第二話「姉妹交換、同棲生活の始まり」
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「今日からお兄ちゃんと二人のなつやすみぃ」
買い物袋を揺らしながら、CMソングで流れていたフレーズをもじって、糸月ちゃんはオリジナルの替え歌を口ずさんでいた。
「ええと、糸月ちゃん」
「はあい、お兄ちゃん。なんですかぁ?」
お兄ちゃんと呼ばれたことがないので、新鮮味があった。僕はそういう感覚にはじめて出会ったのだ。
なんだかいまはくすぐったくて違和感があるけれど、糸月ちゃんの言い慣れたお兄ちゃんという言葉にはすぐに親しみを持てた。
「こんな事態になっちゃったけど。糸月ちゃんは、熱彦のことどう思ってるの?」
「その話は禁句にしようよ、お兄ちゃん。NGワードだよ」
どうやら触れて欲しくないらしい。兄妹のあいだには深々と溝が刻まれているようで。
「はははっ、ごめんね」
「謝ることないよ」
そう言いながら糸月ちゃんは僕の目の前にまわったり、背後にまわったりと、せわしなく僕の周りをぐるぐるとする。
「ところで僕の家だけど」
「知ってるよ、お兄ちゃんの家くらい」
「え?」
「そこの坂道上ったところでしょ。あたしちゃんと覚えてるよ、元気におはようございますって言ったら、笑顔で挨拶返してくれたよ」
そういやそういうことが……。それだけのことなのに。僕が記憶を思い返してみても、あの挨拶の場面を具象に思い出せない。
「凄い記憶力だね」
「ジョギングをしているときに挨拶を返してくれる人は、たいてい覚えてるんだよ」
本当にいい子のようだ。
「ねえ、家まで競争しよ?」
「僕の家まで?」
「それ以外にどこの家があるの? バカなほうのお兄ちゃんの家に戻るつもりはないよ」
本当に覚悟できているところが凄い、脱帽する。
ホップステップジャンプして、僕よりも前方二メートルほどの位置に飛んだ。
「位置について」
そう言うなり糸月ちゃんが立ち止まった。
「え?」
「用意ドン!」
彼女は駆け足となり、僕から大きく距離を広げた。
「ここまでおいで、お兄ちゃん」
僕もせめて彼女との距離を縮めようと疾走に努める。
だが、いくら頑張っても、糸月ちゃんとの距離を詰めることはできない。
「いきなりラストスパートなの? 僕にはキツすぎるよ」
「全力疾走はまだまだ、これでも半分の力だよ」
この速さで彼女の小走りに過ぎないなんて。だが、この光景がとても清々しく見える。
やがて、心臓破りの坂に突入する、さすがに彼女もこの坂ではペースダウンするはずだと考えていた。だが、彼女はペースを落とさなかった。
でもさすがにきついのか、糸月ちゃんの呼吸が幾分か乱れる。僕も坂道に差し掛かり、一生懸命走るものの、どうにもならない。肩で呼吸して走るのが精一杯。
それだけ走って、彼女が持っているビニール袋の中身は大丈夫だろうか、生卵とか入ってたら袋の中が大惨事になりそうだけれど。でも、そんな様子はなかった。
家に到着後、と言っても僕が息急き切って到着した頃合いにすでに糸月ちゃんはいて、僕の家を珍しそうに見つめていたんだけれど。
「はぁ、疲れた」
「お兄ちゃんの家って珍しいよね」
「何が? ただの和風建築だよ」
「そう、それが珍しいんだよ。あたしの家には畳一枚すらないの。床は全部フローリングだよ」
考えてみると、ここの地区って洋風建築が多い。いや、多いどころか僕の家以外が洋風建築で統一されていると言っても過言ではない。
「まるでどこかの高級料亭屋さんみたい」
