夢を見る
スカウトマンはウンザリとした気持ちを極力表に出さないよう気を付けながら、しかし隠し切ることのできない重い足取りで街を歩いていた。人で溢れかえった往来には言うまでもないが様々な種類の人間がいた。
ビジネススーツを着込み忙しげに早足で歩く男、年齢に不釣り合いな分厚い――そして派手な――化粧を施した女子高生、待ち合わせをしているのかしきりに腕時計を気にする少女。
アイドルを映し出した大きな街頭テレビの光が道行く人々を明るく照らす。そんな彼らを目で追いながら、
「いねえよなあ」
スカウトマンは大きく溜息を吐いた。ギターを背負い歩く少年少女、路上で歌う青年。そんないつの間にか世界から姿を消した人々の姿を彼は夢想するが、少なくとも視界の中にそんな幻想の産物は存在しない。
歌手やアイドルを夢見て音楽業界の扉を叩く人間は、最早どこにもいないのだ。そんな分かりきった事実を改めて実感し、彼は後頭部を掻きながらそれでも観察することをやめずに歩き続ける。
耳に届くテレビに映し出されたアイドルの声に苛立ちを覚えながら、彼は思わず同期の男の顔を思い出していた。
「くそっ、運よく顔のいい女を見つけたからって調子に乗りやがって。見てやがれ、俺だって今に――――」
そうだ。たまたまだ。たまたま顔の良い女を見つけて、たまたまその女が歌の才能を持っていて、たまたまその女がダンスのレッスンを逃げ出さすに最後まで続けられただけなんだ。全部、全部運が良かっただけだ。
だから、だから俺がスカウトできないのも、いまだにノルマが達成できないのも運の問題なんだ。
「もうすぐだ。もうすぐ、お!」
グチグチと不平を漏らす彼の脇をちゃらちゃらした一組の男女が通り過ぎる。男の方は普通だが、女の方はなかなかの容姿だ。
――これはテレビ映えしそうだな。
しめた、と思いながら、彼は不審者だと思われないよう慎重に息を整えると、紳士然とした態度でその背中に話し掛けた。
「突然申し訳ありません。今、少々お時間よろしいですか?」
「え? なに?」
「知り合い?」
お互いに確認し合う男女。どちらの知り合いでもないと分かるやあからさまに不審げな顔を見せる。スカウトマンは内心焦りつつも丁寧な仕草で名刺を差し出した。
「へえ、音楽会社のスカウトの人なの」
「まだいるんだ。スカウトとか」
何が面白いのか笑い合う男女に軽い苛立ちを覚えながら、彼は引き止めた用件を告げる。予想はしていたものの、その反応はスカウトマンの望むものからは程遠いものだった。
「え? 歌手にならないか? なる訳ないじゃん歌手なんて」
「なあ。潰しきかないし、デビューしても売れるか分からないしな」
「そうそう。それにちょっと売れてもずっと売れていくとは限らないし」
「歌の練習するぐらいなら資格取るための勉強した方が確実に自分のためになるよな。オッサンもスカウトマンとして将来の大スターを見つけるんだとか夢見てんならやめた方が良いよ。もういい歳なんだし」
「ねえ。あ! それでね、私今度この資格を取ろうかと思うんだけど」
完全拒否された挙句に一方的に話しを打ち切り去っていく派手目の男女。その背中を見送りながらスカウトマンが肩を大きく震わせる。
――やかましい! スカウトマンだってなあ、立派な社会人なんだよ! お前らみたいに資格がどうとか言ってる学生と違って真面目に堅実に働いてんだ! 夢も何もない現実世界でな! てか、お前のことは誘ってねえよ男の方!
