汝は妖狐なりや?
小型の虫が腕の上を這い回る感触が走り、私の身体は椅子から転げ落ちた。クソッタレ。私は痛みを堪えながら腕に目をやった。よく見ると腕時計であるはずの物体が、六角形状の文字盤の裏から蜘蛛のような脚を生やして蠢いている。私は顔をしかめて、台湾製の潜水腕時計を腕から引き剥がした。水中用アラームといえど、やりすぎだ。
私より遅く眠りから目覚めたディスプレイに、耳当てを上げた鹿撃ち帽、鋭い双眸、尖った鼻、そしてマホガニー材の喫煙具を咥えた男が映る。男の背後には液体の入った試験管やフラスコが見えた。まるで太古の昔に流行った映画のワンシーンのようだ。
確かボスから話半分に聞いたことがある。かつて英国にこのような風貌をした名探偵がいたと。話が本当だとすれば、この名探偵を操っている人物は英国人だろうか。
「この度はミラージュ・ペルソナ・サービスをご利用いただき誠にありがとうございます。ご用件をどうぞ」
私はヘッドセットマイクに向かっていつものように極めて事務的に、しかし営業用の明るいトーンで話しかけた。
客の要望に合わせて自分自身もカメラに顔を映してはいるが、それは巧妙に偽装したアバターだった。ディスプレイ越しの客の下には、容姿端麗な架空の女の姿が届いているはずだ。
ただし、そのアバターも客が余計な猜疑心を抱かない程度にあえて整形されている。そして、音声も耳障りの良さだけが特徴の没個性的な声に調律されていた。
今の私はカメラの前で肘掛け付きのゲーミングチェアに腰掛け、床に打ち付けた尻を擦っていた。こんな業務態度でもアバターは自動的に畏まったOLを演じてくれる。体勢だけは気楽なオフィスで助かった。
「見たところ、寝起きのようですね」
名探偵は私を舐めるように眺めた後、一言だけ呟いた。その通りだが、どうして寝起きだと知っている、いや、分かったのだろうか。私が内心では驚きつつも黙っていると、名探偵は「お気になさらず」と含み笑いを浮かべながら、ミラージュの規則に則って自分の市民IDと紹介状のパスコードを送信してきた。
手元の端末が解読した紹介状の内容をディスプレイに吐き出す。紹介状には最近、警察沙汰になった新興宗教団体を主宰する神父の名前が書かれていた。
うちは老舗でも大手でもない、ボスを含めて3人のしがないペルソナ・ディーラーだ。顧客の要望に合わせてAIの人格を仕入れて売り捌く。AIよりまともな人格の客が金を落としてくれれば有り難いが、往々にしてこの手の商売は詐欺師と軽犯罪と面倒事のオンパレードだった。
だからこそ、ミラージュは取引先がつまらない事件を起こさないか常に吟味し、使える情報がないか調べ尽くしている。危険な取引に手を出さないために、注意を払いすぎることはない。下手をすれば、こちらまで警察の厄介になる恐れがあったからだ。
そのような執拗な吟味を掻い潜り、違法な取引先から紹介されてきた顧客がまともである可能性は限りなく低い。そのような輩を相手にしたことで芋づる式に捜査の手が及び、ミラージュの営業に支障を来したことは一度や二度では無かった。勿論、これまでの容疑はすべて冤罪だ。
どこから紹介状を手に入れたか分からないが、ここはさっさとお帰りいただくことにしよう。グッバイ、名探偵。私がお断りの言葉を吐き出そうとした時、名探偵が鹿撃ち帽を取った。広々とした額が顕わになると、一気に老け込んだ印象を受ける。
「ミラージュ、面白い社名ですね。取引に事件性があっても、蜃気楼のように消えてしまう。誰にも営業実態を掴ませない」
「……冷やかしですか?」
「毒物を取り扱う時には注意しなければ。貴方にとっても。そうでしょう」
芝居がかった態度で名探偵は紫煙をくゆらせ、寛いだ様子でロッキングチェアを揺らした。私からしたら、お前こそが毒物だ。
「とある興味深い事件について、お話ししたいと思っています。お付き合いいただければ、ミラージュが違法なペルソナの売買に関係したことは忘れましょう」
まさか脅しをかけられるとは、面倒なことになってきた。この名探偵が何を知っているか分からない以上、長く付き合わないほうが良い気もする。しかし、彼が本当に何か知っているとすれば、野放しにするわけにはいかない。私は仕方なく名探偵の探偵ごっこに付き合うことにした。
