第十五話「姉妹交換旅行」
「旅行するだって? いつ?」
「明日から」
唐突過ぎて僕は尻込みする。もうちょっと早く言って欲しいものだ。僕にも都合というものがある。その都合とは。
「ごめん姉貴、その日は部活のみんなとスキーに行くんだ」
十二月のカレンダーを指差す。数日前に僕が赤いマーカーペンで「スキー三日間」と殴り書きした。
「そうだったか、すまない。じゃあ旅行は中止だ」
どうやら姉貴はスキー旅行を承知していなかったみたいで。
「姉貴。旅行しないか? って言ったけど、どこへ行くつもりだったの?」
「何も聞くな未来治」
別に詮索しないし。僕は胸から下までこたつに入ってリモコンを手に取り、テレビのチャンネルを回す。
「せいぜいスキーを楽しんでこい、未来治」
言われなくても楽しんでくるよ。と言おうとしたが、姉貴の機嫌がおかしいことに気づく。
顔が暗い。いつもなら偉そうに「楽しんでこい」と語気を上げるが、その語気は下がっていた。
なんなのだろうか、この違和感。
ここで深入りしようとすれば、噛みついてきそうだったので、僕は無言になることに徹した。
姉貴が茶の間を離れてこたつでウトウトとしてきたとき、不意にスマホが鳴る。
部長からだった。
「え? 欠員?」
部員の一人が風邪を引いたという。部員総出で来いと迫ったものの、風邪の症状は酷いらしい。
安普請なホテルを予約し料金を先払いした。ホテルの規約で、いまキャンセルしてもお金は一円も返ってこない。それはさすがにもったいなかった。
どうしようかと僕は考えた。
「あ! ちょっと待っててください、一人入れそうな人がいるんです」
部長に言って着信を切り、糸月ちゃんの番号に電話をかけた。
「糸月ちゃん、未来治だよ」
「あ、お兄ちゃん。ひさしぶりだね」
元気な声をひさしぶりに聞いた。
糸月ちゃんと会ったのは駅伝大会で応援しに行った日が最後。お兄ちゃんと呼ばれるのが久しぶりで心が躍る。
「僕ね、明日部活仲間とスキー旅行するんだ」
「スキー? 楽しそう!」
そうだこの感覚、懐かしい感じがする。糸月ちゃんの声を聞いて、僕も胸が踊ってきた。
「でもね一人欠員ができてね、もしよかったら糸月ちゃんどうかな?」
「え、いいの? 行く行く」
スキーと聞いて糸月ちゃんは、本当に心を弾ませているのがわかる。
「じゃあ明日午前十時までに××駅のホームで集合だ」
「うん、わかった」
そして簡単な持ち物と費用を伝えた。
「楽しみにしてるね、お兄ちゃん。それじゃあ」
電話が切れる。
ひさしぶりの糸月ちゃんとの会話。夏休みが終わったころは、ときどき寂しさを感じた。糸月ちゃんと過ごした生活が肌に染みついていたから。
テレビからはお笑い芸人が無理に笑わせようとするネタが聞こえる。糸月ちゃんといたときは、無理に笑う必要はなかった。糸月ちゃんがそばにいるだけで笑顔になれる。そんな日々を僕は過ごしていたんだな……。
◆
駅まで行く途中で俺の息は真っ白になっていた。雪はまだ降るには早いけれど、季節は真冬だ。
糸月がスキーに行くというので、俺は駅まで見送った。
お邪魔虫が減っていいと思ってはいたが、いざ改札口で糸月が離れていったら、そこに一抹の寂しさを感じた。
「大晦日と正月は俺一人か」
みんな楽しそうだ。しかし俺はなんでそんな女々しいことを考えるようになったんだ。男らしくないな、こういう考えは。
両親も近所の親睦を深めるために旅行を企画し不在。
旅行に誘ってくれる友達もいないし、遠出する金もない。この時間をバイトに当てることもできるいわば稼ぎ時でもあったが、年賀状の仕分け作業のバイトは面倒そうだったので、毎年避けている。
俺は一人で深夜番組を見て、寂しく年末と年始を過ごす羽目になりそうだ。
「ひとりぼっち、か」
