二十八章
ライブは今年いっぱいまでは毎月複数回以上入っていた。それ以降はミリアに受験に専念させ、作曲に取り組むのだとリョウは公言していた。
ミリアはカレンダーに記されたライブの文字を見ながら、確実に来るであろうあの女のことを想起して、嫉妬に胸を焦がし落ち着かない日々を過ごした。早く来年が来ればいい。来年が来て、ライブが休みになればいい。かつて考えたことのない思考にミリアは我ながら苛立った。
しかしリョウは全くそんなことには気づかず、日々作曲をしたりギターを弾いたりレッスンに行ったり、いつもと何ら変わることなく過ごしている。ミリアは突然何の意味も無く(というようにリョウには取られた)、リョウに抱き付いたり好きだと言ってみたり、とかくあの女が現れるようになってからというものの、始終落ち着かない。勉強をすればリョウが喜ぶので、わざとリョウの前で問題集を開いてみたりも、する。また、かの女に負けたくない一心で、「大学に行く。」と宣言したこともあった(そしてリョウはミリアを抱き上げ褒め称えた)。しかしだからと言って、それ以上の意味を解することなく、リョウは作曲に専念していた。
「リョウさん。」
ミリアの変化にいち早く気づいたのは、よって他ならぬ、黒崎家に日参していたユウヤであった。ユウヤと共に今日の分の勉強をし終えたミリアはベッドに入る。
それに伴って男たちは例に倣って隣の寝室へとしずしずと移動する。しかし酒はリョウの厳命によって完全に排除されているため、ユウヤはリョウの寝室の地べたにポテトチップスとかっぱえびせんの袋をそれぞれ開け、コーラを呷った。
リョウはキラーチューンができたと、ほくほくしながら先程からギターを弾いている。
「我ながら今回のは、凄ぇな。俺は生涯これを超えられる気がしねえ。」既に何度か聞いたことのあるセリフを復唱する。
「それは、よかったっすね……。」内心あんたの生涯は何度あるんだ、と思いつつもユウヤはそう呟く。「で、リョウさん。」
「神が降りて来る瞬間ってえのは、びりびりくるよなあ。びりびり。お前も、作曲してると、わかるだろ? 延々唸って作ったようなのは、俺の場合、ダメだな。凄ぇのは、天啓みてえにザザーっとくる。ザザーっと。思えば『BLOOD STAIN CHILD』もな……、」
「わかりました。で、リョウさん。」
「何だよ。」話を妨げられて、リョウは不機嫌そうに鼻梁に皴を寄せる。
「ミリアちゃんのことなんすけど。」
「ああ、ミリアね。お前には感謝してるよ! 本当、感謝してる。お前、この前、ミリアが担任に何て言われたと思う? 駅前にあんだろ、S高校。あそこの合格圏に入って来たって言われたんだとよ! 近ぇし、何でもライブやってもモデルやっても文句言わねえとこらしいんだ。マジでお前のお蔭だよ。本当、感謝してっから。」饒舌に語る。
「それはよかったっす。でも、あの、そうじゃなくって、最近ミリアちゃん、おかしくないすか?」ようやく言い切れて、ほっとする。
リョウは「は?」と顔を顰めた。「……別に。風邪一つ引かねえし、すこぶる元気だぞ。ってことは、まだバカなのか? 風邪引かねえのはバカだっつう話だからな。」また妙な方向に話題が転換しそうなのを、「否、そうじゃなくって。」と慌てて止める。「何か、気付きません?」
「そりゃあ、お前、テストのたんびに0点取って、猫のお絵かきしてた頃と比べりゃあ、激変、確変、豹変したっつうレベルだろ。でも、そりゃあ別にいいことなんだから、いいじゃねえか。」不満そうにリョウは大きなポテトチップスを口に突っ込む。そして、「やっぱ俺は塩とかコンソメとか、スタンダードな味が好きだな。」と付け加える。
「そうじゃないっすよ。」ユウヤはイラつきながら言う。「最近、ミリアちゃん落ち着きないんすよ。リョウさんのことばっか、気にしてて。」
「……そうか?」リョウは大した問題でもないとでもいうように、今度はえびせんを口の中に放り込む。
「あのねえ、『そうか?』じゃねえっすよ。まかり間違ってもミリアちゃんの受験までは、彼女、作っちゃダメですからね。」
リョウがぎょっとして「よりによって俺に向かって、なんつう忠告だよ。」と言った。「……職質警官しか寄ってきてねえよ。」
「そりゃあよかった。」ユウヤはそう言って深々と肯く。「でもねえ、もしそんなことしやがったら、即座にミリアちゃんは不合格確定、今まで培ってきた勉強なんざ、間違いなく、一気に吹き飛びますからね。そこは、重々承知しておいてくれえねと。」ユウヤは睨み上げるようにして言った。