「事件と仰っしゃりますと……?」
「その前に、先にお名前を。ミズ?」
普段であれば名前なんてものはアルゴリズムが適当に選んでくれるのだが、この日の私はつい調子に乗ってしまった。
「それではワトソンで」
「この会話にピッタリです」
名探偵は笑みを浮かべて鹿撃ち帽を帽子掛けに向かって放り投げた。鹿撃ち帽は回転しながら飛んでいくと、見事に支えに収まった。すべて仮想空間の中で演繹された、ただの演出だ。私は名探偵を喜ばせてしまったことで一瞬、自己嫌悪に陥った。
段々と億劫になってきたので、会話の主導権を明け渡してしまおうと思い、私は素朴な疑問を口にした。
「ところで、どうして貴方は私が寝起きだと思ったんですか? アバターを介して会話しているのに」
「眼球の不随意運動ですよ」
名探偵は自分の目を指差した。
「アバターの視線が僅かに揺れていました。つい先程まで正常な座位ではない姿勢を取っていて、頭部を急激に動かしたのでしょう。そうした体位変換に伴って誘発眼振が起こり、アバターの視線の動きに反映されたのです。そうなれば後は簡単です。床を這って何か探しものをしていたか、仮眠を取っていたか。後者のほうが確率は高い」
「なるほど」
アバターのわずかな動きから相手の状態を推理するとは。優れた観察力は流石、名探偵と言ったところか。私は少しだけ名探偵を見直した。
「さて事件の概略ですが、ペットの殺害事件なのです。しかも残虐な」
名探偵の薬品で汚れた指が卓上を滑り、一冊のスクラップブックを掬い上げた。スクラップブックを開くと、糊付けされた写真がディスプレイに映し出された。そこには一匹の狐が、飼い主と思しき女性に抱かれた姿で映っている。舌を垂らして嬉しそうな表情を浮かべている様は、まるで懐いた犬のようだ。
「これは大変痛ましい事件です。殺された狐の飼い主であるハドスン夫人はペットの死を悼み、そして誰がこのような惨たらしい事件を起こしたのか知りたいと、私に調査を依頼しました」
写真をよく見ると、狐の首にはリストバンド型の有機デバイスが巻き付いている。しかも、ただ巻き付いているだけでなく、生体に半ば融合していた。つまり、これは単なる生身のペットではない。
「アンドロイドですか」
「左様。このエキゾチックな生物を模したペット型アンドロイドは、自宅に設置されていたペット用の医療マシンを使って命を奪われたのです」
スクラップブックのページをめくると、前脚に採血用のチューブを挿したまま、血溜まりの中で死んでいる狐の写真が大写しになった。たとえペルソナによって知性を得たアンドロイドと言えども、その身体の大部分は有機物だ。可愛らしい小動物の画像ならいざ知らず、こんな画像を用意するなら先に断りを入れてほしいものだ。
しかし、名探偵は眉一つ動かさず、あらゆる角度から撮影された狐の死体画像を指差しながら一つ一つ確認していく。私からすれば、どれもこれも同じようにしか見えないのだが。
「さて、ミズ・ワトソン。一体、誰がどのような目的で狐を殺害したのか。推理できますか?」
その推理を披露するのが名探偵様のお仕事ではないのか。それともこれはミラージュに対する挑戦なのか。私は少し思案して、極めて淡白な意見を開陳した。
「医療マシンの不具合では?」
狐の死体は医療マシンの上にあったのだから、素直に考えれば医療マシンが狐殺しの犯人だろう。採血しようとして誤って大量の血を抜いてしまい、狐は死んだ。だが、それだけの事件であれば全く興味をそそられる内容では無い。どちらかと言えば単なる事故だ。
「残念ですが、医療マシンに不具合は見つかりませんでした」
あっさりと否定されてしまった。予想はしていたけれども。
「それでは、医療マシンが意図的に狐を殺したということではないですか? 医療マシンもペルソナを持っているはずですから。実は医療マシンのペルソナは隠れてペットを殺してきたサイコパスだったとか」
「そうですね。確かに、医療マシンが狐を殺したのは事実です。それでは、その動機は分かりますか?」
「分かりません」
「そうですよね。動機が無いのです。ミズ・ワトソン」
名探偵は面白がるように私を見た。何がそんなに面白いのだろうか。
