第十六話「雪を見る姉妹」
◆
予想外の旅行切符を手に入れて、俺も恵まれているな。
旅費の負担は姉ちゃんがしてくれるという。
はじめて飛行機に乗った。姉ちゃんはよく利用するらしく、飛行機の中も外も見慣れているようだ。窓際の席を姉ちゃんから快く譲ってくれた。
生まれてはじめて雲からの下界を見る。最初は怖かったが、徐々に珍しく感じ、だいぶ見慣れてたころには、俺らが地上にいるほうが不思議だと思えさえするようになった。
「姉ちゃん、海が見えるぜ」
「海か……」
感心なさそうに姉ちゃんは顔色を曇らせる。何か悪いことでも言ったか? 飛行機の窓越しに見る海に飽き飽きとしているのかも。
「俺、関西行くのははじめてだ」
「そうか」
「姉ちゃん一人で行く気だったのか?」
「いや本当は行く気はなかった」
「どういうことだ?」
「一人で行く勇気がなかったんだ」
なんだ、と言って俺は笑う。姉ちゃんも一人旅は寂しいんだなと。
「もしかして旅行に行けたのは俺のおかげか?」
「そうかもな」
ハハハと笑う。しかし姉ちゃんの表情は堅い。
空港に着いた。入り組んでて迷いそう。
ガラス越しに外を見やる。先ほど乗ってきた飛行機があった。
「さてどうする?」
「慌てるな、私もここへ来るのははじめてだ」
「え? 大丈夫なのか? 姉ちゃん」
「案ずるな、私は旅慣れしてる。多少迷っても気にすることはない」
「関西に来たのははじめてなのか?」
「いま見ている景色は、熱彦と同じように見えている」
「そうか」
嬉しいことは嬉しいけど、とりあえずここからどうするか。
「どうして旅行先にここを選んだんだ?」
「それはだな」
言葉を詰まらせて二の句を継げないで咳払いをし始める。
「まぁ大船に乗ったつもりで船頭を任せるぜ」
「すまない熱彦。突発的な旅行に付き合わせてしまって」
「道に迷ったとしてもそれもいい思い出になるぜ」
「そうかもしれないな」
顔がまた曇る。姉ちゃんは本当にここに来て嬉しいのか。何か裏だけど、詮索はしないでおく。
俺ら二人は苦労の末に空港から出て、タクシーとバスが並ぶ場所に着く。バスに乗って姉ちゃんが目をつけていた旅館へと俺たちは到着する運びとなった。
◆
僕と糸月ちゃんは宿泊場所のホテルに到着した。
安普請なホテルと聞いていたが、それなりの広さはある。ロビーはゆったりと行き来ができる。談話場のガラステーブルでゆったりと寛いでいる客。壁や柱など全体的な色調は白で統一されていた。清掃をこまめにする心ゆきが行き届いているようだ。汚れが少しでもつくと立ち所にそれが目立ってしまう。
フロントへと足を運び、予約を取り付けた部長の名前を挙げ、部員がインフルエンザで倒れた旨を伝えてから、僕と糸月ちゃんが宿泊利用することを話した。
「ツインルームひとつのみでよろしいですか?」
予約時に料金を節約するため、すべてツインで頼んだ。変更できないかと頼もうと思った矢先、「ツイン一部屋でお願いします」と糸月ちゃんが言う。
「糸月ちゃんツインの意味わかってるよね?」
「うん、二人部屋で問題ないでしょ?」
まぁ夏休みに一つ屋根の下で暮らしていたし。
鍵を受け取り、僕たちは七階のルームを開ける。
シングルベッドが二つ並んでいて、胸の中で鼓動を打つ。
「このベッド好きかも」
糸月ちゃんって無垢だ。男はオオカミだよ。でも僕たちは差し詰めヒツジの兄妹かも。ヒツジが並んで眠るのを想像して、僕はのほほんとする。
「わぁ、お兄ちゃんこれ面白いよ」
壁にボタンが十個十色あり、糸月ちゃんがオレンジのボタンを押すと照明がオレンジ色になった。青色を押すとブルーになる。照明の色を変えられるようだ。
「だけど糸月ちゃん、ここのホテルの売りはそんな細かい演出じゃないよ。ここのホテルの最大の売りはこれだよ!」
僕はカーテンをぴしゃっと開けた。スキー場の白銀色のゲレンデが広がっていた。
◆
障子戸を開けて、ガラス越しに美しく古い町並みが広がる。大きな荘厳なお寺も見える。
社会科の教科書の写真とは比べものにならないくらい、この風景は感動そのものだ。
「姉ちゃんも見ろよ最高だぜ」
「そうか後で目に焼きつけておこう」
タバコを一服し始めた。
障子戸の隣には木戸があり、開けるとまた木戸がある。その木戸を開けるとベランダに出られ、露天風呂があった。
「姉ちゃん、俺たち別々の部屋にすべきじゃなかったか?」
「二人部屋のほうが安くて済むだろ? それに私たちのあいだで遠慮など無用。私たちは姉弟だからな」
軽い語り口で平然と語る。
「だけどひとつ残念だなぁ」
「何か気にくわないことがあるか?」
「いや気にくわないんじゃなくて、これだったらもっとよかったぜって思うところが一点」
古い町並みが見えるのは最高だが。
「俺としては海も眺めたかったなと思ってな」
この地は海岸沿いの街だ。海も一望できれば最高だと思った。
姉ちゃんは寂しそうな顔で、タバコの煙を吐き出す。灰皿にタバコの火口を押しつける。
「海はいま入ったら冷たい。そんなこと想像もしたくない」
「そうか」
なんとなしに軽く受け流す。考え方は人それぞれあるだろうし。
この旅館の客室が広い。鴨居で仕切られた十畳ほどの広さの間取りが、手前側と奥側にあって、あわせて二十畳の広さ。本当に二人以上で使うのに相応しい部屋だ。
姉ちゃんは三日間滞在したいという。明日は大晦日、客室にはテレビがある。年越し番組でも見ながら姉ちゃんと過ごすか。そしてそれが終わったら初詣だ。だがそれとは別に俺はこの街を回って、五感で風景を感じたいと思った。
「姉ちゃん外に出てみないか」
「そうだな、閉じこもるのはもったいないな」
旅館から離れ坂道を下るほど古風な風情を漂わす。
古めかしい景色は新鮮だ。
土産物屋を訪れる。意外にもキーホルダーやゆるキャラのぬいぐるみが置いてある。これらはすべて手作りだった。時代に即した売り方をしているが、手作りをしてる点でかえって懐古な感じを引き立てている。
茶店に入り、外に設えた赤い特等席を店員さんが勧める。無礼にならないよう静かに座った。姉ちゃんはその所作をわきまえてか、「ありがとうございます」と言いながら上品に座る。コート姿だが、姉ちゃんは着物姿のほうが絵になりそうだった。
羊羹とまんじゅうを頼み、甘味との出会いに心躍らされる。
「姉ちゃん、雪だ」
綿毛に見紛う雪が降りる。
「本当だな。道理で寒いと思った」
古傷がちょっと痛むけど、姉ちゃんと見る雪は綺麗だった。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさん」
茶店を離れる。海でも行こうか。提案すると姉ちゃんはしばらく考え込んだ末に首を横に振る。
「寒いからまた明日にしよう」
こんな状態で海に行ったら風邪を引くな。
姉ちゃんは気難しい顔をしていた。俺のように旅を楽しんでいないのか。そもそもここに来た理由は何なのだろうかと、俺は考える。観光目的でここに来たのではない……?