第十四話「冬の訪れ」
◆
「大丈夫か? 未来治」
姉貴がいた。
廃工場の天井と、差し込む月明かり。
「姉貴……」
「傷だらけになってよく頑張ったな、偉いぞ未来治」
いつもの涼しい顔つきで姉貴は僕を見ていた。
「姉貴のゲンコツに比べたら別に痛くないよ」
「そうだな」
怒りもせず姉貴は苦笑し、ゆっくりと身体を抱き起こして頭を撫でる。
姉貴が強く抱きしめてきた。抱擁されることはいままでに一度たりともなかった。
雨で冷え切った気温の中で、姉貴と佇む。
「痛いよ姉貴」
「我慢しろ私だって心配を押し殺してたんだ」
僕よりも先に、姉貴が涙を滲ませる。
「帰ろう。私と一緒に」
「うん」
その広い肩を借りて歩いた。いつになく優しい姉貴だった。
数寄屋造りの玄関がカラカラと開く。
「ただいま」
「え?」
「家に着いたら、ただいま、だろ? 未来治」
「あ、ああ、ただいま……あとそれから」
僕は向き直り、姉貴を見た。
「おかえり、姉貴」
姉妹交換と呼んでいた生活も今日で終わりだ。ただいまとおかえりで、僕たちは元に戻ったんだ。
そのとき僕は、姉貴をまともに直視できていることに気づく。そうと僕がわかってから、姉貴は重い口を開く。
「未来治、お前に言いたいことがある」
「何? 姉貴」
優しくなっていた顔が、怒りの形相に変わる。
それを見て僕は条件反射で目をそらす。目線の先に、出しっぱなしの新聞やらゴミ袋やらがひしめいていた。
「この家の散らかりようはなんだ」
ものが散らかり放題になっている。糸月ちゃんのせいにするわけではないが、緩み切った生活をしていた。
「未来治いまから大掃除だ。言い訳は認めない」
「ええ?」
姉貴が元の姉貴に戻っていた。僕は酷く後悔した。
◆
目覚まし時計が鳴る。誰かが部屋に駆け込んできて、このけたたましい音を止められる。
「起きて、お兄ちゃん!」
姉ちゃんが俺を「お兄ちゃん」と呼ぶわけがない。声も違う。
何が起きたのかベッドから出ると、糸月がいた。
「姉ちゃんはどこ?」
「何、寝ぼけてるの?」
「ああ、目を覚ましたらお前か。朝から嫌になる」
「何よその言い方」
「姉ちゃんはどこだ?」
「姉妹交換の生活は終わったでしょ? お兄ちゃん」
「あれ?」
糸月の顔をまじまじと見て記憶を整理する。
そして寝ぼけている自分に気づき、耳が熱くなるのを感じる。
いつもそばにいた姉ちゃんの厳しさと暖かみが脳裏に浮かんだ。
姉ちゃん、いま何をしているかな?
「お母さん帰ってきたんだよ、お父さんも待ってるんだから早くして」
母親も父親も帰ってきた。そして、糸月も帰ってきた。
でも、姉ちゃんと過ごした生活はいまも忘れることができない。
未練があると言ったら姉ちゃんに、織鶴さんに怒られそうだ。
けど、いまも姉ちゃんがすぐそばにいるような気がしてならない。
夢だったのだろうかと訝しく思いたくなる。
最近、糸月が率先して料理をやるようになった。それがなぜなのかはわからない。今日も不器用な母親と朝ご飯作りを手伝っているようで。そんなことがあってインスタント食品の並ぶ食卓に、手作り料理が一品加えられたのだ。未来治と過ごして、いったい何があったのか。
夏休みの英語の宿題は完成した。答えはyoung sister、妹である。はっきり言えば英文読解は自信がない。けど、糸月のことがあったから、俺は心で気づけた。
今日は始業式だ。
登校の道で未来治に出会う。
「よう、未来治」
「ああ、熱彦」
俺は未来治を観察する、打撲や切り傷は跡形も無く消えていた。生活に支障は出てないようだ。けど、俺は不安になる。
「怪我、大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
そう言いながら、身体を回して痛くないことを主張する。
「怪我したところが、ときどき疼いたりしないか?」
「熱彦は心配性だね」
「もとはと言えば、バカ妹のせいだ。俺は責任を重く感じて……」
「糸月ちゃんのことを悪く言わないで」
真顔で怒る未来治。
「すまん、お前の好きだった妹を悪く言うのはいけないな。許せ」
「気にしないで、僕はこの通り何も問題ないから」
お、未来治。と不意にクラスメイトから声がかかる。
「ネットでお前の動画見たぞ」
それを聞いて心が痛くなる。
不良どもがスマホで撮影して動画サイトに投稿し、未来治の醜態をネットに晒した。俺も責任を感じている。
ネットで見つけ次第、通報ボタンを押したが、やはり拡散してこいつらの目にも触れてしまったか。
「すまない未来治、俺のせいで……俺は……」
罪を清算できるはずもない。けれど謝罪だけはしたい。しどろもどろに言おうとしたが、クラスメイトが俺の言葉を遮る。
「格好良かった」
「は?」
予想外の言葉が返ってきた。
「大男に立ち向かって、無抵抗で耐えて、何度倒れても立ち上がるお前。凄く格好良かったぜ!」
もしかして褒めているのか?
「自慢できることじゃないよ、あれは……」
こう言われては当の本人がさすがに引いてしまう。
「自慢していい! 単なる優男じゃなかったんだなお前。見直したぞ」
「いや僕は」
「格好よかったぜ。それじゃまたあとでな」
未来治と俺は呆然として走り去るクラスメイトを見送る。
「なあ未来治。もし俺がここでお前に謝ったらしらけるか?」
「謝るも謝らないもご自由に」
未来治は右の頬を指先で擦った。
◆
そして季節は変わりゆく。
秋風が吹き抜ける中、糸月ちゃんは中学駅伝でチーム合同の三位を飾った。
そうして日々を過ごしていく中で、風は木枯らしになった。
気づけば今年も終わりに近づこうとしている。
先日のこと、海外の儲け話にまた両親が飛びつき、僕と姉貴は再び留守を任される。
このとき僕と熱彦は思ってもみなかった。第二の姉妹交換が行なわれることになろうとは。
「旅行しないか?」
終業式を終えて数日後、両親がいない中、茶の間でくつろいでる僕に姉貴が聞いてきた。