積雪
東京の街に雪が積もった。
雪かきがまだされていない道を久しぶりに靴箱から出した長靴で一歩一歩踏みしめながら、積雪十センチぐらいだろうか、と考えていた。
私が幼い時は、冬に雪が積もるのは当たり前だった。こんなものでもなかった。腰まで降り積もった雪の中、小学生だった私は無邪気に駆け回ったものだ。そういう時は、決まってかまくらを作った。私は、兄弟の真ん中だった。四人兄弟だから詳しく言うなら真ん中は二人いたわけだが。五つ上の長男が、普段は玄関に置きっぱなしにしている七輪を持ってきて、その上に網を置いて、母親から妹たちがもらってきた餅を焼いた。下の妹たちに「火を使うのは、あぶないの、よ」と言い、私は率先して餅やらみかんやらをトングでひっくり返す役をこの時ばかりは立派にお姉ちゃん気取りでやった。
「よいっ……しょっと」
ビニール袋の持ち手を右手から左手に変える。たいして荷物は重くないのだが、かじかんだ右手に息を吐きかけるためだった。
修ちゃんは、かまくらを知らない。
かまくらの中で兄妹肩を寄せ合うことも知らない。彼は、一人っ子だ。
そして何十年ぶりかに東京で雪が降ったことも知らない。
『プリン』
いつも通り、お盆に乗せた朝食を彼のテリトリーの入口に置くと、彼から反応があった。
『え?』
『プリン、食べたい』
修ちゃんは、意思表示をしない。こうしてほしい、ああしてほしいと言わないのだ。いつも私が遠回りして世話を焼く。それはまるで靴を履こうとする修ちゃんに靴べらをすかさず差し出して、そこまでは、そこまでは普通だろう。
しかし、私の駄目なところは、玄関のドアまで私が開けてしまうことだった。それは、夫にもよく指摘される。時には、「そもそも息子に対して修『ちゃん』と呼ぶこと自体がおかしいんだ。修二をいつまで子供だと思っているんだ、お前は」と、そこまで罵られてしまう。
私は久しぶりにまともな言葉を交わしたことも嬉しかった。なにかしてほしいの今の修ちゃんが私に言ってくれるなら多少いきすぎたことでもやってあげたかった。
しかし、冷蔵庫にプリンはなかった。甘い物が嫌いな私と夫。あいにく冷蔵庫の扉を開ける人物しか望まないものしか入ってなかった。ため息をついて散らかしっぱなしにしていた台所の片付けにかかった。煮麺を茹でた取っ手鍋、上に乗せる牛肉と野菜を炒めたフライパン、夫と私が食べ終わった食器をまとめて洗った。エプロンを外し、コートに着替えて再び、テリトリーの前に戻った。
『買いにいってくるね。すぐ帰るから』
今度は、応答はなかったがお膳はお盆ごとひっこめられていたので食べてくれてるようだ。
そして玄関を出たところで気づいた。
彼は、外の様子を知らないからこそ私にこんなことを頼んだのだ。私の知っている息子は、大雪の日に母親を外に出すほど冷血ではない。
マンションの階段を二つあがって202号室のドアの前で鍵を鞄から出した。そもそも私は、この週末、外に出る予定はなかった。一週間分の食料は、すでに家にある。二十年ぶりの大雪警報を毎朝ニュースを目にしている私が知らないはずがなかった。情報通というわけではないが、天気予報を見るついでにニュースも一緒に、という感じだ。
それにしても今朝のニュースは、あまり喜ばしいものではなかった。ニュースの大半は悪い知らせだが、夫と私は、煮麺を食べる手をとめた。一日中、家にいる私なのだからわざわざ、夫と朝食をともにする必要はないのだが、そうでもしないと私達夫婦の交流は皆無だ。
中学二年生の少年、母親を刺殺。
画面の上を流れるテロップを一瞥して夫は低く舌打ちをして、新聞を広げた。気分を害したようだ。
『お前のせいだぞ』
『何がよ?』
夫は、雑に顎だけテレビの液晶に向けてクイッとあげた。
『修二がなにか起こしたらお前のせいだぞ』
『あの子は優しいわ。なにもしないわよ』
そう答えて、右の髪をかき分け麺をすすった。その様子に腹を立てたのか夫は、新聞を荒っぽく、二つ折にするとテーブルに音をたてておいた。そして私を睨んだ。
『だいいち、お前は甘やかしすぎなんだ。だから修二はろくに学校にもいかなくなったんじゃないか』
『……またその話?』
睨み返すと、夫はまた低く舌打ちをして箸をおいた。
あの人は、知らないんだわ。
修ちゃんは何も悪くない。
「ただいま」
始めは、コンビニのプリンでいいと思ったけれど、せっかく修ちゃんが私を頼ってくれたのだからと私は行先をスーパーに変えて、まずい市販のプリンじゃなく、プリンを作ることにして、その材料を買ってきた。作るのは簡単だけど多少、冷やすのには時間がかかる。けれど修ちゃんは、そんなことぐらいで激怒するような息子ではない。そう決めたのだから、一刻も早く作りにかからないと、とリビングのドアをあけ私は止まった。
