近藤舞香という少女
妹視点です
―――昔から、私は宇宙が好きだった。
何百年、何千年と経っても変わらず光り続ける星空は、この退屈な世界が宇宙という限りなく広がるものの、ほんの一部でしかないのだと、実感させてくれるから。
才能もないくせに偉そうな大人と、小さな子供である私、その差すら、宇宙という広大な視点からしてみれば一切変わりがない。
果てしない世界を知れば、小さな問題に縛られることは無くなるから。
自分が無力だと知る代わりに、他人も無力なのだと、果てしない諦観に浸れるから。
嫌なことから、逃げることができるから。
だから、私は―――
「舞香さん、おはようございます。体調はどうですか?」
意識が覚醒した直後、耳朶に響くのは清涼とした看護師の優しげな声だった。背には、病院のベッドの柔らかな感触。
「……おはようございます。」
体調については答えずに、私は僅かに痰が絡まった喉を震わせながら答える。
そういえば、今日は1月1日だ。我が家では毎年恒例だった年越しのカウントダウンは、出来なかった。
――もう、兄が死んでから一週間が経った。
私は今、とある大学病院に入院している。
あの火事が起こり全治数週間ほどのやけどを負った今、私は思うように体を動かせないままもう一週間もここで過ごしている。
「はい、おはようございます。朝ご飯置いときますね。……ちゃんと、食べてくださいね?」
看護師が、笑いながらもしっかりと釘を刺すようにそういう。いつもご飯を余らせる私に、この提言は無駄だともうこの一週間で分かっているはずだが。
私は曖昧な笑みを浮かべながら、出ていく看護師を尻目に渡された病院食を目にやる。
相変わらず、美味そうでも不味そうでもない食事。
それでも、前なら確実に食べられる量だったはずだ。
食べられると、そう自分に言い聞かせながら、震える手でスプーンを握る。
「……」
ひと口。
口に運んだ青菜からは、味はしない。
――食べるもの全てから味が消えたのも、これでもう一週間になる。
医者からは、目の前で兄が死んだことによるショック性の味覚障害のようなものだと言われた。一過性のものでしかないと。
それでも、味のしないガムを進んで口にできるほど、私は我慢強くない。
なんとか青菜だけは飲み込むが、その後、私の手は動かなかった。
ため息をつき、私は諦めて再びベッドで横になる。
そういえば、入院してからというもの一度も星空の観察はできていない。
父に貰った天体望遠鏡も、あの火事では跡形もなくなってしまった。
ふと、病室のドアを背に横になっていた私の背後で、がちゃりと、扉が開く音がする。
「……舞香、元気か。」
低く、しかし芯の通った優しい声音が病室に響く。
また何日間も出張に行っていたんだろうに、欠片も疲れた色を見せないその声は―――近藤明。
私の父だ。
「明!!」
父の声が聞こえた瞬間、私はベッドから飛び起きた。
伸ばした前髪が乱れるが、そんなこと知ったことではない。
「そんな動いて、大丈夫なのか?まだ足の火傷は治ってないんだろう?」
無表情だが整った顔に少し心配の表情を浮かばせる父に、私は安心させるように微笑む。
確かに足の包帯は取れないが、もう痛みに関しては消え失せている。無理に動かさない限り大丈夫だろう。
「大丈夫だよ!!ねえ聞いて明、昨日もまたバドミントンのクラブのコーチの人が来て〜」
父はベッドの隣に腰掛けると、私のくだらない愚痴を微笑みながら聞いてくれる。私はそれだけで、この一週間乾いていた心が潤っていくのを感じていた。
父が見舞いに来てくれたのは2回目だ。
入院してから一度、母と共に来てくれた時はそれは本当に酷い顔をしていて、泣き崩れる母の隣で必死に涙を堪える父の顔はまだ記憶に新しい。
そんな顔をさせてしまったことに、心の中にはまだ淡く後悔が残っていて。だから、父に心配させないよう、私は気丈にふるまうしかなかった。
「……」
父が帰ったあと、カーテンの隙間から滲み出すように照らす日光に目を細めて、私は静かにため息をついた。
父が、救いになったのは事実だ。
これまで見舞いに来てくれたのは、父と母と数人の友達を除けば、全国で優勝させて自分の実績を上げたいだけのバドミントンのコーチやら、進学実績狙いの塾の先生、あの『天才少女』が火事で怪我をして兄を失ったらしい、というネタに喜んで飛びついてきたテレビ局や各新聞社のマスコミばかりだったからだ。
それでも、父に本音を話せているかと言われれば、そうとも断言できないのが現実だ。
あの火事の日から、まるで自分の皮を被った誰かが私の代わりに喋っているかのような、朧気な非現実感に苛まれている。
兄は確かに、冷たい男だった。
私に対していつもそっけなく、暴言を吐かれたことだって何度もある。最近の兄はとくに余裕が無くて、手を出されたことすらあったのだ。
―――なのに何故、最後に兄は、あんなに泣きそうな顔をして私を助けたのだろう?
