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日野原絵美です

 やはり一年前…


 村田は図書館の地下の書庫へと向う階段の途中でふと足を止める。彼女のことを勝手に想い、一人浮かれていた最中に恋人と疑わしき男を目撃して失恋の谷底に突き落とされたこの仕打ちは何の罰かと、相当する己の人生の罪を振り返って見当のつかない靄に迷い込む。久しく恋をしてこなかったことが人生の過ちかもしれない、そう無理に定めたりもする。それを罪とすると、次に浮かんだのは、高校生の時分に生涯最初に付き合った同級生の彼女を半月もしないうちに大した理由もなく自分からフッてしまった悔やみである。恋における不遇の数年も、久方ぶりの恋の高揚と即時の失恋も、当時の彼女の恨みが呪いと形を変えて降りかかっているのかもしれない…なんてことも真面目に考えてしまう。


 浮かれていた村田は、図書館の彼女に男がいるとも考えていなかったのかもしれない。男の一人や二人いてもおかしくないと、本来なら判断できて当然である。いや、できなかったのではなく、冷静な分析と推測を頭の片隅に追いやって考えないようにしていただけであろう。


 村田は、今頃一階のどこかであの彼女と先ほどの男が自分の気持ちなど露と知らずにイチャイチャと仲良くやっているに違いないと思い始める。


 諦めよう。


 そう一つ心の中で呟くと、暗く分厚い雲が立ち込めていたその心に光が一筋射してくる。何を持って、何に対して、何こそを諦めようというのか、諦める必要があるのか、ないのか、細かいことは定かにせず、考えもせず、ひとまず心静める祈祷の如きその一言を軸に据えて、ようやく初めて自分の気持ちの整理に取り掛かる。だいぶ冷静さも回復させて、これこそが普段の自分自身だと自己を立て直し、自信も取り戻して顔も晴れやかに、笑みなど一つ作って、負のスパイラルから脱出できたと安堵すれば、卑屈な逃亡の願いも波が引いたようにサァッと消える。時間の無駄な消費ともサヨナラすべく、再び地下へと下りてしまう。


 すると、どういう因果か、背後からあの彼女が早足で寄ってくる。村田は彼女の目を真っ直ぐ見据える。彼女の目は、村田の喜も哀も入り混じる怪奇な心理など知る由もない。その口は柔和に笑っている。比べて村田の顔は強張っている。会釈するわけでもない、言葉もない、彼女からすれば随分と冷めたい態度である。こう見据えられるだけでは彼女にしても不安になる。よくその目尻や口の端を観察すると微かに震えて小さく歪んでいるのを発見する。これにはさすがに村田の心中にも、何か自分がいけないことをしてしまったとの罪意識が広がる。そして激しく彼女のことがいとおしくなる。


「あれ? この間の…」


 どれだけ嫉妬を抱いても、その痒くなる感情に自分自身を情けなく思っても、自分から話しかけるのは男の務めと、薄情な表情もみるみる明るく柔らかく作り変えて、彼女が訳もわからず抱いた不快を少しでも払拭しようと努める。


「こんにちは、下りていくのを見かけたもので…」


「あ、そうですか」


 村田は幾分畏まってそう言う。二人、互いに笑みを作って見つめあうと、そこでまたおかしな間が生じてしまう。


「あの、やっぱり、お仕事で、ですか?」


「はい、そうです。そっちは、やっぱりレポートですか? それとも、デート?」


 村田は努めて気さくに言葉を発する。彼女はなかなか口を開こうとしない。そのうえ真顔になっている。やっと口を開いたと思うと、


「いえいえいえいえ、レポートです、レポートです。一緒にいたさっきの男は同じゼミの人です。共同でレポートを作成しなくちゃいけなくて、それで一緒にここに来ただけです。そんなデートだとか、そういった仲では一切ありません」


 と、滑稽なほど早口で言う。見ようによっては取り乱している。その慌てぶりが、村田の目には可愛く見えた。


「ハハハッ」と声に出して笑ってしまう。


「何か可笑しなこと、ありました?」


 彼女にすれば心外である。そうかといって怒る訳でもない、不安がる訳でもない。胸のつっかえを外されたように晴れた顔をする。その表情がまた彼の目には可愛らしい。


 決して馬鹿にして笑ったのではない。彼女の心理の一片を垣間見て可笑しいのだ。それまで悶々として彼女と面と向おうとせずに、ヤキモチだけは一丁前に焼いて鬱に落ちていた自分こそが馬鹿で、彼女もまた自分と似た気持ちを抱いていたであろうと察すれば、これほど笑えるものはない。


「ごめん、彼氏かと思った。そう思って、ちょっと残念に思ってた」


 彼には珍しく軟派なことを口にする。それでも本音の本音。彼女も少し頬を赤くする。


「またまたまたまた。え~と、お名前はなんて言うんでしたっけ?」


「村田、です」


「村田さんこそ、彼女がいらっしゃるんじゃないんですか?」


 そう聞く一瞬、村田の目には彼女が無理に笑っているように見えた。そして、それも可笑しい。


「いえいえ、いませんよ」


 似せたつもりはないが、何故か彼女と同じように早口で答えた。


「えっと、名前は?」


「私ですか? 私は日野原です。日野原絵美っていいます」



続きます

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