第五話「現実と地続きの夢を見る」
◆
茶の間のテレビが、ちょうどいい具合に眠気を誘い始め、「もうそろそろ寝ようか、お兄ちゃん」と糸月ちゃんが言う。
「そうだね、ふぁああ……」
ひさびさに夜更かしをした。夜中にあくびをするのもひさしぶりで。姉貴にさっさと寝ろと言われる時間帯をとうに過ぎていた。
コンセントを抜かずにテレビの電源を消す(この行動はいつもなら、姉貴に怒られる。待機電力の分だけ電気代を取られるから)。
そして、茶の間に座布団二枚を整えずに、そのまま二階に上がる。
「おやすみ、お兄ちゃん」
そう言って、姉貴の部屋……もとい、いまは糸月ちゃんのものになった部屋に彼女は襖を開けて入った。
襖がすっと閉まったところで、僕は口ずさむように言った。
「おやすみ、糸月ちゃん」
畳の上に布団を敷いて、寝間着に着替え、布団に潜り込む。
今日はなんだか布団の感触が心地いい。いつもだとなんだか寝苦しいのだが、今日はよく眠れそうだった。ふふふっと笑みが零れる。まさか、僕のところにあれほどかわいい妹が来てくれるなんてと心臓がいまでもドキドキ。なんで熱彦は、糸月ちゃんを邪険に扱うのだろうか。意味がわからない。その上、あんなにも憎たらしい姉貴を姉としてもらうことにとても不思議な印象を覚える。
電灯が消えた心地のいい暗闇に包まれて、おそらく一分のあいだも置かず。意識は瞼の裏の闇に淀んで沈んでいった。
不意に着信音が鳴った。いつも肌身離さず持っているスマホの音とは違う。
僕は眠気を伴った状態で手を伸ばし、スマホに触れてみる。
目を少しこじ開けて見てみるが、画面には何も表示されていない。
その後、着信らしき音が消えて糸月ちゃんの声が隣から漏れる。
「……こんな時間に……」
なんだろうか、誰かが電話をかけてきたのだろうか。
「……わかった、行く」
そう言うなり、衣擦れの音がして、襖を開けて僕の部屋の正面を通る足音がし、階段を降りた後に玄関扉から出る音を残していった。
半分眠かった僕は糸月ちゃんを呼び止めるのも面倒くさがってしまい、耳で彼女が家を出て行くのを様子見送るしかなかった。
なんなんだろうか、僕は不可解で仕方なかったが、いまさら糸月ちゃんを追えるはずもない。
仕方なく僕は再び目を閉じた。
いい夢が見られそうな気分だった。悪い夢なんか見るはずもない。熱彦は今日一日どうだったのだろうか、いい夢が見られる日になったのだろうか。
◆
俺は最近になってもあの夢を見る。
糸月がまだ四歳のころで、糸月のことが心配でしょうがなかったときの思い出が夢の中で何度も蘇る。
狭い道を走る妹を追いかける。あのころは、まだ俺のほうが体力的に上で、追い抜く自信がだいぶあった。
男子高校生の身体に糸月がぶつかった。高い身の丈から彼らは見下ろす。
三人の高校生。叱責と罵詈雑言を食らわてくる。自分たちにぶつかったことを、彼らはやすやすと許さなかった。
しまいには憎たらしいことに、妹の服をつかんで絶対に逃げられないようにした。
当然そこにいた俺も黙ってはいられない。奴らが掴んだその手を振り払う。
だが、その行為が彼らの怒りを頂点まで上げた。
ごつごつとした握り拳が俺の胸にぶつけられる。
息苦しくなって、咳き込む。
矢継ぎ早に、奴らの一人が平手を振り上げる。
糸月をかばって、俺は赤く腫れ上がるほど、何度も頬をはたかれた。
かばった状態で無抵抗も同然で俺は、奴らに何度も殴られた。殴る蹴るの暴行を受けた。
彼らの気が晴れたところで、三人は去る。
帰宅後、糸月の行動で俺がこうなったことを父母に知られたくなかった。せっかく守り抜いたのに、糸月が叱られては、俺の行動に意味がなくなる。だから俺は、堤防から落ちてあちこちぶつけてこうなったと父母に説明した。二人は暢気にハハハと笑い、事なきを得た。
赤かったのが一日で青くなった打撲のあざは、一週間も経たぬうちに消えた。
だが、数日して異変が起きた。
雨になると、身体の内側で痛みが滲んでくる。打ち身が比較的多かった右腕と左脚に痛みは集中した。傷は完全に癒えてなく、執拗なまでに身体の奥底に残り続けていたのだ。
糸月のせいでこうなったなんて言いたくなかった。それを言えば、糸月の心に深い傷をつけ、その傷はきっと永遠に残る。だからこのことを家族にも、まして糸月にだけは絶対に知られたくなくて、雨の日に体育をずる休みするか手抜きをするなどの手段を取り、今日まで巧みにごまかしてきた。
だからこそ、糸月が健康ですくすくと成長し、俺が見くびられるほどに体力がついたときには、「ああ、糸月は俺を超えたんだな」と思い、俺自身の兄としての威厳を保てなくなった。
糸月は覚えてない。あのとき高校生に殴られそうになったことも、俺がかばったことも。あのころのことを何ひとつ覚えてないのだ。
妹は遙か高みに登って、無邪気に俺を見下すんだ。
本当に傷ついたからこそ俺は、いまでも夢として想起させるほど、あのころのことを覚えている。
そして妹は覚えていないのだ。あのとき傷をひとつも負っていないから。
兄貴なりの精一杯の抵抗も空しい。俺が兄だと言っても妹は聞いちゃいない。自信がぐらつく、涙を流そうにも流せなかった。
俺のプライドは崩壊寸前。
無垢に、本当に無垢に、明るい声で妹は俺を呼ぶんだ。