第十一話「本当の兄貴にできること」
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俺ができることなんか、たかがしれてる。それで何をしろというのか。蒸し暑い空気の中、俺は日差しから手で翳しながら、公園の噴水前へ赴いた。
「おお、未来治」
手を仰ぐ前に、未来治が噴水の縁から立ち上がった。
「来てくれてありがとう。熱彦」
「暑い日にわざわざ来てやった俺の身にもなれ」
「ごめんね天候だけは言うこと聞いてくれないから。三時過ぎから雨が降りそうだと予報で言ってたし」
確かにそれはさらに都合が悪い。雨が降ったら意地でも行かないつもりだった。
噴水の縁に尻を載せて俺は、座り直した未来治と横に並ぶ。
「お前は優柔不断で話を切り出すのに前置きをする。その時間が惜しいから俺から話を進めさせてもらうぞ」
「うん」
「姉ちゃんから話は聞いた。糸月のこと」
「そっか」
糸月がいまある状況を未来治が具体的に教えてくれた。
電車が軌道を通る残響音がする。熱気で歪んだ空気を通り抜け、こだまが届く。
未来治の話を聞いたが頭に入ってこなかった。
なぜだか俺には他人事にしか聞こえなかった。
姉ちゃんの言っていることを完全に理解していないのかも。
(『人間』というものは『こういう方法で付き合ったほうがいい人間』というものではない。それは人間と処世術を混同した悪習だ)
俺は妹をどうやって助けるべきか、その範囲内でしか動こうとしていない。
または、その範囲を出るのを躊躇っている。俺は妹とまっすぐ向き合えていないんだ。
未来治の話があらかた終わった頃合いに、俺は聞く。
「兄妹としての生活を始めて、お前はどうしてる? 未来治」
俺は妹自身何者なのか、それに気づきたかった。そのための質問だった。ただの世間話ではない。
「とても楽しいよ、糸月ちゃんとは仲良くしてる」
糸月に不満を漏らす様子が皆無だった。それが不思議だ。
「熱彦は、姉貴とはどうなの?」
「姉ちゃんか、けっこう厳しいぜ」
「やっぱりね」
「でも頼りがいがあっていま俺にはなくてはならない存在だ」
姉ちゃんが家に来なかったら、何も変えられなかった。だがいまは何かが変えられそうな気がする。
未来治から聞くに、糸月はただ反骨精神を露わにしている人間じゃなさそうだ。未来治と生活して人間が変わったのか? いや、そうではない。
俺だからこそ糸月は俺自身に対し態度を硬化させてるのだ。俺は糸月に何をしてあげられよう。
「熱彦、頼みがあるんだ」
「なんだ?」
「糸月ちゃんを、叱ってやって欲しい」
兄としての威厳がない俺が言うべき言葉は。
「そういうことはお前がなんとかしろ」
「熱彦」
「俺は兄貴とは名ばかりの弱っちい人間だ」
「そんなことはないよ熱彦は糸月ちゃんのお兄さんだ。その事実は変わらない」
「俺が叱っても糸月は納得しない」
この俺が気圧されている。
「僕は敏夫のところへ行く。だから熱彦は糸月ちゃんのところに行って」
「ああそうかい」
どこまで卑屈なんだろうか俺は。だが俺のプライドは壊れている。だから妹には会いたくない。
「熱彦」
「勝手にやってくれ俺にできることはない」
こんな酷いことを言う俺がゲスなのは百も承知だ。
「兄貴らしいところを見せてやれよ! 熱彦」
「…………」
黙りこくって俺はこう答える。
「未来治お前のほうが俺よりも兄貴らしいぞ。格好よすぎて俺には務まりそうにない。じゃあな」
重い腰を上げる。
その瞬間、噴水が飛沫をまき散らす。
「熱彦!」
呼び声にも振り返らず俺はジーンズのポケットに手を入れてこの場を去った。
隅々まで整頓された家の中。姉ちゃんが来こなければ家はいい加減なままだった。姉ちゃんには感謝しても感謝し尽くせない。
靴もいまではきれいに揃え玄関口に向けている。礼儀正しくするならここから始めろと言われた。よその家で最初に見られるのはこの場面だから、これは重要だと教えられた。
リビングに入ると、キッチンのほうから姉ちゃんの鼻歌が聞こえてくる。「おかえり、熱彦」と言ってきた。
「未来治から話があった」
「それで?」
「糸月を叱って欲しいって」
「そうか」
素っ気ない返事だった。
「関心なさそうだな」
「お前だって関心がないんじゃないのか? 熱彦」
姉ちゃんはこちらに来て、帰ってきた俺の瞳を覗いてくる。
「どうしてそう思うんだ?」
「お前の声の調子でわかる」
俺はこの事態に首を突っ込みたくなかった。
無関心も同じだ。
「俺を怒らないのか? こんな出来損ないの俺を未来治みたいに殴ってくれて構わないんだぜ」
あのとき拳を未来治のこめかみに当てていた姉ちゃんを思い返していた。
「なぜ殴らなくてはならないんだ熱彦」
「だって」
「お前はいつも通りにしていてくれて構わない」
「姉ちゃん……」
このままではいけないような気がしていたが、踏ん切りがつかない。
「お前は何もしなくていい。ただひとつだけ後悔をするだけだ、お前には何ひとつ物理的被害などない」
「だけどそれじゃあ……」
いつだって後悔の連続だ。糸月と向き合えなくて。だから今回も同じ後悔をするだけ。
本当にそれでいいのか俺。いや、小岬熱彦!
