もし本当に過去に戻れたら
その日の昼、午前の仕事も片づけて昼食でもとろうと村田は調査課を出、休憩室に向った。そこに桐生誠司と佐久間滋、そして昨日に引き続き三角巾を頭に巻いた平塚弥生の姿があった。テーブルを囲んで話し合い、村田が現れても誰も気付かない。集中する彼らを邪魔せずに部屋の隅の自動販売機の前まで静かに歩いて、缶ジュースを購入する。受け口から取り出そうとした際に、彼らの会話の内容が耳に届く。それが前日同様、「過去に戻れるか、戻れないか」との話であったので、またかと苦笑いをする。平塚弥生が持ち込んだ話題であるに違いない。恋人のことを思い出しても敵わないと、彼らに気付かれる前に早々にこの場から立ち去ろうとしたその時である。
「いや、ヴァイスが言うには、時空を操る能力者っていうのは実在するらしい」
こう聞こえて、心を掴まれる。ジュースの缶も手より滑り落としてしまって、ようやく桐生たちにも気付かれる。
「あれ、村田さん?」
本当に今気付いたとばかりの反応である。
「いるなら声をかけてくれればいいのに」
「いや、君らがあまりに真剣に話しているから、会議かと思ってね。邪魔しちゃいけないかなって」
「邪魔なことはないですよ。そうだ、村田さんに聞いてみてはどう? 村田さんならこの業界のこと、何でも知っていそうだから」
「うん、ごめん、滋君。昨日、もう聞いた。村田さんでも知らないことだった」
昨日まともに相手にされなかったせいか、弥生の口振りには少し棘がある。
「昨日の、『過去に戻れる』とか何とかの話だね?」
「うん、そう」
「だからヴァイスの話だと、それも不可能な話じゃないってことらしいぜ。どういう原理で、といった難しい話は詳しく憶えていないけど、噂じゃタイムスリップをする能力者がいるらしいんだ」と桐生は言う。
「それってズバリ、ビンゴじゃない。それでそれで、その能力者っていうのはどこにいるのよ?」
弥生は声を弾ませ一人浮かれるが、
「いや、知らない」
「何よ、それ」
「だから、俺の話じゃないって、ヴァイスが言っていた話だって言ったろ。しかも、噂レベルの話だぜ。本当にできるとも限らないんだ」
「がっかり。期待させるだけ期待させておいて…」
「何だよ。嫌な感じだな」
「でも、それって裏を返すと、あのヴァイスさんに聞いてみれば、もしかしたら過去に戻れるっていう能力者の居所を知っているかもしれないってことだよね」
滋の理解力を桐生は褒める。弥生には皮肉を込めた一瞥をくれてやる。これを腹立たしく思わない弥生でもない。こちらは怒りを噛み締めた不気味な笑みを作って睨むので、いまにも不毛な口論が勃発すると周りに予感させる。面倒な二人である。滋などは、それこそ時間を戻せるなら、弥生が期待外れて不機嫌を開始する一歩手前に戻って、見事適当な誘導をもってヴァイスに訊ねに行く案をまとめてやりたい。そして、なるほど確かに過去に戻れるという能力は魅力的だと今更のように思う。
そのような能力が実在し、自分のために使えるなら、自分ならば何時に戻って、何をしようか。滋が俄かに始めたこの妄想は、しかし意外に難しい。やりたいことや戻りたい時間などは、あるようでない。細かいことを言えばあり過ぎて選び切れず、人生一番の後悔といった節目となると思い出せない。彼は案外のほほんと毎日を暮らしているのかもしれない。それはある意味、幸せである。裏を返せば、過去に戻りたいと願うのは、幸薄い人生を歩んでいるからとも取れる。
「お前。友だちの話、友だちの話って言うけど、実際、戻ってみたいと思っているのはお前自身なんじゃないの? ほらほら、白状してみなよ。うん?」
桐生は唐突に、それも嫌味っぽく弥生に訊ねる。前日同様に彼女は慌てふためいて、
「馬鹿言うんじゃないわよ! どうして私なのよ! 友だちの話だって言っているでしょ! ちゃんと聞いてなさいよ! 耳、腐ってんじゃないの?」
こう怒鳴り出す。
「ほう、その取り乱し方が実に怪しいものなんだけどね。それじゃ試しに聞くけど、もし本当に過去に戻れるとしたら、お前ならいつに戻って何をやり直したいって思うんだよ?」
「何よ、藪から棒に…」
「別に。ちゃんと話の流れに沿っていると思うぜ」
根が素直な上に負けず嫌いの弥生は真剣に考える。
「あるようで、ないような、細かいことを挙げるとキリがないわね…」
これは滋と同じである。ただ、それがどうも歯切れが悪い。何かを隠すために無難な返事を徒にしているだけのようにも見える。
「そんなものよ、そんなもの」と〆ているが、
「なんだい、じっくり考えておいてほとんどないに等しい返答だな。お前の人生、メリハリがないというか、つまらなそうだな」
と桐生はバッサリ切り捨てる。
「それじゃ、そういうあんたはどうなのよ。あんたには戻りたい過去っていうものがちゃんとあるんでしょうね? 人の人生をボロのチョンに言ってくれて、たいそう深くて濃いエピソードもつけてそれを聞かせてもらおうじゃないの」
「俺か? そんなもの、戦国時代にタイムスリップに決まっているだろう」
歴史探訪の話とはまたズルい。
「野蛮だわ! どうせ戦場に出て合法的に人を斬りたいとか、そんな理由でしょ!」
「違うよ、戦国武将に会って、直接、生で話を聞きたいってだけだよ。人を快楽殺人者みたいに言うなよ。できればサインだな。戦国武将のサインを収集。最高の御宝だろう。どうだ?」
「威張るんじゃないわよ。結局、あんただってたいして色濃い人生を歩んでいないじゃない。戦国時代? 歴史を遡るっていうことなら、行ってみたい、戻ってみたい、そんな時代、そんな場所なんて、私にだってあんた以上にいくらでもあるわよ」
結局、二人の不毛な言い争いがこの後しばらく続く。特殊な人間であり、特殊な人生を送っているにも拘らず、何だかんだと、この者たちの心は平和である。
続きます