第十話「優しいお兄ちゃんにできること」
◆
「未来治か……こんな時間によく電話なんかかけられたな……。ただそれよりも、私と縁切りをしたのに、よく私と話せるものだ。ああいや、これは嫌みだ。聞き流してくれ」
テーブルで夜食のおにぎりを食べているとき、姉ちゃんのスマホに未来治から電話がかかってきた。カラオケで遅くなると言ったのに、姉ちゃんは先に寝ることはせず、俺を待っていた。
それはともかく、こんな夜更けにかけてくるなんて、よほど緊急事態なのだろう。
未来治の話を聞いて姉ちゃんは眉間にしわを刻む。
「そうか、糸月ちゃんが」
糸月の名前が出てきて俺は両肩が跳ね上がった。カラオケ店で糸月は一人の男にくっついてた。関係があるかもしれない。
「…………」
姉ちゃんが長い沈黙を要す。電話からもいっさい声が漏れず、未来治は姉ちゃんの言葉を待っているようだ。
三分経って、姉ちゃんは口を開く。
「未来治、お前はこの問題を完全には解決できない。お前ができるのはせいぜい九十九パーセントまでだ。残りの一パーセント、お前に解決はできない。一パーセントに関しては私に任せろ。お前は九十九パーセントを全身全霊かけて解決するんだ」
そう言って姉ちゃんは電話を切る。
「姉ちゃん」
「ひさしぶりだな、未来治のほうから相談に乗ってくるなんて」
「……糸月に、何かあったのか」
姉ちゃんはその仔細を教えてくれた。
「糸月が不良グループに……」
俯いて俺は頭を抱える。
「熱彦。お前、気づいていたんじゃないのか?」
確信には至ってなかったが、あの男を見て勘ぐってはいた。
「不良グループをまとめてぼこぼこにして、無理にでも糸月を引き離してやる」
「やめろ」
厳しい口調で姉ちゃんは制止する。俺自身そんなことできるわけがない。けど……。
「お前が殴られることに耐えられないことは私が知っている。お前もそれはわかってるはずだ。そんなことをすれば古傷を悪化させかねない」
「でも」
「格好つけか? 傷は男の勲章だとでも言うのか?」
「そんなシャレたこと考えてもない、でも……」
「お前は不良たちに手を出すことはできない。だがお前だけしかできないことがある」
「俺にしかできないこと?」
「不良グループをぼこぼこにして糸月ちゃんを引き離す、か。どうしてそんな言葉が出てきた?」
「無理も承知だってわかってる。でもやらなきゃいけない。俺自身それが一番わかってる……」
熱情が頭の中から引いていく。まとめてぼこぼこにするなんて、よくそんな言葉が出てきたな。
「やはり、妹のことを守ってやりたいんだな、熱彦」
「……」
「お前が置いてきたものを取り戻しに行くチャンスだ」
俺は気づく。それこそが俺にしかできないことであり俺がやらなければならないことなのだと。
◆
僕にしかできないこと。
けっきょく僕は優しいお兄ちゃんを演じていただけ。兄の威厳なんてものは最初からないし、手に入れられるはずがない。
帰宅すると、外から部屋の電灯がつけっぱなしになっているのが見える。糸月ちゃんの部屋だ。
玄関の扉を開けて糸月ちゃんを呼んだ。返事はない。
これから僕はどうすべきか。
わからない。
でも、それでいいんだ。
体裁を繕った話に心はない。不器用のまま動くことにこそ心はあるんだ。
糸月ちゃんの部屋の前に来る。
「入るよ、糸月ちゃん」
すっと襖を開けると、糸月ちゃんは部屋の隅で膝を抱えていた。
「お兄ちゃん」
「糸月ちゃん」
「やっぱわかってるんだね? 何もかも」
「どうしてそう思ったの?」
「お兄ちゃんの挙動がおかしかったから。ううん違う……おかしいのは明らかにあたしのほうだね。これ以上隠しようがないし、隠す意味もない」
僕はじっと黙ったまま糸月ちゃんの話に耳を傾けた。
「強くなりたかったの……うちは家族みんながしっかりしてなくて、お母さんも家事が下手であたしたちに対して放任主義だし、お兄ちゃんはいつもだらけてるし」
それが糸月ちゃんの家での生活なのだ。僕とでは正反対だ。僕は家の決まりが厳しい。
糸月ちゃんと生活を始め、厳しさがなくなったことは、僕にとっては新鮮だった。