こういう数寄屋門って、見慣れない人にとってみれば、珍しいのかもしれない。
「さすが大富豪の人って違うなぁ」
「……ありがとう」
ここで、いやいや大富豪じゃないよ、とでも言えば嫌みっぽく聞こえるのを僕は知っている。何よりも、姉貴から「明らかな謙遜は傲慢と変わりがない」と釘を刺されたことがある。「むしろ感謝の意を示すべきだ」と口を酸っぱくして言われていたから。でもここでは姉貴のことを思い出すことはやめておこう。
庭付き一戸建てだけど、屋根瓦が並べられ、漆喰で壁を固められ、木造部分にはヒノキをふんだんに使った贅沢な住宅だ。
でも、その分、管理も大変なんだよね。でも、父さんも母さんも、そして姉貴もいないから、今年の夏休みはゆっくりできそうだ。
「あたし、お邪魔しますって言うべきかな?」
「かしこまることないよ、今日からは糸月ちゃんのお家なんだから」
すると、糸月ちゃんは瞳を輝かせて、数寄屋門をカラカラカラっと開けて、いつも家族が言うような挨拶を大声で言った。「ただいま!」と。
◆
「ここが熱彦の家か」
4LDKの庭なし物件。この家の型を日本全国探してみれば、どこかにぴったり一致する場所があるはずだ、絶対に。それくらい無個性の家だ。
「狭苦しくてむさ苦しいかもしれないけど、我慢してくれな、姉ちゃん」
「狭いからむさ苦しいということもないはずだ、心の領分次第では人は際限なく広く良い土地を求めてそれでも狭いと言う者もいる。私は狭い茶室でも広大な宇宙を感じるぞ」
「姉ちゃんって正直だな」
織鶴姉ちゃんは、正直な上にとても機転が利いている。
「でもさ、茶室と言うほど落ち着いた場所じゃないぜ」
「ただ、私は賑やかな場所も好きだ」
そんな一言に、気持ちが軽くなる。
「でも、俺ら二人じゃ寂しいと思わないか?」
「だからこそ、二人で笑えるほど楽しげに過ごすべきだろう?」
本当に救われる言葉をくれる。糸月だったら、不平不満を言い募るばかりで建設的な意見なんてひとつもくれない。こういう器の大きい人が――まさしく姉ちゃんが――昔から欲しかったんだ。そして、いまここにその姉ちゃんがいることに感動を覚える。
そんな俺の姉想いの視線に気づいたのか、姉ちゃんは。
「あんまり期待するな。楽しく過ごすからには、私もそれなりに無遠慮に物事を言うから、覚悟しとけ」
「うん、わかった、姉ちゃん」
俺がハキハキと答え、織鶴姉ちゃんも笑みを浮かべる。
玄関扉を開け、我が家に入る。
俺は履き潰した靴を後ろに放り、ひっくり返って、擦り切れた靴底が顔を見せた。
「熱彦、今日は雨が降りそうだな」
「ああ、そういえば正午過ぎあたりから降り始めるって天気予報で言ってたな」
俺はいつも雨が降るか、毎朝必ずチェックしていた。
「熱彦、お前のその靴に『天地無用』のシールを貼りたくなる」
そう言いながら、姉ちゃんは靴を脱いで上がると、その場にしゃがみこみ、几帳面にも靴の向きを反対にしてきれいに揃える。そして逆さまになっていた俺の靴までもきちんと揃えてくれた。
「自分の家のように気軽にしてくれていいぜ、姉ちゃん」
短い廊下に、ところ狭しといろいろなものが置いてある。積み上げられた新聞紙や漫画雑誌。フリマで買ってきたが使うことがなくそのまま放置したガラクタ、その他買ってきたはいいが使い道がないものがいろいろ。あとは水曜日に出し忘れた、袋にパンパンに詰められた燃えないゴミとか。
「そうか。では早速、一つ目の無遠慮なことを言っておく」
廊下に落ちていたほうきとちりとりを姉ちゃんが拾いあげる。そういえば、昨日、母親が掃除をしようとしたところで明日やればいいかなどと言ってそのまま放置したか。
