シャキシャキ
『おい、さっさと起きろ』
『……ん、もう、朝か』
『馬鹿言ってんじゃねえ働くぞ』
目が覚めると目の前に蟻が這いつくばっていた。口の周りから生えた二本の顎を鳴らしている。シャキシャキ。
『とっとと行くぞ。俺たちは働き蟻だ』
『……蟻?』
『女王様に食料を献上するのだ』
理由はわからないが、どうやら女王様のために働く運命にあるようだ。口の周りに生えていた二本の顎を鳴らしてみる。シャキシャキ。
『やる気あるじゃねえか』
この動作は好感をもたれるようだ。シャキシャキ。応じるように這いつくばっている蟻も答えた。シャキシャキ。頭に生えた触角を動かし、余分に腹から生えている二本の足を絡ませないようにして巣穴から抜け出した。
『飯はどこだ~飯はどこだ~』
巣穴を出ると先ほどの蟻はとっとと行ってしまった。自分も違う方向へと歩き出すことにする。ジャングルに迷い込んだような気分だが、ここは民家の庭のようだ。はるか遠くに巨大な倉庫、背後にはそれを遥かに凌ぐ住居がある。我が巣穴は縁の下に作られていた。
さて、それはさておき飯だ。蟻なら蟻らしくせっせと働くべきである。蟻の食事となるとあまり心躍るものではないが、女王様のためにも頑張らねば。蟻の世界ではあるが立派な成果を上げてみせよう。シャキシャキ。
えっちらおっちら歩いていると、空ではトンボが旋回し、時折バッタが飛び跳ねる。ためしにやつらに喰らいついてみようと襲ってみたが、バッタには土をかけられトンボには届きもしない。蟻の世界で一攫千金は難しいようだ。シャキシャキ。
いくら探しても飯にありつけない。肉体的に疲労感は感じないが徒労感だけは溜まっていく。たまにすれ違う蟻と情報を交換してみたが芳しくないようだ。蟻にとっては広いジャングルでも、人の身では小さき庭にすぎない。ならば危険を伴うが民家に侵入を試みてみよう。疲労感を感じない今の身であればどれだけ大きな家を歩いても無事に過ごせるであろう。シャキシャキ。
柱をよじ登り、網戸の割れ目から侵入した。そこは居間であり運良く食事の最中である。さらに運良く正面の幼女が小さな食器からコーンを口に運んでいるではないか。慣れないスプーンさばきにコーンがこぼれんばかりだ。慎重に近づきながらおこぼれを待っているとすぐに落ちてきた。自分の体と同程度の大きさではあるが今の身であれば易々と運び出すことが可能だ。顎でがっしりつかむと芳醇な香りが全身を震わす。シャキシャキシャキシャキ。
さて帰ろうかと思っていると、件の幼女がこちらを見ている。いかんと思った時には幼女が手を振り上げた。
幼女とはいえその破壊力は巨岩をぶつけられるが如く。うまく躱せても地面への衝撃で態勢が崩れてしまう。そこへ間髪入れず追撃されてはたまったものではない。されど手に入れたコーンを放すつもりなど毛頭ない。右に左に躱してどうにか隙間に飛び込んだ。さしもの幼女といえど網戸を越えることはできず、口元から大粒の涎をたらして見つめるのみ。その姿を見て戦で勝利した戦士のように巣穴へとコーンを持ち帰った。
『すごいじゃないか。ご馳走だ』
『民家に侵入したのか。よく無事だったな』
『幼女に襲われはしたが運が良かった』
シャキシャキ、シャキシャキ、シャキシャキ。
みな歓喜と尊敬をこめて顎を鳴らした。
シャキシャキ、シャキシャキ、シャキシャキ。
『では女王様に献上しよう』
シャキシャキシャキシャキシャキシャキシャキシャキシャキシャキシャキシャキ。
「こら、ばっちいでしょ」
胸の上に重みを感じて目が覚めた。娘が私の顎を撫でていた。
「そんなことしない。あなたもそろそろ起きないと駄目よ」
「もうそんな時間か」
どうやらこちらの世でも働かなくてはならないようだ。顎の無精ひげが少しばかり熱い。娘を抱き上げた妻は私を見てため息を吐いた。
「寝ぼけてないで、少しはやる気だしてよね」
「やる気か」
シャキシャキ。
「……何しているの」
「やる気を表現してみたのだが」
妻の視線が冷たい。我が女王は蟻よりも手厳しい。