恥ずかしながら一瞬、夫かと見間違いしまった。
でもそこに立っていたのは、まぎれもなく修ちゃんだった。
九月から一歩もテリトリーからでてこなくなった修ちゃんがリビングの窓に右手を添え、外の景色を見ていた。
「しゅ……うちゃん?」
部活の顧問に言われ、短く整えていた髪はもう、伸びていて毛先が肩ではねていた。サイズが大きく引きずっていたパジャマの裾ももう丁度いい短さになっていた。
そう、私が見間違えたのは…。
見間違えたのは、修ちゃんの身長が以前よりあきらかに伸びていたからだった。きっと少しずつ少しずつ伸びていたのだろう。けれどまるでそれは積りに積もって私の知らない領域になっていた。
「母さん」
彼は、そのままの姿勢でこちらに首だけ傾けて顔を向けた。
「なんで、雪降ってるって、教えて、くれなかったの?」
その顔は、部活をやっている頃の活気あふれるものではなく、青白く痩せて、やつれていた。日光を浴びないだけで人の姿かたちはこんなにも変わってしまうものなんだろうか。私は、毎日毎食、お盆に乗せて食事を渡しているがひょっとして修ちゃんは、それを食べていないのかもしれない、とすら思った。
「ごめんなさい」
「知ってたら、プリンなんて頼まなかったのに」
修ちゃんは、怒ってなかった。
ああ……なんてこの子は優しいのだろう。本当に。
私のことを気遣ってくれているのだわ。
こんな子が私のことをあの事件の少年のように殺したりするわけがないのだ。
「外……寒いのかな」
ガラッ
「修ちゃんっ」
私は、あわてて彼を追うように雪の積もったベランダに出た。そのまま、飛び降りて死んでしまうのではないかと私は、焦ったのだった。しかし、修ちゃんはそんなことはしなかった。積もった雪の上の上に左足の裏を踏みしめて、窓に添えていた右手でしっかりふちを掴み、空いた左手をかざし上を見上げた。
「雪だ。雪だ」
彼は無邪気な声をあげ、微笑んだ。
「っと」
バランスを崩した修ちゃんは、ふちに引っかけてあった布団を干すときに飛ばないようにとめておくフックをとっさに掴んだが、フックはパチンと音を立ててベランダの下に飛んで行った。私は、倒れ込むように前かがみになる修ちゃんを両手で支えた。
「危なかった」
はあっと私が大きく深呼吸する頃には修ちゃんは、ベランダのふちに両手をつけ、フックの行方を見つけていた。フックは、二階下の十センチ積もった雪の上に落ちていた。
「とってこなきゃ……」
「修ちゃん」
「なに?」
修ちゃんが振り向く。
「お母さん、中学の時に何部だったかわかる?」
「うーん……茶道部?」
私は、柵に足をかけた勢いのまま
「陸上部よっ」
飛んだ。
灰色の空が広がる。
「母さんっ!?」
気配で修ちゃんが手を伸ばそうとしていたことはわかった。けれどその手が私の腕を掴むことはなく、私は、二階下の雪の上に見事に着地を決めた。走り幅跳びの要領だった。私は、飛んだハードルを見上げてブイサインを送った。
「びびらせんなよお!」
修ちゃんが叫んだ。そしてよじ登るように、右半身を柵にかけた。
「ダメよっ!」
あなたは、私と違うのだから。
あなたには、もう俊足の右足はないのだから。
雪は、あまり好きじゃない。
十…数年前、雪の降る夜、私は、毛布を抱えて診療所の前に立っていた。町で唯一の先生は、普段から診療所をそこに住まうように寝泊りしていることを知っていた。だから私は、戸を叩けば、先生がでてくることを知ってた。だからここまで、車できて高熱を出している赤子を毛布にくるんで抱いて、診療所の戸を必死に叩いた。
『馬鹿野郎!』
出てきた、先生は怒鳴った。私を見るなり、怒鳴った。それは、私が夜中にも関わらず、戸を叩くという方法で睡眠を妨害したことに怒っているわけではなかった。先生は、私から毛布にくるまれた赤子を取り上げた。
『雪の中、熱がでた赤ん坊を抱えてでてくる奴があるか!』
そう。
温かい車内に赤子を置いて、私だけ、こなかったことに怒っていたのだ。
先生は「ばかやろう、ばかやろう」と繰り返しながら温かい診療所で湯たんぽと何枚もの厚い毛布で赤子をくるんだ。そして、先生は私に説教した。
『あんたさんは、なにもわかっちゃいない。いくら赤ん坊が心配でも、だ。こんな時、どこでも連れまわすもんじゃない。しかも寒空の下に出すなんてもってのほかだ。大事に抱えてることだけがいつも正しい優しさじゃない』
あなたの脚はもうない。
学校に行かないのも
行くのも
自由。
けれど、私はいつかいなくなる。
そんな時、
「思いっきり飛びなさい!」
あなたは、その左足で歩いていくのよ。