第四話「今日まで隠してきた記憶」
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「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
遅めの昼ご飯を終える。俺の感謝の言葉に対して、姉ちゃんも呼応して手を合わせ、大皿が二つ置かれたテーブルを前に、一礼をした。
家の冷蔵庫にある残り物を使い、巧みに具材に仕立て上げ、試行錯誤で作ったオリジナル冷やし中華は、ほどよく冷えていて、具材の味も調和していて、麺の仕上がりもつるつるしててとても美味だった。
「まさか姉ちゃんがこんなにも料理がうまいなんて」
料理ができそうだとは思っていた。でも、ここまで手際よくて、おいしい料理ができるなんて。
「熱彦も手伝ってくれたおかげだ、助かったぞ」
俺も俺なりに不器用に包丁を使い、湯を沸かしすぎたことはあれど、なんとか食事を完成することができた。
そしてしばし談笑をする。
もちろん、糸月や未来治のことに言及することは避けた。というかすでに暗黙の了解である。この和やかな雰囲気を殺伐にしてぶち壊したくはない。俺も姉ちゃんもそのことを知っているのだ。ということで、俺も姉ちゃんも、自分自身のことを喋り、時節笑っていた。
この冷やし中華はとてもうまい。俺はハッキリ言って不器用人間だが、姉ちゃんはそんな風に捉えている風情はなかった。俺を観察しながら、不器用なりにできることをやらせ、調理の要所に俺を活躍させてくれた。
こんなにもいい人なのに、未来治は姉ちゃんのことが嫌いだなんて信じられなかった。
姉ちゃんはタバコを一本取り出してからライターで火をつけ、食後の一服をし始める。
「悪いが、自分の食器は自分で洗ってくれないか?」
「ああ」と言って、俺は自分の食器を持って、スライド扉向こう際の台所に持っていこうとする。
だが、そのときだった。
左脚の筋肉に電気でも流れたかのように激痛が走る。俺はたまらずその場でひざまずいてしまい、ガラガラッと持っていた食器類を落としてしまった。
今日は痛みが、これほどまで痛いのはいままでに……。
キッチンとダイニングを隔てるスライド扉越しに、異変に気づかれてしまったか、姉ちゃんが「熱彦」と言いながら、駆け寄ってくる。
「はは、俺よくドジを踏みやすいからな。ちょっとしたことでコケちまったよ」
「脚、痛むのか?」
「え………」
左脚が小刻みに揺れる。隠しようがなかった。
姉ちゃんのほうを見る。
「へ、平気だ。脚がちょっと攣っただけだから」
「熱彦……」
姉ちゃんがしゃがみこみ、柔らかな両掌で、俺の両肩のあたりに触れる。俺と姉ちゃんの視線が一致する。
「何か隠してないか?」
「姉ちゃん……」
「私たちは姉弟だ。そうだろう? お前の問題は私の問題だ、一人の問題は家族全体で考える。そうだろう?」
「……」
かりそめの姉弟関係に過ぎないと言うべきか。いや、そんな反論をするのはこの期に及んでバカバカしい。
俺は目をそらす。それを姉ちゃんは見逃さない。視線をそらすことが、わざわざ俺自身が問題を抱えてますって、告白してるようなものなのに。本当、俺ってバカだ。
「あとで話す……」
座り込んでいる俺、両肩に触れていた姉ちゃんの腕の力がきゅっと強くなる。そのまま抱きしめられるかと思ったけど、姉ちゃんの指先の余韻を残して手が離れる。
「絶対に、約束してくれるな?」
「うん」
俺は泣きそうになるのを我慢する。
しびれた左脚で徐々に立ち上がる。自分の身体を知っているのは自分だから、この激痛でも動くことはできる。要するに俺はもうこの痛みに慣れているということだ。それくらい痛みとの付き合いは長い。
いままで妹が気づきもしなかったことを姉ちゃんは感づいた。いや、妹は気づこうともせずただ俺のこういった時々の行動を笑っていたし。
そして妹にはそのことを悟られてはいけない。これは俺が心に決めてある掟であり、その掟は絶対だ。
掛け時計が立てる秒針の音が、耳に染みこんでくる。そんな音を普段気にもとめないのに。
その直後、小雨が屋根を打つ音がする。
朝の天気予報は、晴れときどき雨。
俺の痛みは皮肉にも、確実に雨が降るのを的中させられるかもしれない。そんな体質、すぐにでもかなぐり捨ててやりたいのに。
俺は気まずくて自分の部屋に籠もって、あれこれと思案する。
「どうしようか……」
思えば、悩みの種はいつも蒔かれている。俺自身は悩みが心の中に生えてのさばってきたところを、随時刈り取ってるつもりなのだが。なぜか、いつもその種は蒔かれてしまい、その試行を何回も何回も行なわれている。堂々巡りで、いつか疲弊しそうだった。
これを姉ちゃんに話すことでどうなるのかは、俺には予想がつかない。何しろ、このことを誰かに打ち明けるのははじめてのことなのだから。姉ちゃんと約束をしてしまった以上、胸の中に閉じ込めてあった秘め事を、俺は明かさなければ。
意を決して、自室のドアを明けて、俺はリビングへと脚を運んだ。
気づけばすでに八時を回っていた。テレビはゴールデンタイム真っ最中だ。
液晶テレビにバラエティ番組が映る。姉ちゃんがソファにもたれ、時折小さく笑いながら、芸能人の馬鹿らしさを見てる。
俺はテレビの画面に近づいてから、右下に光っている電源ボタンを押そうとした。当然姉ちゃんは不機嫌な面構えになる。
「いま、見てる」
「姉ちゃん」
俺は振り向いて、姉ちゃんの顔を直視する。
すると、「おや?」と思った顔を見せる。
姉ちゃんはその空気を読み取って、リモコンを手にし、テレビの電源を消した。醜悪な女性だと誰かさんが言っていたが、きちんと空気を読んでくれている、とてもありがたい人だ。涙と同じ熱がまぶたの裏にじわじわと広がってくる。
賑やかな雰囲気が消え去り、静寂な空気が佇んできた。
俺は相対して姉ちゃんを見つめる。当然か顔色が真剣味を帯びかけた。たぶん、その顔はいまの俺と同じ。
もうこれからあのことを話す時間なのだと自覚しているようだ。姉ちゃんはすでに心の準備が整っている。そのことを、俺はすでに悟っていた。
「俺の秘密を聞いて欲しい」
姉ちゃんが息を呑む音が聞こえてくる。
「……わかった」
姉ちゃんは人間ができている。未来治が姉ちゃんのことを酷く言ってはいるが、自分だけ秘密にしてきたことを明かす日が来た今日。この身体に来る痛みと、俺が抱えている心の痛みを、知ってくれる最初の人だ。
浅木織鶴さん。
姉ちゃんならば、俺の支えになってくれそうな気がした。