プロローグ 姉妹交換生活を始めました
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俺、小岬熱彦には、ひとつ思うところがある。
姉ちゃんが欲しい。
とかく生まれる順番、そして男女どちらに生まれたかについて聞くなら、兄として生まれた人間は「姉ちゃんが欲しかった」と嘆くことが多い。これは批判の有無などどうでもいい、圧倒的に多い答えだ。アンケートでYESの答えが占めるほどだ。賭けていい。
え、一人っ子として生まれた男はどうなのかって? 姉妹に挟まれ二番目に生まれた男だったらどうなのかって? そんなこと知るか。
ともあれそれが世の常。
かくいう俺もその一人。運命の悪戯で兄として生まれ、姉が欲しいと懇願した。
一日、俺は彼女と出会った。
初夏の公園。
亜麻色の長い髪をした彼女の残り香がかすめて、少し右手を伸ばせば届く距離で、彼女が俺の隣を軽い足取りで通り抜ける。
そんな美人の容姿から、大人の女性であることはわかった。
もし、あの人が俺の姉ちゃんだったら……。
「お兄ちゃん! なに鼻の下を伸ばしてるの!」
突然、左の頬を思い切りつねられた。文句を垂れるのは妹の糸月。
下から俺を見上げているクセに、チョー上から目線だ。
「うるせえよ」
ボーイッシュなショートカットで、こざっぱりして、男に間違えられそうな顔で。ことあるごとに俺に対し反抗を重ねる奴だ。
少しは兄に対して尊敬の念は持って欲しい。
妹の尻拭いを、いつも俺がやってるんだからな。たとえば……。
キャッチボールに付き合わされたときも、お隣さんのガラスをぶち割って、こいつ逃げやがった。
自分のケツくらい自分で拭けよ妹よ。そう思いながら振り返る。落ち着いた風景の中、容姿端麗な女性が離れていく。
グーパンチを腹に食らう。
「お兄ちゃんの好みはだいたいわかった」
妹がにやにやと笑う。
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僕は、浅木未来治。
弟に生まれ、姉貴、織鶴姉ぇがいる。僕に一挙手一投足を指摘してくるんだ。
姉の近くにいるときは、僕は父親といるとき以上にぴりぴりしている。
父親の車をホースの水で洗う。ボンネットに水を当てる。
朝の六時に父親の車を洗う家庭なんてうちぐらいだ。
この早朝、誰も起きているわけが……。
と思っていた矢先、道の向こうから駆け足の靴音が聞こえてくる。
僕の家は坂道を上ったところにある。女の子の頭が坂道の地平から出てきた。
小さな容姿で、息を弾ませてのジョギング。
「おはようございます!」
心が躍り、僕は「おはよっ」と笑顔を返す。
手を振りながら僕は、彼女の後ろ姿をいつまでも見送った。
その不意を突いて、軽いげんこつが降ってきた。
「いてっ」
振り向くと、姉貴がいた。
「よそ見するな!」
気づけば、アスファルトの路面を水浸しにしていた。
「はいはい、わかってるよ。姉貴」
「はい、は一回で十分!」
二度も小突かれた……。
この姉がいなければ、どれだけ僕は生活しやすいか。
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――あの人が、俺の姉ちゃんだったらどれだけいいことか。
――あの子が、僕の妹だったらどれほどいいだろう。
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スマホのアラームが鳴らないうちに、一階から駆け上がる音で目を覚ます。バタンとドアが開かれ、布団を剥ぎ取られた。
「なんだよ、糸月。夏休みなんだから、もう少し寝かせろよ!」
目をこすって不満をぶちまけようとするが、顔を見て糸月ではないことに気づく。
「織鶴さ……いや、姉ちゃん……」
「朝だぞ、熱彦」
「おはようございます」
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「いってきます!」
僕はバッと布団から這い出た。慌てて時刻を見ると、目覚まし時計は五時三〇分ちょうど。
姉貴に一発殴られるかと思いきや、部屋の傍らにいたのは細身ながらも元気いっぱいな、あの子。
「糸月ちゃん」
「未来治お兄ちゃんはゆっくりしてていいよ。あたしは早朝のジョギングだから、ついでに挨拶しただけ」
「おはよう」
寝ぼけ眼でようやく思い出す。夢にまで見た生活がついこのあいだ始まったのだ。
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――僕の姉貴の織鶴。
――俺の妹の糸月。
――糸月ちゃんは僕の妹に。
――織鶴さんは俺の姉ちゃんになった。