今すぐ声に出したい衝動に駆られたが、まさか往来のど真ん中で叫び声を上げる訳にもいかず、彼は必死の思いで心の中で叫ぶにとどめた。
――落ち着け。人間はなにもあの二人だけじゃない。あんなこと言われるのは慣れっこだろ? とっとと仕事を再開しよう。
なんとか気持ちを切り替えスカウトを再開するものの、結果は一向に振るわない。誰もかれもが同じようなことを言っては彼の元から去っていく。もう今日はここまでにしようか、と思いつつ、最後の気力を振り絞り視界に入った男に声を掛ける。
「どうかな? 歌手になって売れさえすればスゴイお金が手に入るよ。大きな家も買えるし、美味い物も喰い放題。最高だろ?」
我ながら即物的すぎるかと思う最低の誘い文句ではあったが、彼の必死さが通じたのか、ただ単に単純な人間なのか、
「え? ホントッスか? じゃあ歌手にしてください」
男は二つ返事でオーケーを返してくれた。
「は? なってくれるのかい? 歌手に?」
「だって金がスゲエもらえるんでしょ? ならなるって。今金ねえし」
いまいち自分の説明を理解してくれているのか怪しい雰囲気ではあったが、苦労の末にやっと捕まえたのだ。今更後には引けない。
「も、勿論だとも。さ、そうとなったら早速会社に行って書類を作ろう」
彼は笑顔を振りまきながら大急ぎで事務所へと男を連れて行った。
――ああ助かった。これでノルマは達成だ。
そんな安堵と共に。
そんなやり取りがあった数日後、彼は社長室へと呼び出しを受けていた。
――なんだろうな。この時期に呼び出しなんて。もしかして、この前の男が凄い逸材でボーナスがもらえるとか? おいおい、やべえな。運が回って来てるんじゃないか? へへ、ボーナスかあ。何に使うかな。
そんな夢と希望に胸を満たす彼に発せられた社長の第一声は、
「なんてポンコツを捕まえてきやがったこの大馬鹿野郎!」
「えええええ?」
完全に予想外の一撃に彼は思わず驚きの声を上げていた。ポンコツとは一体?
「お前が何日か前に連れてきた野郎が居たろ? 何なんだアイツは? 歌は下手クソだはダンスはダメだは。おまけにこっちの話しがまったく通じねえ。野郎が講師に言った第一声知ってるか?」
「え? いや、知りませんけど」
「あ! あんたが金くれるんスね! だ!」
ご丁寧に男の真似までして社長が青筋を立てて怒鳴る。まさかそんな事態になっているとは露知らず彼は必死に頭を下げた。
「も、申し訳ありません。まさか」
「言い訳はいらねえ! あんなポンコツしか連れてこれねえならお前はもういらん。クビだ!」
「え! そ、そんなあ!」
「そんなもクソもあるか! 只でさえ歌手が少なくて経営が厳しいんだ。仕事しねえ奴を置いてけるほどウチに余裕はねえ!」
「そ、そこをなんとか! アイツのことは、その、私が何とかしますから!」
少し前に業績不振を理由にクビになった先輩社員の顔を思い出しながら、彼は縋りつくような声を上げた。正直自分でも何を言っているのか冷静に判断できていなかったが、黙っていてはクビが待っている。
「ああ?」
「私が社会人としてマナーを教えます! う、歌もダンスも何とか上達させますからどうか!」
土下座せんばかりの勢いで頭を下げるスカウトマンの後頭部を見下ろしながら、社長が鼻を鳴らす。
「私が私がって、お前、歌やダンスの経験なんてあったか?」
「……いえ、それは」
「ねえだろが。プロの講師が匙投げかけてんのに素人のお前がどうやって上達させんだ? 夢見たいなこと言ってんじゃねえよ」
まったくもって正論ではあったがここで素直に引き下がっては職を失ってしまう。もうどうにでもなれとばかりに彼は一世一代の大見得を切った。
