第六話「妹との接し方」
◆
「お兄ちゃん!」
糸月ちゃんの優しい声がして襖が開かれる。僕はゆっくりと起き上がった。
「あ、まだ寝てたんだ。ごめんなさい」
なんか夢を見たような気がするが何の夢を見たのか記憶にない。それだけ深く眠っていたのだろう。
糸月ちゃんは爽やかな緑色をしたTシャツとジーンズ姿をしていた。右手にコンビニ袋をぶらさげている。
「いま、何時?」
「八時半」
「げっ」
寝坊してしまったが、とても気持ちよく眠れた感じが消えない。
早起きは三文の徳というけれど、僕にとって叩き起こされるのは眠気を無理矢理殺して惰性でしぶしぶ起きて居間に足を運ぶことだから、かえって損していた。それが辛かったから、今日の僕はとても幸せだ。なにぶん、それを咎める姉貴がいないのだから。
布団から完全に出て、だらしのない寝間着姿を糸月ちゃんに晒し、飛んだ赤っ恥をかく。
でも糸月ちゃんがほくそ笑んで、「いやだぁ、お兄ちゃんったらぁ」と冗談めかして言うので、僕も自然に笑みが零れた。朝寝坊を怒られないなんて、なんとありがたいことか。
「ごめん、ご飯どうしようか、糸月ちゃん」
「大丈夫だよっ、コンビニで菓子パン買ってきたから」
「ありがとう」
糸月ちゃんが先に階段を降りた後で、脱いだ寝間着を布団の隣に放って、だらしなくも部屋の有様をそのままにし、普段着姿になり茶の間へ。
「こちら粗茶になりまぁす」
茶の間には皿の上にある菓子パンの他、急須と湯飲みが置いてあり、ふたつの湯飲みにはお茶がなみなみと浸されていた。「粗茶」と言って用意してくれるのはありがたいけど、僕は茶筒を見る……これ玉露なんだよね。
「パンをありがたくちょうだいいたします、糸月ちゃん」
「どうぞどうぞ」
そうやって芝居がかった風情を見せながら、僕たちはパンをかじって味わった。
「……」
無言が訪れる。
「おいしいよ、ね?」
「おいしいか、な?」
糸月ちゃんと僕の口から微妙な感想が出る。
僕も購買でたまにパンを買うけれど、このパンは甘すぎる。それはいつも通りの味だ。けれど。
「昨日のナポリタンのほうがうまかったよ」
「昨日のナポリタンのほうがおいしかったね」
異口同音とはまさにこのこと、僕と糸月ちゃんの会話が見事に合致して清々しい。
そして、もうひとつ言えることがあった。
僕はきっと菓子パンずくめの生活は耐えられない。
いま目の前に菓子パンの山が積まれたら、遠慮したい。
実を言うと、僕は自分の家でまともに料理を作ったことがない。昨日、僕は自分で作った料理の格別さを知ってしまった。学校の家庭科でも自分の料理に感動することはあったけれど、そのことを忘れていた。
「お兄ちゃん」
「うん」
僕は糸月ちゃんが繰り出す次の言葉をすでに予想していた。
僕と糸月ちゃんの意見はそう。
「一緒にお昼ご飯作ろうよ!」
僕と糸月ちゃんが揃って笑う。
とりあえず、甘すぎる菓子パンを片付けるために、がつがつと食べる。
今日は昼ご飯と夕ご飯の材料を買いに行こう。そう決心していた。
「ところで、糸月ちゃん。昨夜どこかに出かけなかった?」
「そんなことないよ」
そうか、やはり僕の勘違い、もしかしたらあの着信音は夢の中の出来事だったのかもしれない。
けれど、僕はもうひとつ気になることがあった。
「糸月ちゃん、風邪引いた?」
「え、あたし元気だよ」
「そっか、喉がガラガラしてるから、てっきりそうだと思ってたんだけど」
僕はそう言いながら、最後のパンのひとかけらをがっついて飲み下した。
◆
「ごちそうさま」と朝ご飯を終えて、俺は姉ちゃんを見た。
姉ちゃんが食後のタバコを一本取り出し始める。
俺がカメラで撮りたいベストショットは、気だるげそうにタバコを吹かす姉ちゃんの格好よさだ。といってもまだ撮ったこともないし、見たこともない。だけどきっと絵になる。
「なんだ?」
タバコに火をつける寸前で俺の視線に気づいたのだろうか。姉ちゃんが問いかける。
「なんでもないよ、姉ちゃん」
俺は途端に気持ちが落ちる。昨日のことでさすがに気まずくなって、俺はちょっとだけ俯いて二階の自室に上がる。
勉強机の椅子に座って、夏休みの宿題に向き合う。薄い英文短編小説を一冊渡され、それを全訳するという骨の折れる宿題だ。
英文の中にMy sister is...と出てくる。この場合、My sisterは姉ちゃんなのだろうか、それとも妹なのだろうか。oldもyoungもついていないからどっちつかずで困る。文脈で判断するしかないか。
だけど、途中から辞書を放り投げて、ただ闇雲にフィーリングで読んでいくに従って、この英文小説の意図がわかってきた。これは、My sisterが妹なのか姉なのかを言い当てるための小説なのだと。もしかしたらこれはミステリー小説なのかもしれない。
だが、俺にはそれを推理する灰色の脳細胞を持ち合わせていない。夏休みを潰してこれを考えるのにふさわしい小説だと思う。
俺は英語の宿題を途中で諦め、数学を解き始める。
微分は俺の得意分野だ。なんてことはない。だって、Xの右横の数字をひとつ拝借して左にかけ算してやればいいだけの話じゃん。
