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BLOOD STAIN CHILD Ⅱ  作者: maria
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五十七章

 ミリアは帰宅するなり、リョウに買ってもらった水色のワンピースを壁に掛け、うっとりと眺めた。

 しかしリョウはまだ落ち着かない。唇にはまだあの、感触が残っている。自分はとんでもないことをしてしまったのではないか、その疑念がずっとあれから自分の胸中を支配している。

 帰りにスーパーに寄って買ってきたノンアルコールのシャンパンと安売りをしていたウイスキー、それにイチゴのショートケーキを冷蔵庫に入れ、リョウは台所に立ち、包丁を握る。有難くも半額になっていた白身魚に塩コショウを振り、アルミ箔に包んで、きのこ、にんじん、ピーマンなんでも野菜をぶち込み、少々豪勢な合格祝いの夕飯を作る。

 それにしてはあまりにもリョウの心は落ち着かず、もっと正直に言うならば、疲弊していた。

 ――俺は、ミリアと、キスをした。

 否、ミリアが悪い訳ではない。自分が付き合おうなどと提案したからだ。些細な嘘を吐いたと泣くミリアを慰めつつ、スウェーデン行きを回避するには最善の策だと思ったが、やはり自分の馬鹿さ加減にめまいがしてくるのである。

 一通り服を愛で終わったミリアが台所にやってくると、リョウの横腹にぴったりと体を付け、一緒にエリンギを切り分ける。何だか妙なことになったとリョウはしかし、黙って料理を続ける。

 「今日は豪勢なのね。」

 「ああ、お前の合格祝いだからな。」

 「合格よりも、嬉しい。」ミリアはそう微笑んでリョウを見上げる。

 リョウは顔を覆いたくなる。「そ、そうか。」

 白身魚をオーブンに入れてセットすると、リョウはリビングのソファに座り、ギターを手に明日のライブの最終チェックに入る。久方ぶりのライブであるのにかかわらず、急に決定したこともあり、三度しかスタジオに入れなかったのだから、いつも以上に丁寧に確認しておく必要がある。それはミリアも同様である。リョウの隣に座り込むと、無言でFlying Vを抱え基礎練習から入り、明日の曲をさらっていく。

 こうしているのがリョウにとっては余計なことを考えずに済む、一番自分らしくいられる時間でもある。結局他人にあれこれ干渉されるのが苦手なのだ。リョウは心からそう思う。だから別に女に始終傍にいてもらいたいとも思わないし、それゆえに結婚なんてこの上なく難儀なことだと思うし、それが自分の身に起こるなど、想像だにできない。そもそも作曲とギターの練習のできるはずの時間を割いて、他人のために費やすなんていうこと自体に、我慢がならないのである。

 その点、ミリアは自分が作曲に勤しんでいても文句ひとつ言わないばかりか、できたら最大に賛美してくれるし、それを彩る最高のソロだって作れる。ギターの練習をしていても、その隣で黙って同じくギターを弾き出すのだから、自分にとってこれ以上好都合なことはない。しかもミリアは自己の苦悩にとことん向き合い、それを真摯に音楽に昇華しようとする。その様にリョウは、ほとんど尊崇に近い念を覚えている。

 これがもし、ミリアが普通一般の子供で、あっちに連れてけ、こっちに連れてけと言われたならば、自分はどうだったろう。うんざりして、さすがに出て行けとはいかないものの、やはりこれほどに大切に思うことはなかったかもしれない。リョウはふと手を止めて考え込む。その時、ミリアと目が合った。

 「ラストの曲への繋がり、どうやるんだっけ?」ミリアは尋ねる。

 「Endless~の最後の音Amで流して、ドラムが金物片っ端から鳴らすから、そしてシンバルどでかく鳴ったら、ラストのBlood stain child。」

 「ありがと。」ミリアは再び凛とした横顔を見せながら、弾き始める。

 ギターを持てば、ミリアは瞬時にギタリストの顔になる。ギターしか見えなくなる。おそらくは自分のことさえ見てはいまい。リョウはその類稀なる集中力に心底感心する。初めてギターを持った時から、ミリアはギターを愛していた。放っておけば朝から晩までひたすら弾き続け、その集中力たるや完全に子供のそれではなかった。ユウヤが言っていた、ミリアのインプリンティングの対象は自分ではなく、ギターなのではないかとさえ思われた。

