一週間前
一週間前…
「あれ、起きてたの? もう二時を回っているのに。眠くない? 大丈夫?」
「平気よ。しっかりと目は覚めているから」
普段なら水玉のパジャマを着てシャワーを浴び終えてスッピンでいるはずの彼女が、茶色の綿のパンツを穿いて柄物の七分のTシャツを併せて、髪も整え化粧もしている。返事の仕方も睡魔による弛みがない。明らかに普段と様子が違う。村田が革のショルダーバッグを床に寝かせ、部屋着に着替えに彼女の前を横切って隣の畳の部屋に入る。彼女はずっとその背中を目で追いかけてくる。瞳が横に傾くと睨んで見える。村田は着替えている最中も、その何事か語る視線の鋭さに気付きながら敢えて問いも咎めもしない。着替え終えて彼女のもとに戻って、いまだ目を逸らさないのを見てようやく、
「どうしたの? もしかして、そっちもいま帰ってきたところ?」
と聞く。様子がおかしいことを覚りながら、努めて常時の会話を試みるが、彼女の口は何も発しない。首だけ横に振る。何かを訴えたいのはわかる。それが何なのか見当もつかない。彼女を怒らせるような真似をした覚えもない。不安にさせる疾しい真似をした覚えもない。
「ほんと、どうしたの?」
再びこう優しく問う。普段より彼女に怒ることをしない村田のフェミニストはこの場においても覆されないようだ。
「前にも聞いたことあると思うけど、マーケティングの仕事をしているのよね? いつも私服で出かけるけど、スーツとかは着なくていいの?」
「いや、前にも言ったと思うけど、スーツはいつも会社に置いてあるんだ。普段、調べものばかりしていて使わないから、外に出るときにだけ、着ているんだ」
「最近、仕事が遅いよね。本当に仕事で遅いの?」
話の方向が急に変わると、疚しいことはなくとも村田はドキドキとしてしまう。
「仕事、だよ。最近忙しいから。もしかして、何か疑ってる? 本当は外で遊んでいるとか、別の女のところに行っているとか?」
村田は訊ねながら、笑うことも怒ることもできずにいる。強いて言えば情けない表情をしている。
「ごめん、いまの質問は忘れて。ちょっと聞いてみただけだから」
空気が拙いと感じるのは彼女も同じのようだ。
「うん… でも、どうしたの? 格好も、様子も…」
彼女を見ると噛み締めた唇を小さく震わせている。何かを言おうとするが喉まで出かかったそれを上手く吐きだせずにいる。何物かに追い込まれていると彼女の不安を察すると、その何物かが自分の何か落ち度に起因すると考えて、村田は自分の態度を振り返る。そして、やはりわからない。
「ねえ、本当はどんな仕事をしているの? こんなに遅くまで働かされる仕事って、どんな仕事なの?」
「え? え? どうしたの、急に…」
唯一、彼女について許される嘘だと思っていたUWの仕事。ついにそれを勘づかれたのかもしれないと村田は思う。
「私も、アルバイトで夜遅いけど、だから、こうやってお互い仕事を終えて二人一緒の時間を過ごしやすかったけど、でも勝は、明日も朝早いじゃない。寝る時間も削って、そこまで体を酷使して働かなくちゃいけない仕事って、何?」
「いや、それは…」
村田は迷う。この業界では結婚しても自分の身分を伴侶に隠す人も多い。結婚を考えて付き合っているつもりだが、所詮はまだ交際の段。易々と真実は言えない。無論、自分一人の保身が為でもない。言って彼女が害を被ることもある。知らぬが幸せということもある。迷いに迷って、村田は長く黙る。それでは余計に怪しまれるとわかっていても黙ってしまう。不覚にも溜息を一つ漏らす。それはこの場においてもっとも不適切な態度である。すぐに悔やみ、瞳孔が開いてしまうと、彼女を真っ直ぐ見つめて逸らせなくなる。
「ごめん、今のも、聞き流して…」
「いや、いいんだけど…」
「わたし、この部屋、出るね」
彼女は唐突に言う。やはり何が何だかわからない。村田は呆然として、やや遅れて、
「え?」
彼女は同じことを二度も口にする気はない。口を噤んで俯いてしまう。彼女の視線に倣って足元を見ると、傍に大きなバッグが置かれている。彼女はそれにそっと手を伸ばして静かに持ち上げた。
「そういうことだから」
「どうして?」
「理由は、まだはっきりとは言えないけど… でも、距離を置きたいの」
「俺のことに飽きたとか? ほかに好きな男ができたとか?」
この期に及んでも村田の声は冷静である。ただ、重い。彼女の瞳が潤む。俯いて彼女は、首を横に振る。
「そういうのじゃ、ないから…」
「じゃあ、どういうの?」
聞きながら村田は、いまの自分では彼女が出ていくことを止められないと悟る。
「いまはまだ、説明できない…」
もしかしたら、彼女自身にも何に突き動かされ、何にいま心を支配されているのかわかっていないのかもしれない。自身を慰める意味でも村田はそう考えた。
「そっか… わかったよ」
己でも驚くほど、村田はあっさりと受け入れる。悲哀が彼の心を緩ませ、笑みまで溢す。彼女も村田のその反応に戸惑う。すぐに顔を上げると、
「さよなら」
自分で言って、ハッと驚いて、唇を噛み締めると、村田の脇を抜けて逃げるように部屋を出ていった。
村田は、いつまでこの笑みを続けていればいいのか、悩んだ。
続きます