「あぁ……」
ふと、流れっぱなしにしていたテレビの音の中から私の名前が聞こえる。呆然としたままテレビの方へ顔を向けると、誰もが見た事があるであろう報道番組の中で、ニュースキャスターが馬鹿みたいな見出しと共に私のことを報道していた。
『先週、バドミントンや宇宙科学などで卓越した才能を発揮する天才少女、近藤舞香氏が火事に巻き込まれ兄が死亡、自身も全治数週間ほどのやけどを負った事件について、私たちは本人に独自取材を試みました。』
一昨日受けたテレビの取材のことだろう。随分仕事が早いらしい。
大袈裟な音楽とともにVTRに流れるのは、私のこれまでの経歴だ。
―――小学一年生にして東京大学で航空宇宙工学の大学教授である父の影響により趣味で天体望遠鏡による宇宙観測を開始。
翌年の自由研究ではA4紙50枚分にも及ぶレポートを提出し県の特選賞に選ばれ、それがJAXAの所長の目に止まりJAXA職員との対談が実現。宇宙に関する熱意だけではなく独学で学んだ物理学の知識により職員とも対等な対談を実現し、その名は一躍世間の間でも有名となる。
―――小学三年生で英検1級を取得。趣味で始めたバドミントンでは全国2位となり、バドミントンを始めて半年の少女が全国2位という実績により、日本国内では『天才少女』としてその名が知れ渡る。その後、四年生で行われた大会で全国一位を獲得し、更に名が広まる。
―――父の近藤明氏は東京大学出身で、高校生の時全国模試で1位を取ったこともあるエリートであり、NASAともコネクションがあると噂されている。
そんな、もう何度も聞いた話が流されたあと、いよいよ肝心の火事の場面が始まる。
だが。
VTRとともに流れたのは、インタビューに対してそっけない私の応答を都合よく切り貼りし、悲壮そうなBGMとともに無理やり感動モノに持っていこうとしただけの、平たく言ってしまえば捏造そのものであった。
「……ッ」
唇を噛む。
どいつもこいつも、こんな狭い世界で、ゴミのような紙切れを手に入れることだけで手一杯らしい。
―――本当に、救いようがない。
きっと宇宙のことなんて、考えたこともないんだろう。
好奇心も感受性も、欠片もないような。自分を取り巻いている世界がどれだけ広いのか、そんなことにすら興味を持てない人間など、生きる屍も同然だ。
「しんじゃえばいいのに」
「あ、あのー……」
口の中でそう呟いた直後、看護師の申し訳なさそうな、気まづそうな声が聞こえた。
慌てて振り返ると、そこには朝私を起こした水色の髪の、20代くらいの看護師がいた。テレビに夢中で気付かなかった。昼ご飯を届けに来たのだろう。
恐らく、今の発言も聞かれている。
別に興味もないが。
看護師は整った顔を困ったように歪めながら、机に昼ご飯を置く。ロボットみたいにガクガクと動いていて、笑いそうになってしまうほど滑稽だ。
まぁ、テレビで見たことがあるような少女がそんな物騒なことを言っていたら動揺するのも分かるが、にしても露骨すぎだ。
「ま、まぁ人には色々ありますからね。では……」
そう、よく分からないことを言って看護師が出ていこうとした、その瞬間だった。
「―――え?」
先に異変に気づいたのは、床に足をつけている看護師だった。
「あ、地震だ……」
その言葉をきっかけに、私もほんの少し、地面が揺れているのを感じる。とはいえ、ここはそれなりに新しく耐震設備もしっかりした病院だし、震度も恐らく2か3程度。
さほど気にする事はなく、早く出ていってくれと心の中で思いながらベッドにくるまろうとして―――
「きゃぁぁぁぁあ!?」
ドンと地が割れるような、世界が終わるような、そんな音が聞こえたような気がした。
寝ている身体が大きく揺さぶられる。激しい縦揺れで百キロはあるだろうベッドが私とともに軽々と宙に浮き、私は思い切り床に叩きつけられた。看護師の悲鳴が耳に届く。
足の痛みが再燃し、私は悲鳴をあげそうになるのをぐっと堪えてなんとか手すりを探す。だが、激しすぎる揺れでろくに立ち上がることも出来ない。揺れる。揺れる。冗談じゃないくらいに、建物全体が揺れている。
パリンと、病室のガラスが割れた。
痛みに思考が支配される中で、先程の揺れは初期微動だったのだと、僅かに残った理性が冷静に分析を始める。
「舞香さん!?大丈夫ですか!!」
看護師の声が響く。彼女は、水色の髪を振り乱し這いつくばりながら、なんとか倒れ込む私のそばまで這ってくる。
揺れは収まらない。
もう15秒は経っているのに。あまりにも、揺れが長すぎる―――!!
ふと、上からミシミシと、嫌な音が聞こえてくるのを捉えた。釣られて、私と看護師は天井を向いた。
―――かすれた声が漏れる。
ここは、5階建ての大学病院の3階だ。
設備は新調されていて新しく、病院自体は多少古いがそれでも充分な耐震設備が兼ね備えられている。
だから、こんなことはありえない。ありえない、はずなのに。
病院の天井が、異音とともにひび割れる。ヒビはどんどん加速するように、割れが広がっていく。
揺れは収まらない。
死ぬのだと、直感的に理解して、目を閉じる。
ただ、看護師だけは諦めなかった。
逃げることは叶わないと理解すると、必死になって私へと覆い被さる。ろくに立てもしないほどに揺れている地面を這いつくばって、ひび割れる天井から私を守るように、ぎゅっと私の体を抱き締める。
看護師の顔が、目の前に映る。
―――泣いていた。
恐怖に顔をゆがめて、それでも私を守ろうと、泣いていた。
きっと、この人だってまだ若い。彼氏だって、大切な人だっているかもしれない。なのに、こんな生意気で愛想の悪い小学生を守ろうとして。
「天才さんには、死んでもらったら、困りますからね……」
看護師がつぶやく。やっぱり、私のことは知っていたらしい。
天井のひびが、さらに広がる。
あの火事がフラッシュバックして、私は苦笑した。
また、お前は誰かに守ってもらうのか。
そんな、自分自身の声が聞こえた気がして。
でも。
「―――きっと今回は、助からないな……」
そう、口の中で呟いた直後。
天井の異音がピークに達して、物凄い轟音とともに病院が崩落した。
―――助けて、お兄ちゃんと、そんな心の声は、最後まで口に出せないまま。
私は死んだ。
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