と、一冊の問題集に対して啖呵を切ってみたが、最初からドがつくほどの躓きをするとは。
――微分の定義に従って、Xの2乗を微分したものが2Xになることを証明せよ。
なんてこったい。微分の定義ってなんだよ。微分は引き算してかけ算するんじゃないのかよ。なぜいまさら証明問題? といった感じで豆鉄砲を食らった気分だ。
そのときだった、俺の自室のドアをノックする。
「熱彦、入っていいか?」
「姉ちゃん、いいよ」
ドアがきいっと開かれ、姉ちゃんが入ってきた。
「夏休みの宿題してたのか?」
「俺もまがりにも高校生だからな、宿題くらい七月中に終わらせたいんだ」
「なるほど、感心するな」
だが、一問目から蹴躓いた俺は、半分苦笑いで姉ちゃんに聞く。
「聞きたいんだけど、姉ちゃんって数学得意?」
「得意中の得意だが?」
「よっしゃ、手伝ってくれないか?」
「手伝わない。ヒントだけはやる。宿題を見せてくれるか」
姉ちゃんは問題集を眺める。でも微分の定義に従ってやれなんて無茶な問題、姉ちゃんには解けるだろうか。
「熱彦は、車を運転できることが、車を知ったことにはならないのはわかるか?」
「え?」
「簡単に言おう、自動車免許を取った人間全員が、車を作れるか? ということだ」
「あ、ああ、というか運転と製造ってまったく別次元の話だろ」
「そうだ。そういう意味で車を運転できることは、車を知ったことにはならない。それと同じことだ。熱彦は、微分ができても、微分が何なのか根本的にわかってはいないんだ」
そこで姉ちゃんは微分の定義について、「X」と「h→0」を交えた公式を使って微分とはこういうものだと示した。
「というわけだ」
「脱帽だぜ」
姉ちゃんの教え通り解いたら、この証明問題を簡単に解くことができた。
「姉ちゃんって、絶対、理系の大学だろ。何の学部学科なんだ?」
「コンピュータバイオサイエンス学部、応用生物工学科だが?」
学部学科を聞いてもさっぱりだった。
「熱彦、私は昨日、お前から話を聞いて考えた」
俺は昨日、姉ちゃんに悩みを打ち明けた。
古傷を持っていること、その古傷の原因が妹を守り抜いたことにあること、そのことを妹が知らないこと、それでいて妹が俺よりも高みにいること、何よりそのことが心をかき乱されるほどに悔しいこと。
「糸月は、今度秋の駅伝大会のスタメンに出るらしいんだ」
できれば俺はスポーツがしたかった。だけど、この古傷のせいでそれができないことはわかりきっている。
妹のことを素直に祝すことができなくて、頭をもたげる思いなのだ。
「熱彦は、妹とどう接するべきか考えているんだな」
「そうだ」
このもやもやした状態で、糸月とどう接するか。つまりどう付き合うべきかを、真剣に悩んでる。
「だが熱彦、お前は大事なことを忘れている。そもそも糸月ちゃんはどういう人間なのか」
「そんなの知ってるぜ、昔から」
「じゃあ、どうして熱彦は悩むんだ?」
糸月が何も知らずに、のうのうとああやって充実した毎日を送っているからだ。
「じゃあ熱彦は、どうしてあのとき妹を守ったんだ?」
「それは……」
「お前は知っていたはずだ、糸月ちゃんが可愛かったから、だからこそ糸月ちゃんを守った。もし妹のことを知っているなら、どうして妹との付き合う方で悩むのだ。私はこう考える、お前は遠い昔に糸月ちゃんという人間を置いてきてしまったんだ。守ってやりたいほどの可愛らしさだったという事実を、忘却の彼方に置き去りにしてしまったんだ」
それを聞いて俺は、沈黙するより他になかった。
「お前は、糸月ちゃんが守りたいほどに可愛らしい妹だったことを忘れている。そうでないなら、どうして妹との接し方でまず悩んでいるのだ?」
その通りだ、俺は糸月が何者なのか、忘れてしまっているのかもしれない。
あのとき守ったときの気持ちがあればこそ、いま糸月が何ひとつ不自由なく暮らしていることを、むしろ喜んでやるべきなのに。俺にはそれができていない。
「車を運転するのならば、運転技術だけ知ればいい。車のことは知らなくても、そのほうが効率的だからな。だが、人と付き合うなら、いま目の前にいる人のことを知るべきだ。人とどう付き合うべきかを真っ先に考えることは、道理にかなわない。そこに情が入らないからだ」
守ってやりたいほどの妹ならば、それなりの接し方は自然にできるはずなのに。俺はわざわざ妹とどう接するべきかを、別個で考えようとしてる。そして、この別個に考える行動自体がそもそもおかしいと姉ちゃんは諭す。
「『人間』というものは『こういう方法で付き合ったほうがいい人間』というものではない。それは人間と処世術を混同した悪習だ。そして熱彦、お前は、糸月ちゃんがかわいい妹だと思っていた時期があったはずだ」
ため息を吐いて、細目で俺を見る姉ちゃん。
「姉ちゃん、俺はどうすればいい?」
俺には考えに考えても答えが出せそうになかった。
「お前は一人ではない、昨日から私がいるだろ?」
「姉ちゃん」
「もうひとつの夏休みの宿題。必ず答えを出すぞ」