三、紅蘭の舞姫(21)
少女は走っていた。
月のない夜が包む静寂に、紛れるようにして。息を殺し、物陰から物陰と縫うように進む。
家々からこぼれる灯りが、すれ違っていく彼女の姿を捉え――無情にも、そのシルエットを細長く暴き出していた。
「いたぞ!あっちだっ!!」
ちらと少女が振り向けば、暗がりの中に近づく足音と人影。
「……げっ」
ひとつ苦々しげに漏らすと、少女の足は速度を上げ、一目散に街外れを目指した。
茜色に染め上げられたショールの中から、白く細長い腕が覗く。
左手には、つい先程まで履いていたサンダル。
街の路地は石畳が敷き詰められており、サンダルで走ると足音が響いてしまう。
「つ、っ……」
僅か、表情が歪む。
裸足で走り続けていた足が痛みを訴えた。見れば、石畳に赤褐色の染み。
――しまった、と彼女は青ざめる。
これでは、追手に居場所を伝えているようなものだ。
立ち並ぶ民家も、自警団も、彼女に救いの手を差し伸べてはくれない。
理由は簡単。この『街』そのものが、彼女に迫る追手なのだから。
「へっへっへ、やっと追い詰めだぜ」
少女の足が、十字路の真ん中で止まる。
前方には男の姿。彼女は左右を見回し、左手へと再び走り出す。が、それも数歩で詰んでしまった。
「手間取らせやがって……
猫みたいにすばしっこい女だ」
今度は左手から。右からも近づく足音がある。
前後左右を包囲され、少女は完全に退路を断たれた状態となった。
「しつっこいわねぇ。しつこい男はモテないわよ?」
武装した男たち――自警団の兵士を相手に、丸腰の少女はあっかんべー、と舌を出してみせる。
「追いかけっこは仕舞いだ」
じりっ。
男たちと少女との距離が、徐々に縮まる。
「レドフリック伯が、たっぷり可愛がってくださると仰せだ。
さぁ、さっさと館に戻るぞ」
少女を捕らえようと、一歩、また一歩とにじり寄る男たち。
その手が華奢な腕を掴もうとした、その刹那。
……とん、とん。
男の肩を叩くものがあった。
「あんだぁ――ッ!?」
ばしぃぃぃぃぃんッッッ!!!
肩越しに振り向いた男の視界は、人の頭の大きさほどの布袋で遮られ。
次の刹那には、顔面に目一杯、それが叩きつけられていた。
どさり。
兵士は何が起こったかを理解する暇もなく、目を回しノビてしまう。
その影を踏みつけ、ひとりの男が佇んでいた。
外套を羽織った、典型的な旅装束。肩当てや胸当て、剣などといった武装も見られない。
旅人は跳ねた癖っ毛をかりかりと掻き、呑気に大欠伸をしていた。
兵士たちの間に、ざわめきが起こる。
それを理解しているのか否か、旅人は大仰に肩を竦めた。
「こない夜更けに、男が寄ってたかって若い嬢ちゃん追いかけ回すっちゅーんは……
なんともみっともない光景やな」
「なんだ、てめぇッ!」
旅人は喚く兵士たちを完全にスルーし、少女へと歩み寄る。
「怪我あらへんか?」
「えっ?
……あ、ない……けど」
裸足で駆け回って足の裏が擦り切れたくらいで。
「さよかー。そらよかったわ」
たどたどしく答える少女の言葉に、旅装束の男は安堵したようだった。
一方、無視されたままの自警団はといえば、虚仮にされた怒りでわなわなと震え出す。
「貴様ぁ……レドフリック様に逆らう気か!?
その女は、館から逃げ出した踊り娘だ!」
「なんや、おどれら伯爵のイヌなんか。
そら、手間が省けたわ♪」
兵士の言葉に何故か旅人は色を好くした。
そして、
……ごすっ!!!
路地でノビている兵士その一を蹴飛ばし、少女に道を『開ける』。
「早よ行き。ここは俺が何とかするさかい」
とん、と踊り娘の背中を押し、兵士たちと引き離す。
彼女は、一瞬の逡巡ののち――ばっと路地を駆け出す。
「貴様……タダで済むと思うなよッッ!」
「……そら、こっちのセリフや。
まぁ、聞きたいことも仰山あるさかい――全部吐いたって?」
笑みを湛えていた旅人――ラゼルの双眸が、薄っすらとその瞳を覗かせる。
ぞくり。
兵士たちの背中を、冷たい風が奔るような感覚。
彼等がこの男に出遭ったことを後悔するまでに、さしたる時間は必要としなかった。