三十七章
行く当てがある訳では無い。ただ、くるしかった。自分だって、ミリアと別れて暮らしたいわけでは、無論無い。ただ、そういう手段でしかミリアを守ることのできない、自分の無力さが腹立たしく、悔しかった。
リョウはそのまま小一時間もバイクを飛ばすと、いつしか見知らぬ街に来ていることに気付いた。しかし、その時はっとなる。自分が感情に任せてバイクで家を飛び出しこうしている間に、あの母親がまた来訪したら? 学校にまで出向き、ミリアに手を出し失態を犯した、今日の今日こそ、あの母親はいきり立っている筈だのに。そう思うと自分の軽率な行動が更に、更に、悔しくてならない。リョウは慌てて歩道にバイクを一旦停めると、周囲を見回した。その時、大きなくしゃみが出た。
月ばかりが煌々と眩い、晩秋の夜道を走り抜けた体は冷え切っていた。レザージャケットの上から両腕を摩り摩り、とりあえず目に入ったコンビニに入る。ホットコーヒーを探す目に、ふと、見慣れた顔が映じた、気がした。リョウは自分の目を疑った。雑誌のコーナーに、ミリアの笑顔があったのである。リョウは心臓飛び出る程に、驚いた。表紙? 大勢いる中で、化粧をし、やけに大人びてはいるが、確かにこの後方右側で笑顔を浮かべているのは、ミリアだ。リョウの息が一瞬、止まった。
思わずリョウはその雑誌とコーヒーを買い、そしてライトに照らされた駐車場の一隅で、雑誌の表紙を改めて凝視した。ちゃんと、笑っている。なかなかカメラの前では笑えないと言っていた、ミリアが。しかもこれだけの大人数だったら、ミリアの笑顔を引き出す唯一無二の小道具、我等がLast RebellionのCDを流してもらうことも、できまい。ミリアは、つまり、普通一般の条件下でモデルとしての仕事を全う出来たのだ。リョウの手が細かく震え出す。慌ててページを捲った。
小さなカットではあるが、幾つも、幾つも、ミリアがポーズを取り微笑んだり、清ましたり、むくれたり、色々な表情で写っている。そういえば以前、これらのカットを自分は、見たことがある。撮影を終えると、できたかばかりの写真を持ち帰り、自分に見せてくれたっけ。少々照れくさいような、でも褒めて貰えることを期待しているような、請うような眼差しで……。
自分はあの時きちんと褒めたか? 心から綺麗だと、美しいと、言ったか? こんなことよりも勉強に専念しろだなんて、不満顔で言わなかったか? 不安の暗雲がみるみる広がっていく。
リョウは慌てて雑誌をTシャツの中に突っ込むと、バイクのアクセルを吹かし、勢いよく走り出した。つい先だってもミリアの仕事に対する態度を、何も知りもせずに叱り飛ばした。中途半端な覚悟でやるなと、自分は、そう言わなかったか。痛烈に胸が痛む。何が、保護者だ。何が、ミリアを愛しているだ。リョウは自分が腹立たしくてならなくなった。それを払拭すべく、更にスピードを上げて家へと向かった。
ミリアはソファに丸まって身を伏せたまま、両肩を震わせ泣いていた。リョウに、叱られた。モデルをやめると安易に言ったから。リョウは音楽に、ギターに、歌に、曲に、全身全霊を掛けて取り組んでいる。プライドも人一倍ある。妥協は、絶対にしない。だから、リョウは、仕事を適当に扱うのを何よりも嫌う。そんなことは、とうよりわかっていた筈だのに。でもリョウといたかった。それは何があっても、曲げられない思いだった。
なぜリョウといられなくなる、などという発想が生まれてくるのだろう。リョウは自分を守ってやれないからだと言った。何から? あの女の、暴挙から。つまり悪いのは、母親――。ミリアははっと気づいて顔を上げる。
あの母親さえいなければ、いつまでもリョウと暮らせる筈だのに。あの母親が自分を危険に陥れるから、リョウと離すなどという話が湧いてくるのだ。ミリアは満身を震わせ、人生において最大かつ最高の怒りを胸に灯し始めた。
