三十章
「ごめんなさい。髪の毛、黒く戻します。」
ミリアは店の前でリョウに深々と頭を下げ、そう言った。
「そ、そうなのか。」
急変したミリアの態度にリョウは困惑する。
「ま、まあ、将来な。赤くしたけりゃしたらいいよ。」思わず妥協案さえ口を出てくる。「そ、そして一緒にギター弾いたらインパクト出るしな。」
リョウは帰り道のドラッグストアで白髪染めのクリームを買ってやり、三人して言葉少なに歩いて帰宅した。
リョウは訳が分からない。帰宅をしたら、突然何の前触れもなく、ミリアの髪の毛が自分と同じ赤色になって家出をしたのだ。そして発見された今はやたら神妙に反省をしているのである。この短時間の間に何があったのか。それとも中学生の反抗期とはこういうものなのであろうか。
「ねえ、腕組んでもいい?」
「あ?」リョウはミリアが何を考えているのか、全くわからない。しかし反省をしている今、ああだこうだと話をぶり返して説教するのも、可哀想な気がする。
「ま、まあ。いいけど。」
ユウヤは数歩後ろに下がっていて、黙って二人の様子を見詰めている。
「でも、ちゃあんと高校入って、卒業したら、赤くしてもいいかな。リョウとお揃い。」
「……勝手にしろ。」リョウは吐き捨てるように言った。
帰宅するなり、ミリアは甲斐甲斐しくコーヒーなんぞを淹れ、ソファに座ったリョウとユウヤに「どうぞ」と差し出す。ユウヤは何の魔法を使ったのかと、リョウは不審げにミリアを見上げる。
「お勉強、しましょ。」ミリアはそう言って、おもむろに教科書なぞを広げ出す。
リョウは深々と溜息を吐くと、パソコンに向き合い作曲の続きを始めた。
「ユウヤ、次のテストはね、」ミリアはそう言ってミッフィーの手帳を広げる。そして固まった。背を丸めて手帳を凝視する。はっとなって顔を上げた。
「テスト、近いの?」ユウヤに問われ、
「テスト?」とミリアは再び手帳を見る。「再来週。」
「なあんだ。まだ、時間あるじゃん。」
ミリアは、ぎこちなく、うん、と頷く。そしてぼうっと空の一点を眺めると、ユウヤに肩を揺さ振られいつものように勉強を開始した。
その日から、ミリアは何か考え事をすることが多くなった。リョウはしかし、とりあえず大人しく黒髪に戻したミリアの姿にほっとし、考え事の一つや二つ、年頃の女にはあるものだと深く考えやしない。それよりも赤髪で登校なんぞしたものなら、どうなっていたかとそんなことばかりが脳裏をよぎる。あの保護者気取りの兄貴が悪いと言われることは必定だ。下手をすれば兄貴が赤く染めろと命じたなどと言われても何ら不思議ではない。何故ミリアが突然あんな頓珍漢なことをしでかしたかのかは結局わからず終いだが、今はとりあえず落ち着いているのであえてほじくり返すことはしない。
ある日曜日、ミリアはまた撮影へと昼過ぎから出かけて行った。
撮影の合間の待ち時間に、ミリアより半年前からモデルをしている高校生の少女が、ミリアに「先月号のお給料で、このバッグ買ったの。」とのたまった。「見て。可愛いでしょ。サマンサなんだ。」赤いリボンのついた、革製のバッグである。ミリアは驚いてそれを見詰めた。そして、「お給料?」と尋ねる。
少女は微笑んで肯く。どうやらその金額は少女を甚く満足させるものであったらしい。ミリアは通帳はリョウに預けている。幾ら入ったのだか、知りもしない。最初の取り決めでリョウは、「モデルの給料は大事に取っておいてやるから。お前が嫁に行くまで。」と迂闊な発言をしたために、号泣したことがあった。
ミリアはそのモデルの少女からの食事の誘いも断ってそそくさと帰宅すると、家に入るなり、「お給料!」と叫んだ。ギターを弾いていたリョウはびくりと驚いてミリアを見上げる。
「な、何?」
「お給料。通帳に入ってんの。」
「ああ?」リョウはそう言って顔を顰める。「だから、あれはお前の将来のために貯金するっつったろ。」
「今、頂戴。」ミリアはリョウの目の前に手を差し出す。
