが、今だと恐らく100m10秒台は行けるのではないだろうか。
そのくらい、この6日間で俺の身体能力は上昇した。
筋力も自分で分かるくらいには上がっているが、それは力こぶがあったりシックスパックが浮き上がったりというのではないらしい。
「折角なら、憧れのシックスパックを手に入れたかったんだが……」
とまあ、この6日間で既に充分人間の中では化け物と言える程の力を手に入れた俺だったが、しかしまだまだ課題は残っている。
せっかく覚えた火魔術が火事になりそうで使えないこと、ステータスが見えないこと等、細かい問題もいくつかあるのだが、今俺が一番頭を悩ませているものがーーー
「時空の天使と会うにはどのくらい強くなればいいのか、だな。」
俺の最終目標。
強くなって時空の天使と会い、元の世界へと帰還する唯一の希望。
それを達成するには、『圧倒的な力』が確実に必要になってくる。
ただ、その肝心の『圧倒的な力』がどの程度の物か分からない。
たった6日間、大蜥蜴に張り付いていた俺でさえ今、ここまでの身体能力を手にしている。
異世界での『圧倒的な力』は、もはやただの人間に到達できる領域ではない可能性も充分に存在する。
そうなれば、もはや近藤奏多が頼れるのは自身のポテンシャルと頼れる相棒しかない。具体性ゼロにも程がある。
それでも、またあの世界に戻りたいという気持ちは揺るがないが。
そもそも俺は、天使というものの基礎知識を教えてもらっただけで、実際に天使という存在を見た事すらないのだ。
あまりにも知識が無さすぎると言っていい。
とにかく今の俺は、魔術は使えない、ステータスも見れない、唯一のスキル〈天才〉は発動できないというどん詰まり。
武器も錆びた鉄の剣一本で、今の所希望が何一つなかった。
身体能力は高くなった。それでも、フィラル大森林にいる低級魔物になんとかタイマンで勝てるレベルでしかない。
地球で見れば飛び抜けている事には間違いないはずだが、異世界では所詮その程度の力。道のりは恐らく、俺が想像しているより何倍も長い。
それでも俺は、強くなれるのだろうか。
そうして考えながらしばらく進み、俺が起きてから3時間くらい経った頃に、『それ』は唐突に現れた。
前方に生えていた木の影から、のっそりと、真白い毛並みをした犬が現れる。
普通の犬と違うのは、後ろ足2本でまるで人間のように歩いていることと、空いた前足に凶悪な鋭さが垣間見える木の枝を握りしめていること。
そのくりくりとした瞳は大きく、簡単に言えば白いトイプードルが二足歩行している様な光景だ。
しかし、その前足が掴んでいる馬鹿にできない鋭さの木の枝は、思い切り振るわれれば人体も破壊しかねない危うさがあった。
『それ』は、俺と大蜥蜴を視界に捉えるとまるで威嚇するように唸り、手に持った木の枝を深く握りしめる。
一見可愛らしく見えるその様子だが、瞳に宿る敵意は本物で、この生物が明確に俺と敵対していることは確実だった。
人類の敵、邪神の魔力の塊、それが魔物なのだから。
「〈犬人〉……ッ!」
6日目初の闘いが、始まる。
専門用語的なものが多いですが、のちのち全部説明されるので気にしないでください!