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本物の悪

 今日は髪を振り回されました。

 理由は友達と喧嘩したからムカついた、らしいです。


 今日は頭を撫でられて美味しい物を食べさせてくれました。

 理由は親なんだから子供の好きなものを作るのは当然でしょ、らしいです。


 今日は包丁を向けられて脅されました。

 理由は寝不足でイライラしてるから、らしいです。


 今日はぎゅっと抱きしめてもらいました。

 理由は自分の子供が可愛いから抱きしめただけ、らしいです。


 今日は顔面をぶん殴られました。

 理由は特にないけどムカついた、らしいです。


 これは、夜来初三が幼少期の頃に記した日記の一部だ。

 そしてこれが、生まれて物心ついたときの夜来初三の日常で常識で毎日だった。

 両親どちらも『精神的な病』を患っていて、『正常な親』じゃなかったのだ。

 その日の気分で精神や心が荒れてしまう両親は、気分が良い時は子供を可愛がり、気分が悪いときはサウンドバックにしていた。

 そして。

 そのサウンドバックこそが、夜来初三という小さな小さな男の子だった。



 月曜日。

 いつものように、いつものごとく、いつも通りの『しつけ』が夜来家では行われている。場所をさらに絞り込めば、どこにでもある廊下だった。ただし移動を目的とした廊下の存在理由は一切無視した、容赦ない蹂躙が行われている。

「死んどけよクソガキがァ!!」

 父親に顔を踏まれ、腹を蹴り飛ばされた激痛によってほとんど白目を剥いて気絶しかけている当時十歳の初三。ただ涙を流すことしか出来ない彼は、声にならない声を絞り出していた。

「何泣いてんの? ちょー汚いんだけど」

「あがっ!? ご、ごめんあさい! ごめんあふぁい!!」

 母親は初三の額に狙いを定めてサッカーボールを蹴るように足を振った。結果、体を丸めてぶるぶると震えていた初三は夜来家の廊下を転がる。

「初三ィ、謝ってりゃいいっていう考えはいけないぞォ!?」

「あばっ、がっつ―――い、いい痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッッ!!」」

 体を襲う二、三回の衝撃に耐えたあと、父親に前髪を掴まれて容赦なく振り回されてしまう。無造作に、かつ、残虐的にだ。その頭皮を襲う熱い痛みに悲鳴を上げる初三を「うるせぇなァ!!」と怒鳴り飛ばし、父親は初三の顔を壁に叩きつけてやった。

 その衝撃によって脳は静かに揺れ、視界が一瞬ばかり真っ白に染まる。

 直後。

「っがァァああああああああああああああああッッ!?」

 顔の骨がビリビリと悲鳴を上げる現実に、思わず初三はのたうち回った。爪を床に突き立てる。そして、無理やり、爪を割った。バキリ、と深爪なんてレベルじゃない根元寸前から剥がれた指の爪。血が溢れてくる指は、既にピンク色の肉だけの指へと化していた。

 自分で自分に痛みを与えたことは、単純な理由。

 何かしらの刺激を加えなければ、思わず、意識が吹っ飛んでしまいそうだったから。

 そんな、自分で爪を剥いでまでして意識を保とうとする、顔を涙でグシャグシャにした男の子。

 それが自分達の息子だというのに、夜来夫妻は、

「もう飽きたわ。あーあーあーあーつまんない。もう行こうあなた」

「そうだな、本当ムカつくぜお前。俺たちの子供じゃねぇよ。一体君はどこの子供なんですかァ? ぎゃっはははハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」