「任せてください。絶対になんとかして見せます。もし出来なければクビにでもなんにでもご自由に」
「ほう。言ったな? おもしれえ。なら期日までに歌手として使えるようにしてみせろや。俺が直接成果を見てやる。納得できなかったらお前はクビだ。いいな!」
「だ、大丈夫だ。音痴だろうが運動音痴だろうが所詮は人間。下手さには限界がある。常識だって教えればいいだけだ」
そう自身に言い聞かせながら彼はレッスンスタジオへと続く廊下を歩いていく。数分と経たずに到着したレッスンスタジオの扉を前に彼は僅かに眉をひそめた。なにか、とてつもなく嫌な予感がしたのだ。
本能がこの扉を開けてはいけないと叫んでいる。ような気がした。
――何を馬鹿な。
心の中に浮かんだ感覚を鼻で笑い彼は扉を勢いよく開いた。まずは始めが肝心だ。ここはガツンと、
「ごあ」
レッスンスタジオに足を踏み入れるや否や飛んできた裏拳に横っ面を殴打され、そのまま数歩後ずさり尻餅をつく。何が起きたのか彼が理解するよりも早く、講師の声が現状を丁寧に教えてくれた。
「だから! どうしてステップの練習をしているだけなのにスタジオの中央から隅の扉まで移動するの! しかも何? その無駄な回転は! そんなことしろなんて一言も言ってないわよ!」
「いやあ、俺も分かんねえんスけど。足踏みしてたら身体が回っちまって。つか、さっき手に何か当たったような?」
「ようなじゃねえよ! 当たってんだよ思いっきり!」
片頬を抑えながらスカウトマンが叫ぶ。鈍い痛みがじんじんと頬に響き、衝撃で頭はくらくらと揺れている。
「あらスカウトの。どうしたの? やっとこの子のこと回収してくれる気になった?」
「いや、違う違う」
今にも男を投げ出さんばかりのダンス講師に彼は慌てて手を振った。
「なかなか上達しないって話だから俺も少しは協力できないかなと思って様子を見に来たんだ」
「協力って」
お前に何が出来る? と言わんばかりのダンス講師の顔に彼は複雑な表情を見せる。言いたいことは分かる。分かるのだが。
「……酷いみたいだな」
「歌の方もスゴイみたいよ」
殴られたのとは別の理由で痛み始めた頭を押さえ、スカウトマンは僅かにふらつきながら腰を上げる。
「おい。ダンスはいったん中止だ。歌の方にいくぞ」
「え? 歌ッスか?」
「ああ。講師には話しを通してある」
そう言って彼は強引に男の手を引きボーカル講師の元へと連行する。ミュージックスタジオに到着するなりレッスンを始め、彼は絶望という言葉の本当の意味を、知る。
「…………」
「大丈夫ですか?」
ガタガタと全身を震わせる彼に、ボーカル講師が気遣わしげに声を掛ける。
「あ、あれは、一体……な、なん、だったんだ?」
悪魔、いやあれは悪魔などと生易しいものではない。魔王、そう、あれこそが魔王の歌と呼ぶにふさわしい。とうてい人が出しているとは思えない高いのか、低いのかも分からないぐちゃぐちゃな音程。そもそも発している言語が日本語なのかすら判然としない。
男の歌を聞いた途端に全身が激しく震え出し、意識が遠のき始めたのだ。まるで何か目に見えない手で意識を引っ張られているかのように。
そこで意識を失うことが出来たなら彼はどんなに幸せだったろう。だが、男の歌はそれを許してくれるほどの優しさを要してはいなかった。意識が飛び掛ける程の不快感を与えるだけ与え、しかし、意識を飛ぶことは決して許さない。
生き地獄。そんなものがこの世に存在することを彼はこの時初めて知った。
「俺は、何か出来ればと、そう思ってここに来たのに、なのに」
カチカチと歯を鳴らしながら、彼は両腕で自分の身体を抱く。いったいどうすれば、あの怪物をどうにか出来ると言うんだ?