「何が欲しいんだよ、必要なモンなら俺が買ってやるから。」
ミリアの唇がわなわなと震える。「否。」
「じゃあ、小遣いから買えよ。その範囲で買えねえんだったら、諦めるか、貯めろ。」
「否!」ミリアは強情にリョウの両肩を揺さ振る。
「一体、何なんだよ、最近お前、反抗期だろ? 髪染めたりなんやかんやよお。んな暇なことやってねえで、黙って俺の言うこと聞いてろよ。俺はこう見えてもお前の親代わりだぞ? 給料は嫁に行く時に、」
嫁、という単語を耳にした瞬間、ぎゃあ、とミリアは凄まじい泣き声を上げた。
「ああ、もう。」リョウはギターを避けると面倒臭そうにミリアの口を手で塞いだ。「何だよ、お前生理か?……あ、ヤベ。」
ミリアは更に泣き喚いた。
ミリアは翌週の日曜日、雑誌とは違う仕事で撮影場所に赴くことになっていた。とあるティーン向けのアパレル広告の撮影で、時間もすぐに終わるということからリョウを説き伏せて得た仕事だった。「ミリアさん、これ。今日の交通費です。」そう現場のアシスタントからミリアは茶封筒を手渡された。訝りながら中身を見た。千二百円。
「うわあ!」ミリアは叫んだ。
若い女性アシスタントはぎくりとしてミリアを見た。
「あの、お給料は、別に、ちゃんとお振り込みされますからね。」
ミリアは千円札と小銭を掲げ、再び「わあい。」と喜んだ。雑誌の仕事では交通費も全て振り込みになっている。だからその日に必要な交通費はリョウから貰っていたので、これが初めて得たミリアの現金収入だった。
ミリアは他のモデルたちが社長に食事に連れて行ってもらうというのを断り、仕事が終わるなり即座に街へと飛び出した。真っ先に向かったのは以前、リョウと行ったことのある楽器屋である。
駅前に聳え立つビルの一角にある楽器屋で、ミリアはJakson USAのギターを見た。黒、赤、シルバー、いずれも輝きながら鋭利に尖っている。
「弾いてみますか?」そう愛想のよい壮年の店員に声を掛けられ、ミリアは笑顔で肯く。アンプに繋いでもらい、ミリアはVを股に挟むと早速大好きな『BLOOD STAIN CHILD』のリフを刻み始めた。店員の顔がみるみる強張る。
「ず、随分、長いことギター弾かれてるんですか? 凄い。凄すぎる。」一通り弾き終えると店員は、拍手をしながらそう言った。
ミリアは肯く。「これ、何円?」
「12万4200円です。」
ミリアの顔が強張る。財布にあるのは、千円と少しである。
「お客様の凄いプレイを聴かせて頂きましたので、端数を切ってサービス致します。」
ミリアは意気消沈しながら、立ち去った。背に店員の「また、弾きにきて下さいね!」の言葉を受け、何度か肯きながら去った。
次いでミリアが向かったのは、駅ビルに入っているメンズアパレルショップである。幾つものライダースジャケットが掛けてあるのが気に入り、ミリアは迷う間も無く店に入った。どれもこれも、程よい革の匂いを漂わせており、上質そうな輝きがある。
「プレゼントですか?」若い店員がライダースジャケットを眺めるミリアの隣にやってくる。
ミリアは肯く。
「お召しになられる方のサイズは、お分かりになりますか?」
ミリアは暫く黙すると、「185センチなの。」
店員は「体型は……やせ形ですか? 肉付きの良い方ですか?」と問うた。
ミリアは周囲をあれこれ見回しながら、ちょうど試着室に入ろうとしている若い男を指さした。「あれぐらい。」
「わかりました。やや痩せ型、という感じでしょうかね。」
ミリアは肯くと、店員はあれこれレザージャケットを検分し始めた。やがて一枚を選んで差し出す。「こちらは、先月雑誌にも掲載されておりまして、大変人気が高いものとなっています。襟がややアシンメトリーになっている点が非常にファッショナブルです。サイズも残りはこちらのみになっており、再入荷は未定でございます。」
「何円?」ミリアが尋ねると、
