第三話「兄妹とスパゲティナポリタン」
◆
雨がポツポツと降り始めたのに気づいたのは、ちょうど時間もお昼に差し掛かったあたりだった。
「お兄ちゃんの家って、部屋がいくつもあるんだね」
僕と糸月ちゃんは、一階の部屋を一通り見せて回った後、二階へと続く階段をのぼって、襖を開ける。
「お兄ちゃんの家って広い、それにとてもきれい」
「どこでも好きな部屋使っていいよ」
「じゃあここにする!」
「あ、そこは僕の部屋なんだけど」
「あ、ごめん。じゃあ、こっちの部屋!」
「うん、……あ、ダメ、そこも!」
右隣の部屋の襖を開けると、書籍がいっぱい詰まった本棚がある。障子のあいだから日の差し込む窓辺には卓がある。いつも日の光を浴びながら、正座して手紙など書き物や勉強または読書に使う卓、簡単に言えば勉強机だ。服を入れた桐の箪笥もある。糸月ちゃんにとっては、まるで高級旅館にでも泊まったかのような気分だろう。僕に割り当てられた部屋の面積はその半分にも満たない。ま、高校生にこんな大きな本棚は必要ないんだけど。
「素敵な部屋! どうしてここも都合悪いの?」
僕はゆっくりと部屋の襖を閉める。ごめんと言いながら。
「ここは姉貴の部屋なんだ」
入る前に声かけしないと、姉貴のげんこつが飛んでくる。といってもいま姉貴がいるはずもないんだけど、僕はこの部屋の前に立つたびに、げんこつを食らった過去が脳裏に蘇るので、気後れしてしまう。
「そうなんだ、でも……うーん、目に焼きついてしまったよぉ、もちろんここまで見てきて、茶の間、応接間、どれもいい部屋だったけど、きっと他の部屋を選んだら頭の中でちらついちゃうよ、この部屋の光景が瞼の裏でフラッシュしちゃうよぉ」
「それほど気に入ったんだね、ううん……困ったなぁ」
姉貴に使ってもいいか聞くのもためらう。
糸月ちゃんが姉貴に直接聞きに行けばいいと思ったが、糸月ちゃんが熱彦に会いたくないと言いそうだし。
「どうしよう」と口を揃えて唸っていたそのとき。
糸月ちゃんのスマホが突如鳴り出す。メールの着信音のようだ。
「誰からだろう、開封開封っ。あっ、織鶴さんからみたい」
「姉貴ぃい!」
僕は余計に尻込みして、頭を抱える。というか、どうやって姉貴は糸月ちゃんのメアドを知った。まさか、熱彦が教えたのか。
そして、何の用でメールしてきたのか。僕は不安になる。
「服の替えが欲しい……糸月ちゃんの服も持っていく……部屋の服と下着をできるだけ多く……よろしく頼む。だって」
そういえば、姉貴も糸月ちゃんも、二人ともそれぞれの家に直行したのだから。当然、服の替えなんか持ってなかったよね。
「返信するね、ええと……その代わり織鶴さんの部屋をあたしにください……あたしの部屋も織鶴さんに差し上げます。っと送信」
そしてメールが再びこちらに送られてくる音が鳴り、糸月ちゃんは飛び跳ねる。
好都合なことも起こるもんだ。これでようやく糸月ちゃんがこの部屋を使える運びとなったようで。
「交渉成立したみたいだね、おめでとう」
僕は姉貴の部屋をスススッと開ける。
「これでこの部屋は晴れてあたしのものだね、うわぁ見たこともないタイトルの本がずらりと並んでるよ」
そして、本棚を一通り見た後、糸月ちゃんは姉貴の服が入った箪笥を下から開け始める。
「お兄ちゃん、織鶴さんの服を入れるための箱はないかな?」
「段ボールでいい?」
そして、その段ボールを探すだけで一手間かかった。自分の家について、何も知らないというこをお思い知らされた。二階まで上がって、箪笥からあらかた服を取り出した糸月ちゃんに聞く。
「これだけの大きさだけど、いいかな?」
「ちょうどいいよ、ありがとう、お兄ちゃん」
そう言って、箪笥から出した服や下着を段ボールに詰めていく。
「紐はあるかな?」
「え、紐が欲しいの? ちょっと待ってて」
本当に自分に呆れかえる。普段使わないから、どこにあるのか知らなかった。家族がいないと、こうも家のことで困るものなんだな。なんかこう自分が笑えてきてしまう。「いざとなったら一人でできる」と、僕もよく強がって言うが、その「いざ」が来たら「言うは易し行なうは難し」だなと理解する。
物置をシラミ潰しに見て、ようやく丈夫なビニール紐を発見。
そのころにはもう雨は止んでいた。
糸月ちゃんが帰ってきた。手提げの紙袋を三つ抱えている。
「おかえり、糸月ちゃん」
「お兄ちゃんただいま!」
つぶらな瞳を輝かせて、僕の息が思わず口先から漏れる。とても微笑ましい。
「姉貴、なんか言ってなかった?」
「ううん、なんにも」
「そっか」
安堵の息が出る。
「あ、でも一言だけ」
「え?」
「お兄ちゃんのこと、よろしく頼みます……」
なるほど、姉貴も僕のことを心配してるんだ。憎たらしくも思ったが、そういうところの人格はできていて、空気を踏まえている。