「んな訳ねえだろ。」ふっと、鼻で笑った傍から、「バカめ!」ユウヤは厳しく言い放つ。「もう、あんたは何もわかっちゃいねえ。」ユウヤはそう言って鼻を鳴らすと、「もっとミリアちゃんを褒めて、優しくして、ちやほやして、可愛がってやんねえと、ダメっすよ。特に今、超絶大事な時期なんだから。」と厳しい顔つきで言った。
「おい、そりゃお前に言われるまでもなく、既にめっちゃくちゃ、やってっからな!」思わずリョウは頓狂な声を上げる。「俺はなあ、あいつが何の脈絡もなく抱き付いてきても邪険にしたこと一つねえし、所詮ガキの頃親の愛情を得られなかったのを根に持ってるんだと思って、色々変でも変だとは言ったためしもねえし。俺は、家では、優しい主義だ。」へん、と顎を上げる。
「ああ、それが間違いなんだ。」ユウヤはケッと奇妙な声を鳴らす。「あのなあ、いつまでもそんな保護者ヅラしてっから、ミリアちゃんは勉強しててもそわそわ、そわそわ、ギター弾いててもそわそわ、そわそわ、してんじゃねえか。もう一回聞くが、マジで最近、女いねえな?」
「クソが。古今東西いるわきゃねえ。」リョウが不機嫌そうに言う。
「懐いてるメスの犬とか猫も、いねえな?」
リョウは思わずユウヤの両肩を持ち、ぐいぐいと揺らす。「何でメス犬まで避けて歩かなきゃあいけねえんだよ! いちいち金玉確認しろっつうのか? バカかおめえは!」
「ち、違う違う。」慌ててユウヤはリョウの腕をもぎ離す。「そんくれえ、気遣って欲しいっつう話ですよ。だってねえ、」ユウヤは呼吸を正す。「ミリアちゃん、凄ぇ不安定なんですもん。」
「生理なんじゃねえの。」
うっかり言ってユウヤに肩をど突かれる。
「もう、何かっつうと生理のせいにすんだからよお、マジで女の敵だな。……俺が言いたいのは、そういうことじゃなくって……、」一呼吸置くと、「せっかくここまで成績上げたのにさあ、ダメんなったら兄貴だって、辛いだろ?」
「そりゃそうだ。」リョウは眉間に皴を寄せながら頷く。
「だから、今はミリアちゃんのことをバリバリ構ってやってくれよ。俺が勉強はサポートする。兄貴はメンタルをサポートすんだよ。二人で協力体制を築いていかねえと、高校受験は、ダメだ。」
「わかったよ。」リョウはそう言うと、再びポテトチップスを口に入れた。
「約束、だからな?」ユウヤは睥睨して言った。
しかしリョウがミリアのメンタルでのサポートなんぞ、具体的な実践内容として解しているわけもない。よって相変わらずリョウは来年中に必ずやファンを瞠目させるアルバムを出すのだと一人意気込み、ギターを弾き、曲を創ることこそを最優先事項として過ごした。いつもの如く飯を作り、ミリアに食べさせ、そしてミリアはこれ見よがしにテーブルに問題集を広げ始める。更にどこで手に入れたのやら、必勝と書いてある白の鉢巻をぐっと締め、背中を曲げて何やらあれこれ計算式なんぞを書き出した。
――「構ってやってくれよ。」ユウヤの言葉が蘇る。
リョウはごくりを生唾を呑み込み、どうしたものかと暫く逡巡する。そして、「そういやさ。」と言葉を紡いだ。
しかしミリアの手は止まらない。
「お前、この間大学行きてえって言ってたじゃん。」
ミリアはうん、と言ってようやく顔を上げる。
「俺は大学なんざ行ってねえから、わかんねえけどさあ。ほら、最近よくライブ来る女の客いるじゃん? あの人に大学の話、聞いてみたらいいんじゃね? 大学ん中案内とかしてもらったらさあ、もっともっとやる気になって、お前、更に成績上がるかもしれねえじゃん。」
我ながら素晴らしいアイディアだったのに、ミリアは眉間に皺をよせ唇を引き結んでいる。あれ、とリョウは訝った。
ミリアは遂に耐えられず、がば、とテーブルにうつ伏せる。悲しみと、絶望と、自分への憐憫と、全てが津波のように押し寄せる。しかしリョウはミリアの気持ちなんぞには一向、気付かない。
「確かさあ、渋谷の何とか大学っつってたぞ。ミリアもそういう所行きゃあ、華やかな生活が待ってるぞ。モデルやりながら、そんな所通ったら、何か凄ぇじゃん。芸能人みてえじゃん。」リョウは微笑む。ミリアの勉強への意欲の向上を促したと断固信じているのである。内心、ユウヤに「してやったぞ」とばかりのガッツポーズをしているのである。
ミリアはうつ伏せながらごつごつと喉の奥が痛くなるのを、必死に堪えた。しかしその根源的な悲しみは、ミリアの思考をやがて、ふっつりと、停止させた。