「11万8500円です。」店員は笑顔で答えた。「ただいまポイントサービス中でして、10倍キャンペーンをさせて頂いております。」
ミリアは再び肩をがっくりと落とすと、既に日暮れとなった街を歩いた。ミリアの影は夕焼けに引き伸ばされ、心許無く見える。
駅に向かう途中、路上に何台ものバイクが並んだ店があった。ミリアはふと脚を止めて、一番奥に展示してある、黒く美しい輝きを放つドラッグスター400の値札を見た。79万円。目頭が熱くなる。
――1200円では、ダメなのだ。
ミリアは無力感に苛まれ、次第に視界が滲んで来るのを感じた。夕焼けがやけに眩しい。駅の改札まで行き、ここを通ったらリョウから今朝方貰った交通費が0となるか、茶封筒の中身が0になることに思い当たる。ミリアは身を翻すと、駅の階段を下り、線路わきの道を歩き出した。顔を上げぬまま、ミリアは老女のように歩いた。知らぬ男が声を掛けてくる。「どこ行くの?」
どこだっていい。ミリアは無視してひたすら歩いた。どこまでもどこまでも、歩いた。次第に視界が暗くなる。影ももう、無い。ミリアは電車やらバスやらの通り過ぎる音を何度も聞き、そのたびに泣きたくなった。
早く帰らないとリョウは心配するだろう。怒らせたいなんて思ったことは一度とてないのに、何かと不用意に怒らせてしまう。
ミリアはリョウの眉間に寄った皺や、歪んだ唇を思い描き、鼻を鳴らした。テストをまじめに受けていなかった時だって、髪を染めた時だって、リョウをがっかりさせようだとか、怒らせようだとか思ったわけでは、無論ない。だのに、いつも自分の行動はリョウに負の感情を抱かせてしまうのだ。
ミリアはふと立ち止まり、自分の脇を轟音挙げて通り過ぎる電車を羨望の眼差しで見上げた。ここから乗ったら、幾らになるだろう。千二百円は幾らになってしまうだろう。一円だって、減らしたく、ない。
でもそれにはあまりにも、もう、疲れ切っていた。ミリアはしゃがみ込んだ。脚が痛くて仕方がなかった。見たら終わりだと思うからあえて見ないが、踵の靴擦れが猛烈な痛みをもたらしている。それからなんだか腹筋までも痛い。もう、限界だった。ミリアはでも千二百円を千円だとか、八百円にはしたくなかった。
ミリアは厳しい眼差しで再び立ち上がり、次の電柱まで、次の信号まで、と何とか自分を叱咤して歩き続けた。踵は痛い。血が出ているに相違ない。お腹が鳴る。月は丸い。リョウは今頃どうしているだろう。さぞかし心配しているだろう。ミリアが何をしているのか、色々と考えを巡らせているだろう。ミリアの目からは涙が伝い始めた。
すると見慣れた風景が戻って来る。しかしそこで生じた感情は安堵ではなかった。
もう、家に着いてしまうーー。それは焦燥感だった。しかしそれを覚えた瞬間、ミリアの眼には駅前にある北欧雑貨の店がぱっと飛び込んできた。昔、リョウにクラブで使うエプロンを買ってもらった店だ。リョウが好きなメロディックデスメタルの聖地で、リョウが大好きなフィンランドの雑貨がたくさん置いてある店だ。
ミリアはふらふらと呼び寄せられるようにして、店に入った。
閉店間際の時間帯のせいか、人気はなかった。
「いらっしゃいませ。」と、若い女性の店員が親しげに声を掛けてくる。
「あの。」ミリアは草臥れていた。もう、予算を考えて品物を探せるだけの、エネルギーは無かった。
「千二百円なの。」おもむろにキティちゃんの財布の中身を見せる。
「リョウに……お兄ちゃんに、何か欲しいの。」
店員はああ、と笑顔で肯き、「あの、赤い髪の大きなお兄さんですね。」と言った。ミリアははっとなって店員を見据えた。「知ってるの?」
「だって、以前お嬢ちゃんが随分小さかった時、エプロンを買って下さったでしょう? その時にお誕生日だと聞いて、バラのボールペンをお渡ししたの、私です。それからも度々来てくれていますよね。いつだったか、お兄様おひとりでいらっしゃって天蓋付きベッドを買われた時も、私が担当致しました。」と言って、店員は凛々しくも唇を引き結び、周囲をあれこれ見遣る。「これ、これなんか、いかがでしょう。」