そう思えば、かつて父親に対して抱いた感情は、憎しみ、ではなかった。それを知るにはあまりにミリアは幼過ぎたし、無知に過ぎた。しかし今、ミリアはデスメタルバンドのギタリストとして、リョウの怒りを知り、そして世界のあらゆるメタルによって表現された怒りを知っていた。
そこにインターホンが鳴り響いた。
ミリアは茫然と立ち上がり、玄関に歩み寄った。印鑑を手に取る。その時、
「……ミリア、ちゃん。」
ミリアはこの上なく、残忍な笑みを浮かべ、印鑑を手から取り落した。
「……今日は、ミリアちゃんとどうしてもお話をしたくて、感情的になってしまって、本当にごめんなさい。……でも、お母さん、ミリアちゃんとどうしても、ちゃんと、お話がしたいの。色々勘違いさせてしまっていることが、たくさんあるの。」
ミリアは目を細め、扉の向こうを静かに見据える。
「あのね、お母さん、ミリアちゃんを捨てたんじゃないの。私も、お父さんから暴力を受けていて、それで、シェルターにずっと入って保護されて、いたの。今は新しいお父さんと暮らしてる。そして、家を建てたの。とっても広いおうち。猫も飼えるわ。それからギターだって大きな音で弾いても、平気なの。だから。」
絡み付くような声色。気味が悪い。自分のあれこれを調べたのか、と思うと吐き気さえする。
「……猫、いらない。ギターも、ここでいい。……あんた、死んで。」ミリア自身驚くような冷酷な声が出た。「あんたのせいで、リョウが出て行った。許さない。絶対、許さない。私はパパを殺した。あんただって、殺せる。」
がちゃり、とミリアは鍵を開け、扉を開けた。そこには驚愕に目を見開いた女が、いた。
「もう一回、言う。私が、パパを殺した。あんたを殺すなんて、もっと簡単。」
女は顔を強張らせ、一歩、退いた。
「私から、リョウを奪おうとした。許さない。……殺してやる。」
女は息を呑んだ。
そこに階段を駆け上がる音が聞こえて来る。
「リョウ!」ミリアは叫んだ。姿形は見えずとも、それがリョウの帰宅を告げる音であるということは、すぐに知れた。「リョウ!」もう一度、ミリアはより大きく叫ぶ。
「また、来やがったのか。」髪を乱しながら、リョウはミリアと女の間に立ちはだかった。
「ミリア、ちょっと興奮しているみたいね。」女は疲れた笑みを浮かべる。
「二度と、来んじゃねえ。」リョウは押し殺したように言った。
「悪いけど、」女はリョウを睨み上げる。「ミリアの親権は、私にあるの。」
「はあ? 何年も放ったらかしにしておいて、今更、何が親権だ。」
「バカな奴。親権は親である私にしか、ないの。あんたは、違法にミリアを自分のものにしているだけの。私、今、弁護士に相談をしている最中だから。その内文書が届くと思うわ。法廷で、会いましょう。」
リョウは息を呑む。
「あんたみたいな反社会的なクズ人間に大切な我が子を渡しておくことなんか、できないの。絶対に、取り戻すから。」
ミリアがリョウの腕を取って呟いた。「……出て行け。」
女が無言の裡に踵を返すと、リョウは激しく扉を閉めた。
ミリアが滲んだ瞳でリョウを見上げる。「大丈夫だから。……大丈夫。」それは自分に言い聞かせるようでもあった。
「あんな、気違いにお前を渡したりは、しねえ。」リョウが疲弊し切ったように呟いた時、Tシャツの下から雑誌がばさりと落ちた。
「あ。」リョウは慌てて取り上げた。そしてミリアを見下ろし、「ミリア、ごめんな。」と言った。
「え?」
「これ。」リョウは改めて雑誌の表紙を見つめる。「お前、もう、既に、こんだけ大勢の中で笑えてんじゃん。凄ぇ頑張ってんじゃん、仕事。俺何も知らねえで、勝手なこと、言っちまって……本当に、ごめん。」
ミリアはそっとリョウの背に手を伸ばし抱き締めた。目頭が熱くなる。
「法廷だろうが、何だろうが、俺はお前を守るために、何だってやるから。俺の元から離れるなんて、……言うな。」
リョウもミリアをきつく抱き締めた。