 立ち去って寝室に消えていく両親の後ろ姿を眺めていた初三は、ただ涙を零していた。

 痛みに苦しみ、実の親から理不尽な怒りをぶつけられるという事実で心も傷ついてしまった夜来初三は、ただ号泣する―――わけがなかった。

 彼にとっては『生まれて物心ついたときから、こういう「しつけ」』を行われていたので、この異常な事態を『普通』で『当たり前』だと思い込んでいるからだ。

 だから、気にしない。

 この『しつけ』は『普通』だから、呼吸をするのと同じようなことだから、初三は気にしない。気にすることが出来ない。

 だって、この『しつけ』が『普通』なのだと『教育』されて育ってきたから。

「あ、あはは、今日はちょっとだけマシ、だったなぁ」

 初三は無理に笑って『大したことない』と自分に言い聞かせる。

 そこで、ふと気づいた。

「あれ?」

 鼻から、血が落ちた。

 いや、両親に殴られているときに既に血は流していたのだが、後になって鼻血が出てきたことに初三は驚いたのだろう。

「い、いそいで血とめないと」

 ボロボロになった体で自分の部屋に戻ろうとする。

 しかし、

「うあっ!?」

 バタン! と、派手に転倒してしまった。

 足がまともに動かせないほど殴られて、蹴られて、叩きつけられていたので、歩行が困難な状態だったのだ。

 何度か咳き込んでから、もう一度立ち上がろうと起き上がってみる。

 しかし、結果は同じことだった。

「はぁ、はぁ、どうしよう、俺。死んじゃうのかなぁ」

 死を覚悟した、そのとき。


「お兄ちゃん?」


 自分のことを呼んだ存在に気づいた初三は、首だけ動かして後ろを向く。

 そこには、トイレに行こうとして歩いてきたのだろう、初三よりも小さな女の子……のような男の子がいた。

「あ、ああ、終三。どうしたの? トイレか?」

「う、うん。お兄ちゃんは何やって―――どうしたのお兄ちゃん!?」

 大量の鼻血やところどころの流血に気づいた七歳の夜来終三は、一目散に初三の傍へ駆け寄ってきた。

「だ、大丈夫だから、トイレ行ってきなよ」

「だ、ダメだよお兄ちゃん! お兄ちゃんが死んじゃうよ。ど、どうすればいいの!?」

「じゃあ、部屋まで行くの手伝ってくれないかな?」

「うん、いくらでもやるよ!」

 終三は泣き目になって初三の体を起こそうと精一杯努力している。

 しかし所詮は子供の努力だ。限界というものがある。

 よって、いつまでたっても初三の体を起こすことは不可能だった。

「もういいよ、終三。ちょっと階段でこけちゃっただけだから」

 嘘だ。

 簡単な嘘で、子供じゃなければ通用しない嘘だった。

「で、でも、血ぃ一杯だらーって出てるよ?」

「大丈夫だよ、全然平気だ」

 初三は余裕の笑顔をにこっと作り、壁に手をついて立ち上がって、終三の不安を解いてやった。

「本当? なら良かった!」

 可愛らしい顔で笑ってくれた弟の頭を撫でた初三。

 自然と初三の方も終三につられて微笑んでしまう。

「じゃあ、トイレ行っておいで」

「うん。パパとママが待ってるから早く行ってくるねっ」

「……うん、そうだね」

「さっき、お兄ちゃんと寝たいってパパとママに言ったんだけど、ダメっていうの。何でかなぁ」

 そう、目の前の弟―――夜来終三は両親と川の字で眠りをとっているのだ。

 その事実はまるで、『一緒に寝ていない初三は家族じゃない』と言葉を使われずに示されているようなものだった。故に精神的に大きなショックを受けてしまう。

 なので、初三は涙を流さないように耐えて、

「……今度は俺と寝ようか、終三」

「うん! 絶対だよっ!」

 夜来初三は弟の小さな背中を見送ってから、自室にたどり着いた。

 どうやら、人間やる気を出せば自分の部屋にたどり着くことぐらいは出来るらしい。

 初三は鼻血を止めて怪我の応急処置を救急箱で行ってから、眠りについた。

 