店員はたくさんの種類が並んだキーホルダーのコーナーを提示した。
「全部フィンランド製で手づくりなんですよ。日本では珍しい動物デザインばかりです。そうですね……。」
鏡のようなシルバーフレームで象られたキーホルダーをミリアは、目を細めて眺める。
「あのお兄様でしたら、コウモリとか、いかがですか? 水牛もかっこいいですね。ハリネズミは可愛らしすぎるかな?」
ミリアはうんと肯き、コウモリ型のキーホルダーを手に取った。キラキラと輝くシルバー素材で、1480円とある。
ミリアは思わず手を引っ込めた。
「大丈夫です。」店員は力強く微笑む。「こちらは20%オフの商品になりますので、1184円です。」
「本当?」泣き声でミリアは言った。
「ええ。」店員は優しく微笑む。
「本当に?」ミリアは店員に縋った。
「そうしましたら、包装紙にお包みして、リボンも付けましょう。男のひとだから、この、ブラウンの包み紙はいかがですか? お洒落ですよ。」
ミリアは赤い目で頷く。「お誕生日なの。」
「まあ、おめでとうございます。」
「なのに、お給料くれないの。だから、歩いて来たの。ギターも、ジャンパも、バイクも、何も買えなくって。」ミリアは再び涙を溢し始める。
「大丈夫です。」店員はミリアの手を握り締める。「北欧雑貨のお好きなお兄様だったらこのキーホルダー、絶対気に入って下さるはずですから。」
家のドアを開けるや否や、玄関で仁王の如く待ち伏せていたリョウが眉間にどうしようもない怒りを滲ませながら、「何時だと思ってんだあ! あと一秒遅かったら警察に言いに行くところだったんだからなあ!」と凄んだ。
ミリアは一瞬怯んだが、うう、と呻いてリョウに抱き付いた。
リョウは一瞬驚いた顔を浮かべ、「何があったんだよ、どうしたんだよ。」と慌てて声色を変えて呟く。
「だって、だって!」
ミリアは今度は拳をリョウの胸に叩き付ける。
「今日、リョウの誕生日じゃない!」
リョウは目を見開く。
ミリアはその忘れていたとばかりの態度に腹立たしくなり、もう、と鞄からプレゼントの包みを出すとそれで再びリョウの胸をぶった。
「リョウが、リョウが」言葉を必死に探す。「お給料くれないから、何も買えない!」
リョウはぽかんと口を開ける。
「ギターも、ジャンパも、バイクも、何にも買えなかった!」
ミリアはわあ、と天を仰ぎ、大粒の涙を零す。
リョウは今度はおろおろとミリアの肩に手を置き、リビングまで連行する。
「お前、俺の誕生日プレゼント買おうと思って、給料給料言ってたの?」
ミリアは肯いているのだか喚いているのだか、とかく頭を上下に振った。
「だって! お小遣いじゃダメなの! それは、もともとリョウのだから! そしたら、交通費しかない!」
リョウは目を泣き腫らしたミリアを抱きしめる。その時、両の踵に真っ赤な靴擦れができているのが目に入った。
「お前、交通費浮かせようとして、歩いて帰って来たの?」ミリアは答えない。ただ、喚いた。
ふう、と溜息を吐きリョウは、ミリアの掌の中でぐしゃぐしゃに握り締められた包みを奪い取ると、「開けていい?」と聞いた。
ミリアはいいのだかダメなのだか、とかくわあわあ喚く。リョウはミリアを抱きしめたまま、その背中で包みを開けた。
「おい、何だこれ、凄ぇ綺麗だな! ピッカピカじゃねえか! 焼きそば食った後、青のり付いてねえかチェックもできるな!」
ミリアは少し、声をやわらげた。
「しかもこりゃ、コウモリか、クールだな。オジー・オズボーンが食い千切ったやつだぜ。バイクの鍵に付けようかな。」
ミリアの泣き声が収まる。
「ミリア。」リョウは再びミリアを抱きしめた。「ありがとうな。大事にするから。」
ミリアはリョウを睨み上げ、それからまた涙を溢し、それから力無く微笑んでそっとリョウの背に手を回した。