「大丈夫ですよ」
「え?」
打ちひしがれ絶望に沈むスカウトマンに、ボーカル講師が優しく声を掛ける。
「私はあの悪夢のような人と毎日向き合わされてきたんです。自分から望んでここに来た以上、絶対に逃がしません」
ニコリと微笑み、可愛らしい仕草で小首を傾げる。その華やかな笑顔の裏から見え隠れする無限の憤怒に背筋に冷たいものがはしる。俺に逃げ場は、ない。
「で、でも、俺になにが」
「一緒にレッスンに参加しましょう。一緒に歌って、一緒に踊るんです。彼のすぐ隣で。そして気付いたことを逐一彼に教えるんです。聞けばあなたは歌もダンスも未経験の素人。プロの私たちには気付けないことが気付けるかもしれません」
「そ、そんなこと」
出来る訳がない! そう叫びたかった。叫びたかったが、彼はその言葉を口に出すことは出来なかった。ボーカル講師の満面の笑みが、それを言ったら殺す、と雄弁に語っていたから。
「違うだろ! なんでそこで回し蹴りが俺に飛んで来るんだよ! ジョンプって言ったろ!」
「ええ? ジャンプしたッスよ?」
「嘘つくんじゃうおっ!」
「あ? 何しゃがんでんの? ステップって講師の人言ってんじゃん」
「言ってんじゃん、じゃねえよ! ステップって分かってんのに何でダイビング・ボディ・プレスがかましてんだ!」
「お前日本語って分かってんのか? 今なんて発音した?」
「え? 愛してるって」
「はあ? 俺の耳には怨嗟の声にしか聞こえねえよ! 見ろ! まだ手が震えてる!」
「エンサ? 何スかそれ?」
大きな会場を埋め尽くす観客。彼らが上げる歓声が衝撃となってスカウトマンの頬を打つ。神々しささえ感じるスポットライトの光がステージのど真ん中に立つ男を照らし出していた。遂に、遂に、彼らはここまで辿り着くことが出来たのだ。
ステージの脇で感動の涙を両目に溜めたスカウトマンは、この感動を誰かと分かち合いたい強烈な衝動に駆られた。誰が良いだろうか? 苦楽を共にしてきた講師の二人か? それともここまで自分の精神を支えてくれた同僚たちだろうか?
悩む彼に答えを提示するかのようなタイミングで手にしていた業務用の携帯電話が鳴動する。ディスプレイには社長の名前が表示されていた。
「社長かあ」
出来れば最初に感動を伝えるのは別の人間――講師の二人とか――が良かったのだが、この際何でもいい。彼は脅迫的なまでに誰かにこの感動を伝えたくなっていたのだ。これ以上は我慢が出来そうにもない。
「お疲れ様です社長。いま」
「に、逃げろ! いますぐそこから」
そこまで言ったところで社長からの電話が一方的に切れる。何だったんだ? と首を傾げる彼だったが、そんな疑問は次に訪れた変化の前にあっけなく流されてしまう。
先程まで感じていた熱気が、まるで別の世界に放り込まれたかの様に一切感じられなくなっていたのだ。耳が激しく叩いていた歓声もいつの間にか途絶え、痛いほどの静寂が辺りを包んでいる。
「な、なんだ?」
状況の変化を飲み込めないまま、それでも何故か、彼は誘い込まれるようにステージ上の男の元に向かう。本来であれば絶対にありえない行動ではあったものの、その時の彼はその行為に一切の疑問を感じなかった。
「お、おい。一体何が起きてるんだ? なあ、無視してないで答えてくれ。なあ」
「はは、なに怯えてるんスか? 今からライブが始まるんスから。楽しそうにしてくださいよ」
「ら、ライブ?」
「ええ。今から始まるんですよ。地獄のライブがねえ!」
必死に肩を揺すりやっと振り返った男。その男の顔を見て彼は悲鳴を上げていた。その顔はまるで伝承に出てくる悪魔そのもので、
「う、うわああああああああああ」
突然上がった彼の悲鳴に、ボーカル講師が短く悲鳴を上げる。
「はあ、はあ、はあ。あ、あれ? ここは?」
「だ、大丈夫ですか?」
心配そうに顔を覗き込んでくるボーカル講師を手で制止して彼はゆっくりと首を振る。そうだ。確かレッスン中に体力の限界がきて仮眠を取っていたのだ。あんな悪夢を見るなんてそろそろ限界なのかもしれない。
