第七話「隠し事」
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「答えはこれだよ」
僕が中学の連立方程式の手順を教えると、糸月ちゃんは呑み込みが早く、みるみるうちに解いてしまった。
「あたし数学が苦手のほうだったから」
「ううん、糸月ちゃんはもともと素質を持ってるよ、覚えも早くて」
「でも、成績がいい人は教え方もうまいって言うよ」
僕をおだててくれて、とても心に染み入る。
糸月ちゃんの宿題のノルマがスピーディーに終わった。
「ありがとぉ、助かったよお兄ちゃん」
「どういたしまして、ふつつかな点などございましたらお許しください」
「お兄ちゃんはパーフェクトだったよ。パーフェクトだったから、あたしをパーフェクトにしてくれた。文句なんかあるはずないよ」
パーフェクトなんて言葉を言われたのは、僕にとってはじめてだ。姉貴に完璧だと言われたことがないのだから。
そういいえば、年下の子に勉強を教えたのは生まれてはじめて。
「さぁ、ぼちぼち終わったところで」
ずっと二人が待ちかねていたことをする。
「サンドイッチ作りに挑戦だ!」
「一緒にガンバだ! お兄ちゃん!」
すでに材料は買いそろえていた。
パリッとした焼きたてで香ばしさを出しているフランスパン。糸月ちゃんにはこれをパンナイフで切ってもらう。
「切っていくよー」
焼きたて香ばしい匂いがこちらまでくる。糸月ちゃんがパンを切る音だけで、食べる前なのに、おいしさを感じた。これは完成したら絶対においしい。
「お兄ちゃん、具材の投下お願い」
「まかせておいて」
そう言いながら、パンに挟み込むためのポテトサラダを作り始める。
「お兄ちゃん、具材の追加お願い」
「お待たせ、いまできあがったよ」
さてその次に、ホイップクリームを作り、輪切りにしたイチゴと缶詰のミカンと混ぜる。
「お兄ちゃん、最後の仕上げ!」
「はい、みんな大好きな甘いスイーツ」
そして次はレタスとハムとトマトの番だ、これは崩れないように切り方に工夫を入れる。丸いトマトを丁寧に切るのに苦心しつつ、なんとか輪切りにした。
ポテトサラダとスイーツはスプーンでパンに挟んでいく。最後のレタスとハムとトマトを豪快に入れて、サンドイッチは完成した。
「やった」
笑みを浮かべながら、茶の間にサンドイッチが綺麗に並んだ大皿を運び、食卓に載せる。
「いただきます」
「いただきまぁーす」
僕と糸月ちゃんが手を合わせて、サンドイッチを手に取ろうとした。
しかし、それを邪魔するようにスマホが鳴り出した。糸月ちゃんのスマホが。
「もしもし?」
着信に応答して、糸月ちゃんが曇った顔を見せながら、電話の向こうにいる人間と話しかける。
「うん、うん。え、いま? ダメだよ」
何か困った顔をしているよう。
それで、何度か断りの言葉を入れるものの、どうしても無碍にできないようだったので。
「わかった、いま行く」
スマホを切ると、糸月ちゃんは立ち上がって、僕に申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん、用事ができちゃった」
「どうしたの?」
「お兄ちゃん、先食べてて」
そう言ってから僕は昨日のことも引っかかっていて、やはりあれは夢じゃなくて……。そう逡巡していると、糸月ちゃんはそんな僕の顔がとても気になったのだろう。
「心配しないで、ちゃんと帰ってくるから」
なぜそんな仰々しいことを言うのだろうか。胸がざわめくのを感じて、僕は不安に駆られる。杞憂に終わればいいのだが。
「う、うん」
そうして玄関まで見送って、糸月ちゃんが申し訳なさそうに頭を下げるのを、僕をまっすぐ見据える。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
背中を見せて糸月ちゃんは玄関を飛び出していった。
食卓の場に着き、僕はサンドイッチを頬張る。ホイップクリームのサンドは、甘みと酸味が効いてとてもおいしかった。けれど、おいしいと言葉にできない。いまこの場に、「おいしいね、これ」と言い合える人がいないから。
「寂しいな」
顔を俯けて、気分が重くなる。サンドイッチはとてもおいしいのに。
夜半を前にして、手順通りに切った具材を煮込んだ後、カレーのルウを鍋に入れてぐつぐつとさせる。辛味と旨味が凝縮された匂いが鼻をくすぐる。
「糸月ちゃん、どこへ行ったんだろう?」
彼女はまだ帰ってきていなかった。
カレー作りを中断させて、彼女を探しに行くべきだろうか?
気後れするが、とりあえずカレーを作ってから考えようと思った。
カレー作りは終わった。糸月ちゃん不在の席を前に、ぽつんと二皿のカレーを見つめていた。
「遅いな、糸月ちゃん」
カレーをラッピングして冷蔵庫の中に入れてから僕は、彼女を探しに行く決断をする。
いてもたってもいられなかった。僕は外に出る。糸月ちゃんを迎えに行くために。
商店街や公園、また中学校など、彼女がいそうなところを回っていく。
やはりこういうときもあるから、僕のスマホのメアドか、もしくは家の電話番号を教えておくべきだと悟った。
けっきょく、彼女は見つからず終いで、家に帰る。
商店街は居酒屋も多く、この時間は夜の街として佳境に入ってきた感がある。
おじさんと女子高生が連れ合うところもちらほらと見える。どう見ても、これから何をするのか明らかなんだけど。
もしかして、糸月ちゃんも……。その一瞬、女子高生の顔が糸月ちゃんと重なって見え、僕はいけないと思って首を振り、そんなはずないと心の中で否定した。
もしやと思い、今日買い物に訪れた店も入ってみることにした。生鮮食品が安いスーパーと、ベーカリーショップ、そしてカレールウを買ったコンビニに入って彼女を探す。いない。とぼとぼとコンビニの自動ドアを開かせて、出て行くと「こいつじゃまうぜえ」と言う声が聞こえてくる。半眼で視線を悟られないよう後ろを見る。高校生くらいの女子がたむろしてタバコを吸っていた。こういう人間とはあまり関わり合いになりたくない。
夜の九時頃に帰ると、出がけに消灯したはずなのに、家の中が明るくなっていた。合鍵は渡しておいたので、糸月ちゃんが帰ってきたのだろうと思う。
「ただいま」
返事がない。けど、糸月ちゃんの靴があった。ああよかった。
冷蔵庫のカレーがひとつなくなっていたので、糸月ちゃんが食べたことがわかる。
「糸月ちゃん……」
家中に聞こえるくらいの適度な声の出し方で、彼女の名前を口ずさむ。しかし、返事がない。
僕は二階に上がり、糸月ちゃんの部屋に入る。彼女は布団の中に潜り込み、すやすやと眠っていた。
僕は怒るまでもなく、彼女にそっとつぶやいた。
「おかえりなさい」
何も気にしてなかった素振りの声で糸月ちゃんに言う。
「……お兄ちゃん」
襖戸を閉め終わる前に彼女の口から声が漏れる。
僕を呼んで後、何を答えるか待って、僕は戸を閉める手を止めた。
「カレー……おいしかったよ」
僕はうんうんと頷いてから、そっと彼女の部屋を後にして、階段を降りた。
怒りも詮索もしなかった僕は、少しだけこの彼女の不在時間に対して、心を配るほどに気になっていた。親身でもないのに、そういうことを気にするようになったのは、やはり僕がお兄ちゃんになったからだろう。
彼女は、いったい、何をしていたのだろうか。