仕事だけで過ぎて行く一日
丑三つ時の深々とした夜の空に抱かれながら、村田は自転車をこいで帰宅する。すれ違うのはどれも自動車ばかり。この夜道を人力で通るものは彼の他にない。ときに風が吹いて体を冷まし、ときに野犬の遠吠えが耳に届いて肝を冷やす。仕事柄、怪物や化け物の類を身近にしても、恐ろしいものは恐ろしい。知りすぎている故に尚恐ろしい。彼は所謂能力者でもなければ身体能力は同年の普通の男と変わりがない。多少の護身術を組織より心得ているものの、習っただけで実戦に乏しい。仲間の桐生誠司や平塚弥生はもとより、あの佐久間滋にも結界を使われれば腕力や武力で勝てることはない。何より戦闘は好みではない。情報収集の仕事一点において基地内で右に出る者はいないので、そちらに自信と責任感を持っている。
丘を随分と登ったところで村田のアパートが見えてくる。毎度その頃には軽く息も上がり、体も熱り、脇の下で汗が蒸れている。冬場は自転車で通うことのできないこの丘の上は中心街からすると辺鄙に見えて、土地の安さから値段のわりに部屋は広い。一人で住むには十分過ぎて、もう一人くらい一緒に住んでも支障はない。
『うん…』
エレベーターを使って四階まで昇り、外廊下を歩いているときも誰一人としてすれ違わない。建物がしんと静まり返って彼の歩く足音だけが響いてしまう。毎晩夜も遅いので、近所の迷惑も心配する。心配しながら、この足音に陶酔することもある。まるで自分一人だけが生きていると。だが、それらも自室の鉄扉を抜け、部屋に入ってしまえば虚無と化す。徒に溜息をついてどうでもよくなる。
一人暮らしのため、帰った部屋の中も当然真っ暗である。それでも一週間前までは灯りがついていた。どれだけ遅く帰宅しようとも「ああ、おかえり」と、出迎えてくれた彼女のことを思い出す。別れたわけではない。それまで続けていた同棲をやめにしただけにすぎない。互いに考えることもあれば一緒になって解決できないときもある。それぞれ一人になって今後の二人のための新しい答えを見つけ出せればそれでよい… そう自分に言い聞かせ、己を慰めている。
『ごめん、いったん、距離を置きたい』
彼女はそういって出ていった。勿論、村田は戸惑った。理由を問うたが、彼を納得させるに十分な返答は得られなかった。村田の頭の中では、彼女が大学を卒業するのを待って、それからすぐにでも彼女と結婚する考えであった。結婚という目標に向け、仕事への熱も一入に、毎日深夜に及ぶ残業にも文句一つ言わず、結婚資金を貯めるためだとこなしてきた。結婚の気持ちを彼女には黙って励んでいたことが、却って仇となったのかも知れないと考えたこともある。結婚の気持ちを覚られて重荷に受け取られたとも考えられる。
こう村田の心理を見ると、己にばかり罪を探し求めて彼女の非を疑うことを避けている。村田が彼女の心中のその底を知りたいと願い、勝手に推測すればすれほど卑下を用いて自らを苦しめてしまうのである。
『馬鹿みたいだ…』
毎夜、そう呟いて眠りにつく。
彼女が出ていってからのこの一週間、快眠は一日とて得られていない。寝起きはいつも悪い。それでも、全ての事象は先の晴れた未来に繋がると信じて、眠い体に鞭打って時間通りに仕事に出掛ける。こう未来を良い方へと考えられるようになったのも、偏に彼女が為である。どれほど彼女が自分にとり、大きな存在であるかを思い出すと、改めて恋しくなる。不覚にも泣きたくなってくる。そして涙を堪えて仕事場に着き、職場の仲間と挨拶を交わし始める頃には、彼女のことも頭の隅に追いやってしまう。仕事を開始すれば、彼女のことも簡単には思い出さない。職務に没頭して、ひたすら手を動かし体を動かし、仕事の為だけに頭を働かせる。ただ、時折仲間から「朝早くから夜遅くまで、本当によく働く」と労いの言葉を頂くと、この時だけは一所懸命に働く我が身を振り返って、併せて彼女のことが気に掛かる。
『あの子はいま何をしているだろうか? 自分はこうも頑張っているが、それが報われることはあるのだろうか?』
一度は弱気になり、そして再び彼の根の強さから、迷いをすぐに打ち払って仕事にのめり込む。もたもたして、また帰りが遅くなってしまうことも彼は嫌う。
この一週間、こんな毎日が繰り返されている。心と体に無理をさせながら精神を成長させていると言えば聞こえも良い。成長と崩壊が常に隣り合わせなら、自分もまたいつか心身ともに壊れるかもしれないとも危ぶみながら、それを自覚できる人間こそはきっと崩壊を免れ、成功を手に入れられるとも信じている。
こう何事においても前向きな思考は、しかし、それは決して後ろを振り返らないという意味でも、その必要がないという訳でもない。振り返りたい、戻りたい、そう思う気持ちはいくらでもある。この手の欲を消滅させることは不可能に近い。要はこれを内包しながら、いかに上手く押さえ込み、別の形に昇華させていくかが成長の肝となる。よって今日も一日、人知れず心の中で一人格闘しながら、それを活力に変える。仕事をするだけの一日となろうとも、そのような一日がつまらないと思うこともしないのである。
さて、今日はそれでも勝手が違ってくる。基地内にて前日の平塚弥生とのやり取りが、本日は桐生誠司、佐久間滋の二人を巻き込んで展開されている。それも「できる」「できない」を推測するものではなく、「できるらしい」という前提の下で話は進んでいる。冷静沈着な村田の心もつい震え出してしまう。
続きます