 「お前ってさ。」

 ミリアはふと顔を上げる。

 「本当にギター、好きだよな。」

 ミリアは真面目な顔して肯く。

 「やっぱ、あれなの? 生まれて最初に見た楽器がギターだから、ぴよぴよぴよって、懐いちゃったの?」

 ミリアは目を瞬かせ、首を傾げる。「ぴよぴよ?」

 「……ごめん。」リョウは項垂れる。

 「ミリアはリョウがギターを楽しそうに弾いてたから、ギターが好きになったの。リョウが好きなのは、ミリアも好きになるの。教会で牧師さんの奥さんが弾いてても、楽しそうねって、思っただけよ。」

 やっぱり、自分か。リョウは首肯する。

 その時、オーブンの音が鳴った。

 「お、できたな。」リョウはそう言ってギターを置いて立ち上がると、夕飯の準備をする。ミリアもシャンパンとケーキを出し、大皿に作ったサラダを並べ、ご飯をよそる。

 「まあ。」とミリアは手を頬に当てて、華やかになったテーブルを見下ろした。「クリスマスみたい。」

 「ああ、クリスマス、今年はやんなかったからな。受験だったし。」それが今日からは過去形で語れることに、リョウは何だか時間の速さを感じる。

 「そうなの?」

 「え?」

 「リョウがいれば、いつだってクリスマスよ。」とミリアは意味のわからないことを、それでも嬉し気に語る。

 「……まあ、食おう。」リョウはミリアに箸とフォークとナイフを渡してソファに座った。

 「結婚記念日みたい。」

 リョウは思わず咳込む。

 「違った。恋人記念日。」

 リョウは視線を上げずに、無言でアルミ箔を剥がし、魚を箸で突き始める。

 「リョウ、早く、髪の毛伸ばしてね。」今日のミリアはやたら饒舌である。

 「やっぱ、長い方がいいか。」

 「ミリアは、どっちでもいいんだけど……。」ミリアはきのこをつまみながら言った。「短いと、みんなリョウのこと見るの。今日もそうだった。かっこいいって、バレた。」それはミリアを見ているんじゃあないのか、と思ったが、「……そりゃどうも。」と呟いておく。

 「長いとショクシツだけど。」

 そう言われ、リョウは苦笑いを漏らす。「暫くは職質も、ねえな。」

 リョウは飯を食いながら、そういえば合格祝いがどうのと言い出さないな、とミリアを見た。あれでことが済んだのかな、と壁に掛けられたワンピースをちらと見上げる。

 ミリアはそれには気付かずに、饒舌に明日のライブのこと、高校生になったら今まで以上にギターにもモデルにも専念することなどを語っていく。そうしてデザートのケーキを切り分けながら、来月の社長の結婚式の話にも触れた。

 「リョウは結婚式、出たことある?」

 「昔な。バイトやってた時の先輩。」

 「ふうん。……結婚式は、こうやって、ケーキを切るのでしょ。」と言ってリョウの手を取り、ミリアは自分と一緒にナイフを握らせケーキを切らせようとする。

 「そうだな。」リョウは一緒に切ってやる。

 「そしたら、あーん、って食べさえ合うのでしょ?」

 「そうだっけかなあ。あんま、覚えてねえな。」というリョウの口に、ミリアはフォークで刺したクリームの付いたイチゴを捻じ込もうとする。リョウは仕方なく口を開けそれを咀嚼した。

 するとミリアも見事なまでの大口を開けて待っているので、仕方なくリョウは同じくイチゴを入れてやる。

 もぐもぐと口を動かしながら、「そしたら、チューをするのでしょ?」とミリアが言った。

 「しない。」リョウはここぞとばかりに即答した。

 「する。」

 「しない。」リョウは顔を顰めて、首を横に振る。

 「するのに……。」ミリアの眉間に皺が寄る。

 リョウは今日だけだ、今日だけだ、と自身を納得させようとする。今日はミリアの合格祝いなのだ。

 「……したかも、しれねえ。」

 ミリアはすっくと立ちあがると、笑顔でリョウの右頬に自分の唇を圧しつけた。どうしよう、キスが既に習慣化しつつある。リョウは自らの過ちが空恐ろしくなる。

 「そしたら結婚できるのね。」

 できるわけがない。ああ、それよりも――。この延長線上に、いつ百万円の渡欧費を出せ、と来るのだろうかと、リョウは次第に焦燥してくる。いらいらしながらミリアの切り分けたショートケーキにぐさり、とフォークを突き刺すと、即座に口の中に突っ込んだ。ついでにウイスキーに氷をぶち込み、ごくごくと飲み干す。