「早く、早く終わらせないと。おい! 続きをやるぞ」
脅迫感に背中を押され彼は身体をふらつかせながら立ち上がり、呑気な顔で菓子を食っていた男へと声を掛ける。
「いいか? 歌を歌う時は――」
スタジオに入るなりレッスン中に気付いたことを男へと伝えていく。出来る限り男が分かるように噛み砕いて説明し、場合によっては歌って見せる。男との地獄のレッスンを少しでも早く終わらせるために彼は全てにおいて必死だった。
男へ教えることが出来るよう仕事中でも発揮したことが無い程の集中力を発揮し、どうすれば男が上達するのか死ぬ気で頭を回し続けた。
それでも現状に一切の変化はない。どころか彼が必死に教えれば教える程、目に見えてやる気を失くしていっている。これほどの切望がどこにあるだろう。社長と取り決めた期日ももうそこまで迫っていた。
熱狂的なファンで溢れた巨大なステージ。耳が痛くなるほどの大歓声。キラキラと輝きと夢に満ちたステージの中央で歌う、誰か。
誰でもいい。もうそこに立つのが誰だとしても良い。ただ、歌手として歌ってくれさえすれば。
切に願いながら涙を流す彼の頬を誰かが控えめに叩く。ぼんやりとした意識のまま彼はゆっくりと目を開けた。
「大丈夫ですか? なにか泣いていたようですけど」
「え? あ」
「限界ですか?」
「い、いや、大丈夫。大体今日は期日なんだ。限界だろうが何だろうが弱音なんて吐いてられない。アイツは? ああ、また菓子食ってるのか。おい! 続きをやるぞ。今度は俺が最後まで歌って聞かせるから聞いてろよ。その後、注意点を教えるから」
男のやる気を微塵も感じられない返事を聞きながら、彼は必死に、全力で、全てを賭ける気持ちで歌を聞かせる。時間短縮の目的もあってダンスも披露。自分の気持ちが、考えが、少しでも男に届けられればと一切の手抜きなく懸命に。
歌が終わり、彼は息を切らせながら男へと振り返る。今から歌とダンスの注意点について男へと説明しなければならないのだ。どちらかというと此方の方が重労働ではあったが、これからの体力の心配をする必要はなかった。振り返った先に男が居なかったからだ。
「…………どこにいった?」
「あの、すいません。引き止めはしたんですけど」
申し訳なさそうにするボーカル講師が言うには、男はついさっき歌手を辞めると言ってスタジオを出て行ったそうだ。しかし、それ以上に彼の心をどん底に落とす事態が発生していた。
「あ、あ、あああ」
「…………」
いつの間にか、スタジオの中に仏頂面の社長が立っていたのだ。
クビ。
脳裏に浮かんだその二文字に彼は両膝から力が抜け落ちていく。いつの間にか彼は床に両手を突き頭を垂れていた。終わったのだ。彼のスカウトマンとしての人生が。
無言のまま打ちひしがれた彼の肩に社長の手が載せられる。思わずビクリと肩を震わせた彼に社長がゆっくりと告げた。
「素晴らしい歌とダンスだった。お前は良い歌手になれる」
「…………は?」
訳が分からず社長の顔を見返すスカウトマン。そんな彼に社長はまったく同じセリフを口にした。
「素晴らしい歌とダンスだった。お前は良い歌手になれる」
「え? あの」
「ちょっと予定とは違ったみたいだが、期日までに立派な歌手を準備できたじゃねえか。お前さんの誰かに何かを伝えたって強い気持ち。俺にもしっかり届いたぜ」
「はあ」
「良かったですね。今まで必死に頑張ってきた甲斐があったじゃないですか」
「この嬢ちゃんにも感謝しとけよ。お前の頑張りを俺に必死に伝えてきたんだからな」
「ちょ、ちょっと社長」
「はっはっは、なんだ照れてんのか」
二人のやり取りを別の世界の出来事のように見つめながら、彼は強張っていた全身から力を抜き安堵の息を吐いた。
ほんの少し前に見た夢の光景を思い出しながら、彼はしみじみと呟いた。
「ああ。夢を見てて良かった」