「ペット用の医療マシンと言えども、その仕事は病気を診断し、怪我を治癒させることです。医療マシンのペルソナはアンドロイドの供給会社が独自に手配したもので、模範的な医療従事者の人格を有しています。医療ミスも全く無い。医療マシンのペルソナに異常が見られない以上、医療マシンの意思が事件の原因に繋がったとは考えられないでしょうね」
探偵野郎は得意気な表情で喫煙具を吸った。そこまで調査できているなら、何故、私にわざわざ間違った推理を話させるのか。逆に聞きたい。
「それじゃあ、狐を飼うのが面倒になって、飼い主が殺したんじゃないですか?」
私がぶっきらぼうに言うと、探偵野郎はチッチッチッと舌を鳴らして人差し指を小刻みに振った。いちいち癪に障る野郎だ。
「写真を見れば一目瞭然ですが、飼い主は狐に愛情を注いでおり、狐も彼女によく懐いています。最早、家族の一員と言っても過言ではない。そのような愛らしい存在を自らの手にかけるほど、飼い主が精神的に参っていたという事実もありません」
飼い主が犯人だという線も無し。
「では、近所の人間が飼い主に怨嗟か嫉妬心かを抱いて、医療マシンに細工して狐を殺したのでは」
「ミズ・ワトソン。やたらめったら推理を口にすれば当たるというものではありませんよ。家のセキュリティシステムには、誰かが家の内部に侵入したという記録は残っていません。それに、近所の人間が飼い主を恨んでいたということもありませんでした」
謎めいた笑みを浮かべる探偵野郎はスクラップブックのページをめくって、わざとらしく拡大鏡でページに書かれた文字列を眺めた。
「狐は自らの意思で、検査のため採血するように医療マシンを設定し、検診プログラムを実行しました。医療マシンは設定された通りの検診プログラムに従って狐の脚から採血を開始しましたが、何故かチューブを挿して採血が始まると停止しています」
そこまで言うと探偵野郎は再び紫煙を吐き出した。きつい煙草の匂いがディスプレイ越しに届かないことだけが唯一の救いに思えてきた。
「医療マシンの動作中に予期せぬ割り込みが入り、検診プログラムが妨害されていたのです。その結果、医療マシンは狐の脚から出血を促した状態で停止し、狐は失血死した」
予期せぬ割り込みがあったのなら、医療マシンはそこで動作を停止して、被害を最小限に抑えるためのフェールセーフ機構が働くのではないだろうか。今回のケースであれば、失血しないようにチューブを抜き取って止血するとか。フェールセーフな動作を行わなかったのなら、それは医療マシンの瑕疵であるような気もする。それとも、そこまで計算尽くで事件を起こしたのだろうか。
「犯人は巧妙にプログラムを書き換え、医療マシンを殺人マシンに変えたのですよ」
「一体、誰がそんな残酷なことを?」
私の問いに対して、探偵野郎はロッキングチェアから立ち上がって書斎の中を歩き始めた。勿体ぶっていないでさっさと答えてほしい。そして、一刻も早く英国にお帰り願いたい。
「狐自身が、ですよ」
「はい?」
狐が医療マシンを操作し、自ら命を断った? 確かに可能ではあるが、目的が分からない。
「どうしてそんなことを。バックアップがあるとは言え、自分が死ぬんですよ」
「勿論です。しかし、狐にとっては自ら死ぬこと自体が目的だったのですよ」
「どういう意味ですか?」
探偵野郎はグラスに氷とスコッチを注ぎ、手のひらの上でぐるぐるとグラスを回した。
「最近のアンドロイドは長寿です。野生の狐が10年程度しか生きられないのに対して、アンドロイドの狐は30年近く生きられる。それに加えて少食で、疫病にも罹りにくい。遺伝子操作の賜物です。さらにペルソナを搭載しているおかげで、怪我をしても自分で医療マシンを使いこなして治癒してしまう」
一般的に考えれば、ペット型アンドロイドは良い事づくめのように思える。手間もかからない理想のペットだ。しかし、そのようなアンドロイドとしてのペットの特徴が、狐の自殺と何の関係があるのだろう。私が首を傾げると、名探偵はスコッチを一口飲んで、グラスをテーブルに置いた。
「世話要らずのペットなど、ペット産業にとっては売上に打撃を与えるだけの邪魔者です。自宅で簡単にペット型アンドロイドを治療できる医療マシンのせいで、獣医師の職も奪われてしまいました。ペットは愛され、手を尽くされてこそ、初めて意味を持つ存在なのです。だからこそ――」