 一方ミリアは上機嫌で、今度社長の結婚式に出てしっかりお勉強してくるわね、などと言っている。それは一体、なんの勉強だ、リョウはしかし、聞くに聞けない。

 「そうだ。」

 ミリアの明るい声に、リョウの身がびくりと震えた。

 「今日、一緒に寝てもいい?」

 「はあ?」

 リョウの口から真ん丸なイチゴが零れ落ちた。慌ててそれを拾い上げながら、何でそういう話になんだよ、言おうとしてその責任は、元凶は、全て自分にあることを思い出し、リョウは「それは、犯罪だ。」とイチゴを噛み締めながら努めて冷静に言い放った。

 「犯罪?」

 「そう。犯罪。お前みたいな子供とそういうことをしたら、虐待になるんだ。暴力事件だ。凶悪犯罪だ。そしたら俺は捕まる。逮捕されんだ。だから、できない。」どこか既に考えていた言葉であった。だからスムーズに出た。

 ミリアは「……そういうこと?」と不思議そうに復唱する。

 もしかして――。リョウは単に、本当に、ただ、ミリアは自分と同じ布団で一緒に眠りにつくことだけを、言っていたのか? リョウは、先走ったことを慌て始める。

 「ほら、だってお前にはいいベッドがあるだろ? だから、あれで寝なさい。俺は体が大きいからね、ミリアをつぶしてしまったら気の毒だからね。あははは。」もう、口調も変だし、自分でも何を言っているのかよくわからない。

 ミリアは首を傾げる。

 「リョウ、合格祝い――」

 来たぞ、リョウは体を強張らせ、背を丸め、ほとんど狩りをする獣のようにミリアを睨んだ。生唾を飲み込む。

 「……どうもありがとう。」

 リョウは目を見開く。

 ミリアは壁に掛けたワンピースを指差し、「これね、とっても素敵。」とうっとりと微笑んだ。「早く着ていきたいな。」

 「こ、これ、合格、祝い、なの?」リョウはたどたどしく言った。「結婚式出るための必要経費、じゃねえの?」声が裏返る。

 ミリアはきょとんとして、「お祝いと、違うの?」

 「否、違わねえか、違うか、俺には、よく、わかんねえけど、ってか俺が決めることなのか、それより、」ええい、とリョウは腹を決め「お前、スウェーデン行きてえって、言ってなかった?」遂に自分から言ってしまった。

 ミリアは目を見開く。「え。」

 「だから、合格祝いにスウェーデン行って、その」もう、やけっぱちである。「俺と結婚してえんじゃねえの?」

 ミリアの頬がみるみる紅潮する。そして俯きながら、もじもじと、「だって、スウェーデン、遠いから、お金いっぱいいっぱいかかるし、それでおうちなくなっちゃったら困るし、それにその間ライブもできなくなっちゃうし、それに……、十五じゃ結婚できないもん。」――きわめて現実的な答えが返ってきた。

 リョウは呆然と、長い息を吐いた。「そっか……。」

 「それより、今日はリョウがミリアと付き合うって言ってくれて、それでknock’n on heaven’s doorなぐらい、凄く凄く嬉しかったの。あのね、人生で、一番。」そう言ってミリアは涙ぐむ。

 「ああ、そう。」そう言ったのは随分打算的な考えだったけれど、リョウは何だか長年の苦悩が雲散霧消していく感覚に、暫し呆然とする。喜ぶより安堵するより、頭が真っ白になる。スウェーデン行きは、本気では、なかった……。

 その安堵感は解放感へと繋がり、リョウはウイスキーを次々に胃袋へと流し込むこととなった。

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