五、漆黒の聖騎士(35)
静寂だけが、ただ流れていた。
ロウは、ベッドに横たわる青年の亡骸に手を伸ばし、温度を失った両手を胸の前で組ませてやる。
そして、そのまま柱を背にして佇んでいた。
「……なぁ。ホルダンでのこと、覚えてるか?」
視線は床へ投げたままで、ぽつり、問いかける。
「ロウ……?」
「俺が『戦いはエゴ』だって言ったとき。
お前、否定はしたけど――答えはくれなかったよな」
真っ直ぐに、切れ長の双眸はラグナを見据える。その表情は、今にも降り出しそうで。
――「戦いは戦いだろ?エゴ以外のなにがあるってんだ」
――「エゴ?………君は、」
暫くそうしていたが、やがて彼は視線をベッドに移した。
戦って、戦って、戦い抜いて。そして果てた、勇敢な若者の最期。
偽りさえも利用して、彼が戦い続けた――理由に、思いを馳せる。
――「この理不尽な世界に、踏みにじられる人を、ひとりでも……減らせるかもしれない」
だから。
だから戦ったというのか。
『英雄を騙る偽者として殺されたとしても』その為に、命を擲ったと。
「やっと。……なんとなくだけどよ、判った気がする。
――コイツが、それを教えてくれた」
そうだろ?と、視線を投げかけたら。
何故だか、青年の亡骸は微笑んだような……気がした。
「…………、ロウ」
「司祭を……探さねぇとな」
ジャスティンは膝を落とし、胸の前で何か呟いて。それから静かに肯いた。
「……そう、ね」
つい先程まで、一緒に旅をしていたのに。
剣を振るい、
言葉を交わし、
食事をし、
笑い合い、
なのに、それなのにいまは――こんなにも遠い。
「人の、死――ってのは……いつも隣り合わせのつもりでいたのに、実感すると……重てぇな。
もう何人も、この槍は敵の命を奪ってるってのに、よ」
「生きる為の戦い――尊厳ある戦いと、ただの殺戮は違う。
……今の僕が言っても、説得力はないかも知れないけれどね」
一歩、二歩。
ラグナはロウの傍らへ歩み寄り、こう続けた。
「立ち止まることも、投げ出すことも。僕たちには赦されないんだ。
対峙した相手から、『生きる』選択肢を勝ち取った以上は」
なんとはなしに、掌を結んで、ひらく。
「そう……だよな。
前に、リフが言ってたな。倒した相手の、命の重みを知れ――ってさ。
守るもんがなけりゃ……重みで、潰れちまうとこだったかもしれねぇ」
かたん、と。窓の桟に手をかけるロウ。
「――ッ!
ロウ、ずっと気になっていたんだが……君は、」
声は、騒々しい物音に掻き消された。
廊下には、人、人、人。
宿屋に青年が運ばれたのを知って、市民が押し寄せてきたのだ。
そう、直ぐに理解できた。
「……てめえら、」
あれがそうなのか、とか。
死んでいるように見える、とか。
私たちこれからどうなるの、とか。
ざわめく市民の声は、ノイズ以外の何物でもなく。ロウの神経を逆撫でするには充分すぎた。
そんな彼を気遣うよう、ジャスティンは声をかけようとするが――
「――なんだ、偽者か。
俺たちを騙しやがって……ザマぁねぇな」
市民の誰かが、そう吐き捨てるのが先だった。
かしゃん。
何かが、壊れる音がする。
「ッ、の、ヤロ――っ」
「――待ちなさい、ロウ!」
ぱしん。
思わず拳を振り上げるロウの手首を、誰かが掴む。
「……ッにしやがる!?」
非難の目を向ける彼を、その人物――ジャスティンは静かに窘めた。
「貴方の怒りは正しい。
でも。だからこそ、この手は振り下ろしてはいけない」
「なに、言って……?」
振り払おうとして、ロウは思わず怯む。
相手の面差しも、声も、いつものそれとは異なって見えたからだ。
「怒りに任せて人を傷つければ、それは――
今、呪いの言葉を吐き捨てたこの人と、貴方は変わらなくなってしまうよ」
あくまで落ち着いた調子で、低い通る声は諭す。
「だけどよ、こんな奴等の為に、アイツは命懸けで――ッ!」
「だから言っているんだ。ロウ。
彼が命懸けで守ったものから……その意味を、奪わないでほしい」
切実な眼差し。
「……くそ、ッ」
ロウは、拳を下ろさざるを得なかった。代わりに、ぎっと市民を睨めつける。
「な、なんだよ……偽者の仲間が、偉そうに」
「……い、いや、おい!待て」
ぼやく男の袖を引き、恰幅の中年男が耳打ちする。
「後ろにいる方を見ろ。あの剣に入った紋――見覚えがあるんだよ。俺は若い頃、王都で行軍を見たことがあるんだがよ。
あっちは……『本物』の、ラグナ=フレイシスだ!」
「なんだって!!?」
再び、どっと場が沸いた。
勢いで市民たちが、部屋へと雪崩れ込む。
「あ、ちょっと――」
思わず声をあげるカトレアをすり抜け、彼等は、ラグナを取り囲んでいた。
――市街の真ん中で、そうしたように。
押し寄せた市民たちがベッドを蹴飛ばし、青年の亡骸がベッドから半分ずり落ちる。
が、現在の彼等には『漆黒の聖騎士』以外は眼中にないようで。
「嗚呼、漆黒の聖騎士ラグナ様……!」
「ラグナ=フレイシスが偽者だったと聞いて落胆していましたが、いやいや。
貴方が私たちの街をお救いくださっ――」
――ごすっ!!!!
「……、え?」
鈍い音。
ラグナの前へ躍り出た若い男が、床に叩きつけられていた。
「ラグナ……さ、ま??」
頬をおさえ、唖然とする顔。
絶句したのはほかの市民たちも、ロウやジャスティン、カトレアも同じだった。
「――立ち去れ」
え、と。市民たちは顔を見合わせる。
こつ、こつ、こつ、ブーツの音だけがやけに残響した。
ラグナはベッドの前で足を止め、無様にずり落ちていた亡骸を丁重に戻す。
「彼が、総てを――命を懸け剣を振るっていた間。
――貴方がたは、何をしていたというんです?」
尋ねる声は、淡と、凍えるような冷たさをもって届く。
「……なに、って……?」
「『誰か』が、『何か』をしてくれるのを。ただ待っていただけだろう。
何ひとつ懸けていない者に、彼を冒涜する資格があるのか?」
そこに、怒りの色はない。あるのは――もっと温度のない、侮蔑。
ぼそぼそと何か呟きながら、互いを見回す市民たち。
与えられること、享受することしか知らぬ彼等にとっては、質問そのものが理解の外だったのだろう。
直接ラグナへ何か言おうという者は、誰ひとりとしていなかった。
つい、とカトレアがジャスティンへ視線を送る。
ざわざわと蠢くノイズを縫って、長身の麗人は部屋を進んでいく。
そして。
ばたんとドアを開け放ち、
「もう、ここに用はないわよね。
――行きましょう」
返事を待たず、そのまま廊下を進んでいった。