パチンと指を鳴らして、探偵野郎はこちらを振り返った。
「狐が事故に見せかけて自殺するように、アンドロイドの供給会社が狐のペルソナに罠を仕組んだのですよ。たとえ一度や二度、死んでしまっても、愛するペットであれば生き返らせたいと望むのが飼い主というものでしょう。アンドロイドの買い替えを促すには良い機会です」
確かに、最近はアンドロイドの耐久性が上がっていて、よほどの理由が無ければ買い替えを行わない持ち主が増えてきている。アンドロイドのメンテナンスも軽減されているし、アンドロイドの供給会社が売上で苦戦するというのは尤もだ。
「飼い主の愛情を利用して、アンドロイドを継続して購入するように、アンドロイドの供給会社はこのような自殺機構をペット型アンドロイドを仕組んだ。ペット型アンドロイドには知性があるとは言え、その処理能力はせいぜい幼児に毛が生えた程度です。医療マシンを誤って操作してしまい、事故死したとしても疑いはかからない」
腑に落ちるような落ちないような。それが名探偵の推理だとすれば、どこか肩透かしのようにも思えた。しかし、可能性としては有り得る話だ。
「ここまでの推理を立証する必要があります。そこで、狐のペルソナを調べていただきたい。自殺に至るような、繊細な性格であったことが分かれば良いのです」
紆余曲折を経て、ようやく名探偵は結論に至った。自信たっぷりに自分の推理を語っておきながら、結局のところ証拠が無いというのでは格好が付かない。だから、ミラージュを脅して、上手いこと有利な証拠を引き出したいというのが本音なのだろう。
「承りました。ペルソナを調査するように手配いたします」
「ありがとう、ミズ・ワトソン。これで飼い主にも納得してもらえるでしょう」
「結果は後日、お知らせいたします」
「楽しみにしておきますよ。これで私も違法なペルソナの売買に関する事件を忘れられます」
名探偵はスコッチを飲み干し、通信を切断した。
***
今、私のディスプレイにはペルソナの調査結果が表示されている。ペルソナの性格を診断した結果、小動物を痛めつけたり殺したりする残虐性の傾向が見られた。このような反社会的な傾向を持つペルソナであれば、ペット型アンドロイドの狐を失血死させても不思議ではない。しかし一方で、それが獲物を狩る習性を持つ狐のような動物のペルソナであれば、妥当な傾向とも言える。
ただし、ペルソナの本体は狐ではなかった。これは医療マシンに搭載されていたペルソナだ。そして肝心の狐には、善良で繊細な医療従事者のペルソナが搭載されていた。
「替え玉か」
私のディスプレイを後ろから覗き込んで、同僚が眼鏡を押し上げた。狐が検診プログラムを走らせる直前、狐と医療マシンのペルソナは入れ替わっていた。狐は医療マシンに成り代わって、自身の身体のみを殺したのだ。つまり、狐の死は事故死でも自殺でもない。これは故意に起こされた事件だ。
「狐のペルソナに細工して、事故死に見せかけるように仕組んだのはアンドロイドの供給会社でしょうね。アンドロイドの買い替えニーズを作ろうとしたんでしょう」
アンドロイドの供給会社から見れば、ペット型アンドロイドを殺された飼い主からの訴訟や賠償金の支払いに備えるよりも、ペット型アンドロイドを殺して本体を買い替えさせるほうが利益に繋がるのだろう。事故死と思われるペットの死について、わざわざ調べさせるような飼い主が何人もいるわけでもないだろうし。
一方、探偵野郎の素性を調べたところ、彼は保険会社の調査員であることが判明した。確かに「調査」とは言っていたが、名探偵は所詮、演技に過ぎない。
探偵野郎は調査員という立場を利用して、殺害の証拠となるペルソナのすり替えをもみ消し、保険が下りないように動いていた。いかにペット型アンドロイドと言っても、自殺したとなれば死亡保険金は支払われない。飼い主にもきっと、狐がただ自殺したとだけ伝えて、これまで通りに保険料をふんだくるつもりだったのだろう。
だが、ミラージュを脅そうとしたのが運の尽きだった。探偵野郎の市民IDはブラックリストに追加されることになった。もう二度と顔を拝むことはないだろうし、ミラージュの情報を掴むこともできないだろう。
何故なら、私たちはミラージュなのだから。