そんな姉ちゃんが、ほうき、ちりとり、を持って俺を厳しめな視線で見る。
「いまから大掃除だ!」
「え? 自分の家のように気軽にしていいんだぜ」
「私の家ではそうすべきなんだ。それに熱彦、余裕というものは几帳面になることで生じるもの。几帳面で余裕ができるからこそ気が軽くなるのだ」
さすが厳しい一言がようやく出てくる。これが未来治の姉ちゃんの嫌なところというわけか。だが。
「気軽であることと気が緩んでいることは、まったく違う。前者は余裕があってこそ生じることで、後者は余裕がないからこそすべてを投げ出して生じるものなのだ」
その言葉は格言に等しかった。不満をたらたらとぶちまけて何もしないあの糸月に比べたら……。理由を添えて説得力を持たせる姉ちゃんに諭されるほうが心に染みて納得する。
「まぁ、そういうわけで私はこんな姉だ。熱彦はそんなお姉さんは嫌いか?」
それに対する答えなんて、はじめから決まってるじゃないか。
「姉ちゃんの言う通りだ。いまから家中を綺麗にするぜ!」
俺と姉ちゃんはまずは廊下に置かれたもの、ゴミや古新聞は一カ所に、本や漫画雑誌はあるべきところに、がらくたのたぐいは物置にしまった。
それからキッチンに入って、流し場が汚れていた。洗剤できれいに汚れを落とす。居間の床の汚れも、食事をするテーブルにも米粒や醤油の後が付着していたので、きれいに拭き取る。
「やれやれ、未来治の言う通りだな」
一瞬だけ愚痴こぼす俺。
まぁ結論から言えば、父親がアメリカ赴任で、母親が家事下手なのと、妹が家事をしたくもないのと、何より俺自身が家事をしないということのほうが悪いけど。
でもそこで不平を言ってしまえば、妹と同レベルになる。そこは我慢をして、大掃除に専念をした。
掃除も終盤を迎えようとしていたところで、二階のほうから姉ちゃんの声がかかった。
「雨! 洗濯物!」
雨風がもう到来したのかと、俺は急いで階段を駆け上がり、ベランダに出た。
姉ちゃんが手際よくプラスチックの手かごに、洗濯物を入れていく。
「運んでくれ」
「ああ、わかった」
手かごにどんどんと入っていく洗濯物。急ぎ足で一階へと運ぶ。そこからUターンし、別の手かごに洗濯物が満杯になっていた。俺はそれを持って一階へ行こうとする、だが不意に右腕に激痛が走る。
またか……。
六月七月に入って雨の時期が増えるといつもそうだ。俺は疼き出した右腕から手かごが離れ、姉ちゃんがよせてくれた洗濯物を見事に上から階下までぶちまけた。
異変に気づいたのか、姉ちゃんが駆け寄ってくる音がする。
「どうした、大丈夫か?」
「あ、ああ、悪い」
「腕が痛むのか?」
俺は無意識に左手で右腕を押さえていた。そのことに気づかれたようで、俺は心配を払拭させるために、「なんでもない」と言って取り落とした洗濯物をひとつずつ拾い、手かごに戻していく。
それに続いて、姉ちゃんも洗濯物を拾いあげていく。
「あ、いいよ、俺一人でやるから」
「いや、やらせてくれ、お前が心配だ」
「なんでもねえって」
「いいわけないだろ、私は……」
そこで言葉に詰まる。どうしたのだろうか。
妹の着る小さな下着を手にしたまま硬直していた。
「着替え、持ってこないとな……」
「あ」
そういえばそうだ。
どうしようか、さっきの未来治の様子からすれば、姉ちゃんが家に戻ることはたとえ一瞬であっても拒絶したいだろう。
いたしかたなくスマホを取り出し、憎たらしい妹のメールアドレスを映し出して、姉ちゃんに見せた。