せいぜい楽しんでこい、糸月。
悪態をついて俺は改札口前で白い息を漏らした。年末年始の休みは混雑を予想する。その混雑に飛び込むのは苦手だから、せいせいする。などと強弁しても寂しさが募るだけだ。
すっかり冬も深まってきた十二月。ここらではまだ雪は降り積もることはないが、それでもこのコートがないと、身体が動けなくなってしまう。
みんな楽しいことしてるなと感慨にふけりながら、俺は周辺をぶらぶらと歩く。駅のショッピングモールに入って冷やかしでもしよう。
そんな無礼なことをしながら歩いていると、俺はあの人を見かけた。
「姉ちゃ……、織鶴さん!」
ホワイトコートに身をくるんだ格好の姉ちゃん。
俺の声に気づいて、涼しい笑顔でこちらを振り向いた。
「姉ちゃんでいいぞ、熱彦」
「ああ姉ちゃん」
なんで俺は緊張してるんだろう。姉ちゃんなんだぞ。信頼していた人なんだから、緊張することないだろと心中で叱責した。
「こんなところで何してるんだ?」
旅行用品売り場。目の前にある棚には、海外旅行で荷物を運ぶキャリーカートがずらりと並ぶ。
もしかして姉ちゃんも。
姉ちゃんの家柄だから、ハワイとかグアムとか行くのだろうか。常夏の島で過ごすのはさぞかし楽しかろう。
「姉ちゃんもどこか行くのか?」
「そうだな……」
旅行は楽しいはずなのに、姉ちゃんはどこか浮かない顔をしていた。いったいどうしたのだろうか、俺は気がかりになる。
「俺は冬休みは一人なんだ。いいな、姉ちゃんも誰かとわいわい騒いで遊びに行くんだろ?」
「いや、私は一人旅だ」
一人旅と聞いて俺は意外に思う。もしかしたら誰かと戯れてツアーに行くことが苦手なのだろう。なら姉ちゃんのペースで楽しんでくれれば幸いだな。
「土産話を楽しみにしてるぜ」
姉ちゃんは無言で細目をして、笑顔を返した。その顔を見ると俺は心底から不安が取り除かれる。悩みを打ち明けてその解決まで導いてくれた顔。あのときは本当に教えられたことが多かった。いつか恩返ししたい気持ちも持っている。そう、いつか。
俺は頭を下げて、じゃあなと手を一回振ってから背を向け、この場を後にしようとする。
「熱彦」
呼び止められ俺は姉ちゃんのほうに振り向く。何か言い忘れたことでもあったのだろうかと勘ぐる。
「二人で旅行しないか?」
「えっ?」
◆
「えっ、それどういうことですか!」
ひとつ早い電車で集合場所の駅構内にいたのだけれど、なんと部員全員が来られないという。
インフルエンザで一人残らず床に伏せった。欠員となった部員は風邪ではなくインフルエンザで、部長と部員たちが彼の部屋に駆け込んだときウィルスをもらったらしい。今朝から関節痛や咳が酷く、病院で受診して発覚した。
「あの、それじゃスキーは」
中止だ中止だ。乱雑にそう言って電話が切れる。
ため息しか出てこない。なんてこった、僕は頭を抱えベンチに座る。そのとき目前の車線で電車が到着した。
吐き出される人混みから、「お兄ちゃん!」と声が聞こえてくる。糸月ちゃんが時間通りにやってきた。
「ああ、糸月ちゃん。おはよう」
「どうしたの? お兄ちゃん! せっかくの楽しいスキーイングなのに、頭抱えちゃって?」
「部員全員が喉やら関節やらが痛くてね」
きょとんとした表情になった糸月ちゃんに、いきさつを教えた。
「どうしようか、糸月ちゃん」
糸月ちゃんは僕とひさびさに会ったおかげか、とても明るい笑顔でいる。
「しょうがないよ、これはもう決まりだね」
これはもう家に帰るしかない。僕がそう考える。
「そうだね、残念だけど今日の旅行は……」
「二人で行こっ! お兄ちゃん」
……。
「え?」
「お兄ちゃんと二人で楽しくスキーしよ?」
……願ってもみなかったことだった。こういう予想外も嬉しいものだ。