「どうすればいいんだ教えてくれよ姉ちゃん」
「それは自分で考えることだ、自分で決めることだ」
俺自身選択に迷っていた。だからこそ聞いたのに姉ちゃんはその答えを俺に委ねる。こんな軽くてチャラチャラした俺が決められることはひとつもない。
助けてくれよ姉ちゃん、俺は胸が張り裂けそうだよ。
姉ちゃんは肩に優しく触れる。「お前の気持ちは痛いほどわかるぞ……でもな」と言って。
「私は人生の指針であってもお前の人生そのものではない」
いつの間にか自分を見失っていたのか。姉ちゃんに責任転嫁をするつもりなど毛頭ない。自信がなかった。だから姉ちゃんに教えて欲しいことがたくさんあった。
「私は熱彦を信じている」
「姉ちゃん……」
「未来治は一人で行動するには危険過ぎる。それだから私の言うことを言い聞かせるよう指導してるんだ。姉として」
未来治は幸せだな。優柔不断で何もできないから、姉ちゃんが助けてくれているのだろう。
「私は未来治に自分の行動に対する責任を持たせてはいない。いつも私のせいだという言い訳ができるよう、だいぶ甘やかせてる」
「そっか、幸せ者だな」
そもそもこの姉妹交換に合意したのは姉ちゃんだ。すべての責任は姉ちゃんが負っていることに俺は改めて気づく。
「だけど未来治は私の責任下を離れ、今日晴れて卒業できるかもな。もちろん私が命じたおかげでもある。だがほとんどは未来治の意思が決めたんだ。私にはわかる」
この夏、未来治はかなり成長した。妹のために奮闘している姿勢に惹かれるぜ。俺はまだ決心がつかず迷っているんだ。本当に弱いのは未来治じゃない、俺自身なんだ。
「こんなことを言っては失言かもしれないが、すべて糸月ちゃんのおかげかもしれないな」
微笑みを零す姉ちゃん。
「姉ちゃん、俺は成長したかな?」
「私が出した夏休みの宿題にまだ答えてない」
そうだよな、俺は糸月に関してわかっていない。置き去りにした糸月の可愛さを思い出せてはいない。
「姉ちゃん、俺どうすればいい?」
「これ以上私に聞くな。そして私を頼るな」
その厳しさも、いまはありがたみよりもむしろ心が痛みとして感じる。
「私の言うことに従ってもいいが。その言葉にお前は決して納得はしないぞ」
それもそうだけど。
「俺も後悔することが怖い」
「そうだな誰だって怖い。だが後悔するなら人の言葉に頼る癖をやめたほうがいい。後悔するなら自分で考えて行動してそして後悔しろ。そのほうがいい。自分が決めたことで起こる後悔ならば、『ああ、やってしまった』と嘆くが、『でもしょうがない俺が決めたんだからな』と、少なくともそう思えるくらいの行動をしろ。熱彦」
「姉ちゃん……」
「これ以上何も質問するな。もう私ができることは背中を押すことだけだ」
俺の後ろに回って姉ちゃんは、本当に背中をぽんと押してきた。
「頑張れ熱彦」
姉ちゃんのその言葉で骨の髄まで姉ちゃんの心が染み入る。
それから姉ちゃんが料理を黙々と作る。手伝おうかと言ったが拒否された。俺自身どうすべきか決断する時間をくれた。
カツ丼が三杯、テーブルの上に載せられた。
三杯? そのうち一杯にラップにかけられ、俺は察する。
「最後の晩餐だな」
真剣な顔つきが微笑みに変わって姉ちゃんが切り出してくる。
「晩餐といっても、まだぎりぎり昼の三時くらいだけどな」
「細かいことは気にするな」
すでに察していた。だから姉ちゃんが作ってくれた最後のカツ丼を一口一口味わった。