「……なんて言わないからな。未来治にはきちんと妹さんを見守る義務がある、もしものことがあったら身を粉にしてでも守り通せよ! って言ってた」
やっぱり……やっぱり姉貴は憎たらしい。
「気にすることないよ、あたしはお兄ちゃんのこと好きだから」
そこまでかばう妹に僕は感激を覚える、感涙しそうになった。
そんなとき場の空気を読んでないように、腹の虫が、きゅるると鳴き出し始める。腹の虫というのは、食事時間の空気だけは読むようで……。
「お腹空いたね」
「そうだね、もう一時だ。遅くなったけれど、お昼ご飯にしようか」
「うん、私、スパゲティナポリタンが食べたい」
「へぇ、糸月ちゃん、ナポリタンが作れるんだ?」
「作れないよ」
笑顔のまま固まって、数秒の沈黙。
「へっ?」
「ええと、パスタ麺でしょ、野菜はピーマンとタマネギとマッシュルーム……」
冷蔵庫から材料やらを、そして台所の戸棚から道具を出す。
どうやら、糸月ちゃんは料理が苦手らしい。というよりも家庭科全般がダメらしい。
まぁ、かく言う僕も苦手なんだけど。
僕は午前に返ってきたばかりの通信簿を先ほど見せた。糸月ちゃんの家庭科の成績は自己申告で「二」、僕の家庭科の成績は通信簿に「三」と書いてあった。よって、僕が率先して調理をすることになる。ところで中学校って十段階評定だったかな。
「調味料たくさんあるね」
糸月ちゃんがキッチンの棚を開けて、びっくりする。
僕も知らなかった、家にこれだけ調味料があるなんて。
「そして、ナポリタンに使う調味料もたくさんあるね」
「……」
さきほど料理本を引っ張り出し、ナポリタンのページを見ていたのだけど。愕然としたね。ナポリタンのページに書いてある調味料の数々。
トマトソースを作るのにトマト、牛乳、塩、こしょう。
ウスターソースを作るのに、使う材料として野菜と香辛料と調味料がたくさん書いてあった。
その他、バターや砂糖それからオリーブオイルとニンニクおろし、また唐辛子とそれからバジルも使う。
作り置きのトマトソースとウスターソースがないか?
冷蔵庫にも調理棚にも全く見当たらなかった。既製品すらない。
「とりあえず、手順に従えば、なんとかできるはずだ」
「そうだねっ、あたしは『二』でお兄ちゃんは『三』、ふたつあわせれば『五』で『よくできました』になるから、絶対うまくいくよ」
不安だ。でも、やるしかない。
「じゃあ、食材切ってくれる?」
ソーセージ、ピーマン、タマネギ、マッシュルームを糸月ちゃんの正面のまな板に載っける。
「はい、あたし頑張るよ」
頑張れ。僕はそのあいだ、調味料と計量スプーンとのにらめっこに専念するほかなかった。
トマトソースとウスターソースができて、糸月ちゃんも肉と野菜を切り終えて下拵えはばっちりだ。ピーマンとマッシュルームがみじん切りに、タマネギが不格好なイチョウ切りになってたりしたけど、ばっちりだ。
パスタを茹でて数分後、たぶんアルデンテに仕上がったのを頃合いに、切った具材をよく炒めたフライパンの上にトマトソースとウスターソースとパスタを投入。よくよく絡めて、オレンジ色に食欲をそそらせる、見た目がちゃんとしたナポリタンになった。
「おいしそうだっ、お兄ちゃん」
腹の虫が喉から手を出してくるほどお腹がぎゅるぎゅる鳴る。
時計の短針はすでに三時を通り越していた。いつも耳にしてるおぼろげなボンボンボンという音を先ほど聞いた。昼食というより間食の時間の到来だよ。
ナポリタンは多めに作ったから夕ご飯までの兵糧は確保できそうだ。
不器用にふたつの皿に盛りつけをし、茶の間の食卓にコトッと置き、もう待ちきれないくらいに僕ら二人は両手を叩いた。
「いただきます!」「いただきます!」
フォークに絡めて、音を立てずにススッと食べる。トマトとウスターソースの甘みと塩気が絶妙に効いてる。
「おいしいよ、お兄ちゃん!」
姉貴が見たら注意されそうなズルズルな啜り方で食べる糸月ちゃん。本当においしそうに食べる。
「うん」
手慣れてないながらも一生懸命作ったナポリタン。自分が苦労した分だけ料理はおいしいというのは本当だ。
ところでお茶の間の隅に、ビニール袋があった。それは先ほど家に辿り着くまでに糸月ちゃんが持っていたものだ。
「お昼は何の買い物してきたの?」
「ん? お昼ご飯の材料」
「そっか、お昼ご飯は何を作ろうとしてたの?」
「ナポリタン」
……。
僕は食事の進むフォークの運びを止めて立ち上がり、袋の中身を見た。
中にはパスタの乾麺が。そして、極めつけに、
「トマトソースと……、ウスターソース」
ボトル詰めされた出来合いのソースの瓶が買い物袋の中に、僕は深くため息が出た。でもソースを作るのに苦心惨憺した分だけ美味しかった。
糸月ちゃんはナポリタンに舌鼓を打つ。
「おいしい、おいしい」