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いわゆる恋、おそらく一目惚れ

 再び、一年前…


 図書館にて彼女を見かけた翌日、一晩たっても頭の半分に彼女の顔と声が残っている。仕事をしながら、ふとしたときに思い出す。書物を高い棚から取ろうとするとき、デスクで本を広げたとき、データを入力しているとき等々。仕事が手につかないほどではない。彼女の顔や仕草や態度を振り返ると、その後にはむしろ活力が湧く。手先が軽やかに動いて仕事も捗っている。頭の中では急に彼女のことを思い出してしまうというのに、仕事に関しては冷静を保って集中力も落ちないのは、脳が仕事の分と彼女ことを考える分とに綺麗に分割されて、互いに干渉を与えないからであろう。こう器用な真似ができるとは彼としても新しい発見であった。その日も図書館に向う用事ができたので昼も過ぎたころで向かう。村田は自分の仕事に関してその時間の使い方の八割以上を自分で決定できる。図書館に行くにしても開いている時間のうちなら何時に行っても構わない。昨日と似たような時間に定め、自転車を漕ぎながらやはり彼女のことを思い出す。確証もないのにまた会えると期待を膨らませている。仕事側の脳が、その浮かれ具合を測ると、そういうことだと納得する。所謂そういうこととは文字にすれば「恋」である。


 駐輪場に着くと昨日と同じ場所に同じように自転車を停めながら、これまた昨日と同じように昨日彼女が停めていた方へと向いて彼女がいないかと見つめる。本日は、誰もいない。当たり前かとすぐに諦め、そして寂しくなる。村田は久しく忘れていた恋の辛さを思い出す。別に付き合っているわけでもない、手を触れ合ったわけでもない、名前すら知らないというのに、昨日初めて会って、少しだけ会話を交わした、その奇跡の如き偶然の繋がりだけでときめくこの感情を、おそらく一目惚れという奴だろうと、彼は分析する。


 館内に入ってしまうと仕事側の脳が前面に出て、前日と同じく古い書物を地下から運んで、昨日と同じ場所に陣取って広げる。しばらくして顔を上げた拍子に昨日と同じ方向にあの彼女の後ろ姿が目に飛び込んでくる。昨日の記憶が自分に幻を見せているとも一瞬思ったが、もちろん違う。夢でもない、見間違いでもない、服装は違うが、一瞬見えた横顔は確かに昨日の彼女のものであった。何をしているのかと仕事も忘れて見つめていると、前日同様にレポートである。話しかけたい気持ちが彼の心に湧いて出る。仕事は一時中断、あれこれと、もっともらしいきっかけ作りを考える。結局、甲斐性なく捻出に届かない。届かないうちに彼女は立ち上がり館内から姿を消してしまう。いくら恋心が働いても、共有できる話題がなければ話かけることも困難である。


 翌日、彼はまた同じ時刻に図書館に足を運んだ。名目は仕事だが、特に急ぎ調べなければならないものもない。この時刻を選んだのも前日と同じく彼女との再会を期待したからである。その思いが天に通じて、その日もやはり同じ場所に彼女の後ろ姿を見つける。前日の情けない自分への反省もあって、本日は小さなきっかけでも話しかけることを胸に誓いながら、仕事をしているふりをし、チラチラと彼女のほうを目にした。すると、そのうちに彼女も振り返る。向こうも村田に気がつくと、いま思い出したように目も口も丸くして、すぐに会釈を一つする。村田も小さくゆっくり頭を下げて応える。能面のようなその顔の冷静さとは裏腹に、胸は高鳴り、口の奥は震えて、頭の中もざわざわとしていた。うまく彼女と挨拶できたことが、とにかく嬉しかったのだ。次には思わずその口元が緩み、笑みがこぼれる。彼女からすればそれが随分と優しい笑みに見えたようで、そちらも同じように笑って、それがまた語らずとも心通じ合ったような錯覚を与え、初めて二人で何かを共有し得た気にさせる。心臓は尚も激しく鼓動する。ここで立ち上がって気さくなことを話し掛けにいければ気持ちの繋がりもさらに深まるものであろう。ところが、村田の足はそれへと向おうとしない。下手な軟派が、いまのこの優しい雰囲気を壊すとも限らないと危ぶむのである。慎重かつ計算高い性格故に、相手の性格がどういう類かわからない以上、深く踏み込めないのだ。二日前にはいきなり話しかけてくるほど積極的だった彼女もまた、次の手が出詰まったように、しばらく動こうともしない。共に見詰め合うだけでは、二人の空気も良いとも悪いともわからない。そのうち彼女のほうがまた小さく会釈してテーブルへと向き直って、レポート作成へと戻っていく。その日はそれから一度も二人の視線が絡み合うことはなかった。一時間も経たないうちに村田のほうが先に帰ることになった。その際に彼女の側を通ることもせず、もちろん遠くから声をかけるでもなく、一瞥だけ彼女の背中に向けて、黙って館を後にしたのであった。


 またさらに翌日、悶々とする気持ちを抑えられなくて、これまた大して用事もないのに図書館へと同じ時刻に向う。調べる必要もないのに、あたかも仕事をしているかのように古い書物を前にしながら、ちらちらと目にするのは先日からずっと彼女が座っていた同じ場所。その日は、運悪く別の人が座っていた。あの彼女も、どうやら本日は来ていないようだった。大学生とはいえ、頻繁にレポートばかりがあるわけでもないので、そう村田の期待通りに同じ時刻、同じ場所で見かけられるものでもない。計算のできる男だから、そうわかっていないわけではなかったが、それでも図書館に足を向かわせてしまうのが恋の魔力というものである。


 別の仕事が溜まっていて、本来自分は暇ではないとふと思い出す。力なく立ち上がって、引っ張り出してきた本を抱えて戻しに行こうとすると、途中、いままさにこの図書館へと入ってくる彼女の姿を目にする。しかもその隣には彼女と同じ年頃の、いかにも今どきの大学生といったストリート系の格好をした、キャップ帽を斜めに被る茶髪の男の姿がある。たちどころに村田の胸がカァッと熱くなった。そして、その男がただの友人とも恋人とも確認する前に、自分の恋心などは手前勝手な独りよがりであったと一人で思い込んで、俄かにそれを諦めた。


 俯いてすれ違ってしまおうとすると、しかしふと顔を上げた瞬間に目が合ってしまう。彼女は村田の姿を目にするなり旧友に久しぶりに会ったような明るさで、にっこりと会釈してくる。村田のほうも、何とか口の端を釣り上げて、やはり小さく頭を下げる。そして棚の角で急に意味もなく曲がって彼女の視界から消えてしまう。遠回りでも、逃げるように地下へと向うのであった。



続きます

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