でも彼女は自由奔放な家族に嫌気が差していたのだろう。
「いま、中学で駅伝部に入ってるんだ。だけどみんなだらけてて、練習もろくにしてない。それが普通なんだと思ってた。けど、他校の駅伝部の走りを見に行ったら、びっくりしちゃった。凄く速くて、うちよりも厳しい特訓をしてた」
本当に頑張ってる人と、だらけている自分たちとの落差を見て、糸月ちゃんは愕然としたのだろう。
「あたしは下の下だっていうことに気づかされたよ。でも、そんな自分を否定できなかった」
「そっか、そのことに気づかされて悔しかったんだね」
「それである日、あたしは家族に黙って街に出たの、夜遊びってやつ。街を歩いてたら同じクラスメイトの不良男子に絡まれて、あたし抵抗したよ、だけど相手は男の子だからやっぱり力があって、その腕を押しのけることができなかった。そのとき、あたしは持っていた自信が壊れちゃって」
どうせなら、勘違いしてたままがよかったと糸月ちゃんは嘆く。
「そのときに現れたのが敏夫さんだったの」
敏夫の強さに守られて、その超越的な強さを知り、彼女はさらに衝撃を受けたのだろう。
僕も弱いから、糸月ちゃんの言うことはわかる。
だけど糸月ちゃんと、傷の舐め合いをしようとは思わない。
「あたしは敏夫さんにお願いした。あたしを強くしてくださいって」
それが敏夫さんが作るグループとの付き合い始めだったという。
「糸月ちゃんは強くなりたかったんだね」
「でも未来治お兄ちゃんと兄妹として付き合い始めて変わった」
「どんな感じに?」
「料理を作るのが楽しかった。お母さん、いつもインスタント食品やレトルト食品やスーパーの惣菜だったから。でも、はじめてお兄ちゃんと料理らしい料理を作るようになって、あたし自身が変わった気がするの。なんだ、こんな感じに生きてもいいんだって。説明になってなくてごめん、でもあたしが変わったことは確かなの」
きっと僕自身、強さとは無関係だったからだろう。強さなんてなくてもいい。糸月ちゃんがそう思えるように変わったのであれば幸いだよ。
「あたしのお兄ちゃんは空威張りばっかで、優しくなくて、あたしはお兄ちゃんみたいな優しいお兄ちゃんがいたらなって思ってた」
「そっか」
「そして、お兄ちゃんが一番信頼できるから」
お兄ちゃん。お兄ちゃん。いつも糸月ちゃんは僕のことをお兄ちゃんと言ってくれる。お兄ちゃんという言葉は、ただ呼びやすいということだけではない。僕には親しみが込められていた。
「あたしは……あのグループを抜ける、そして罰を受ける」
そうなると糸月ちゃんは袋叩きだ。
「そんなことはさせないよ、僕が許さない」
「でも、あたしのために」
頑なに断らせてもらう。僕自身一歩先へ突き進まなくてはならないんだ。
「糸月ちゃんが罰を受けるなら。僕は敏夫を許さないだけには留まらない。糸月ちゃんだって許さないから」
「……お兄ちゃん」
「僕は絶対に糸月ちゃんを守る」
親身にそう誓えるように僕はなっていた。
正面に立って僕は足がすくむかもしれない。でも僕はいま言葉で自分を束縛した。この誓いに僕は頼らせてもらう。
「この件は僕に任せてくれ」
「うん、でも。私が許されないという事実はちゃんとわかってる、だから」
糸月ちゃんは立ち上がり、ぶるっと震えながら、僕に目線を合わせる。
「いまここであたしを叱って。未来治お兄ちゃん」
そう都合よく「うん」とは言わない。
「これだけは言っておく、僕はお兄ちゃんじゃない」
「お兄ちゃん?」
「僕は、糸月ちゃんにとって『優しい』お兄ちゃんだ。だから僕を兄妹として好きになったんでしょ?」
僕はもう薄々ながら気づいていたんだ。
「糸月ちゃんがペナルティを受ける必要はない。僕ができることは『優しい』お兄ちゃんであり続けるということだけだ」
「お兄ちゃん……」
糸月ちゃんの目から涙が込み上げる。彼女が威勢で作った張り子の虎が、破れていくさまを見ているようだ。
「ごめんなさい……」
彼女のふわっとした頭を撫でてやる。
僕は優しいお兄ちゃんだ。彼女を叱ることはできない。
僕にできることは、糸月ちゃんを守ってやることだけだ。