 火曜日。

 どうやらこの日は、『アタリ』の日だったらしい。

 夜来家の食卓についた初三は、家族全員で朝食を取る。

「お兄ちゃん、おはよう!」

「ああ、おはよう」

 隣に座っている、まだかなり幼い弟に挨拶を返した初三は、早速手を合わせて食事の挨拶をしようとしたのだが……。

「大丈夫か? 初三」

「え、え?」

 突如、父親から声を掛けられたことに、動揺してしまった。

「ほら、昨日ちょっと私たち怒ったじゃない? そのことを言ってるのよ。ごめんなさいね、少しやりすぎちゃったわ」

 今度は母親が申し訳なさそうに眉根を寄せて喋ってきた。

「本当にごめんな、俺たちが悪かったよ。本当にごめん」

「そうね、今日の晩御飯は初三の好きなものオンパレードでいきましょうね?」

 両親から送られる『子供を愛する親』の視線によって、何か言わなくちゃと思った初三は、

「だ、大丈夫だよ! 全然、大丈夫……」

 と言った。

 すると、二人は優しさに満ち溢れた笑い声を響かせた。

 どうやら本当に、この日は『アタリ』の日だったらしい。

 こうして、この日は『普通の家族』と同じ一日を初三は送れたのだった。


 水曜日。

 今日は『ハズレ』だ。

 それも前回のような肉体的な暴力とは違った、無視というメンタルを削られていく暴力だった。

 初三は朝食の為にリビングへ降りて、挨拶を交わそうとする。

 しかし、

「おはよう、お母さん」

「……」

「おはよう、お父さん」

「……」

 キッチンで調理をしている最中の母親も、新聞を広げて足を組んでいる父親も、一言も返してくれないし、目さえ合わせてくれなかった。

 大人しく自分の席に座り、俯いて口を固くとじる。

 すると、リビングのドアが大きく開き、

「おはよう、みんな~」

 小さな男の子、夜来終三が寝癖をつけたまま姿を現した。

 初三は無理に笑顔を作り、朝の挨拶を行う。

「おは―――」

 だが、

「おはよう終三」

「おはよう、ちゃんと起きられて偉いわね終三」

 夜来夫妻が、初三のときとは別物の表情で笑い、挨拶を交わした。

 終三にだけ、挨拶を返したのだ。

 その何とも言えないつらさ、悲しさ、苦しみに心をえぐられた初三は、自分の部屋へ引き返してしまう。

「あれ? お兄ちゃんどこ行くの?」

「……今日は、具合悪いんだ、ごめんね」

 暗い声で呟き、弟に返答した。

 結果、この日は『ハズレ』の中の日常を過ごすことになった。


 木曜日。

 今日も『ハズレ』で、主に食事を作ってくれなかったり、必要最低限の世話をしてくれないという育児放棄の攻撃をされた。

 初三は一日何も食べることさえ許されなかったため、空腹に苦しんで一日を乗り切った。


 金曜日。

 今日は『アタリ』で、欲しいものを買ってもらえた。初三は両親にきちんとお礼を言って、笑いながら一日を終えた。とっても幸せな時間だった。


 土曜日。

 今日も『アタリ』だ。二日連続で優しい両親に構ってもらえるなって、何と幸福なことだろうと、初三は思いながら翌日の朝日までを過ごした。


 日曜日。

 今日は『ハズレ』だ。久しぶりに殴られ、蹴られ、ズボンに使うベルトで乗馬の馬ように叩かれてしまった。顔面を叩かれて歯が折れてしまった。もの凄く、とてつもなく、表現に表すことが不可能なほどの激痛によって、初三は涙が枯れるまで号泣し続けた。


 これが、夜来家の一週間の日常である。

 一言で言うなれば、誰もがこう思っただろう。


 ああ、この家庭は。

 異常だと。



「死にたい」

 中学二年生になり、世の中のことも大体理解出来るような歳になった夜来初三の口癖は『死にたい』だった。

 自分の家庭環境が狂っていることに気づき、少しずつ『本当の常識』を分かってきていた初三だからこそ、死にたいと思っているのだろう。

 それもそうだ。だって、こんな異常で、気持ち悪くて、イカれてる両親とずっと暮らしていくならば、誰だって死を選び楽になりたいと願うはずだ。

 一日に二十回以上は口にしているであろう自殺志願者宣言。

 彼は自室のベッドから身を起こし、時刻を確認してからもう一度睡眠の体勢に入った。

「クソが。だけどまぁ、死ぬわけにゃいかねぇんだよな、俺は」

 天井を見上げて、さらに独り言を続ける。

「俺っていうサウンドバックが死んじまったら、あのクソ親共は次に……」

 言葉を区切り、強調するように続きを言う。 

「次に、終三をサウンドバックにするだろうからな」

 そう、その通りである。

 今は、今までは『夜来初三』という、自分達のストレスをぶつけて楽しめるオモチャがあるから夜来夫妻は満足しているが、もしも初三というオモチャがなくなってしまえば、あの両親はきっと新しいオモチャを探す。

 もちろん、その新しいオモチャとは初三がいなくなった場合は夜来家最後の子供になるまだ九歳の終三である。

 必然的に、初三が消えれば終三が両親の攻撃対象にされる。

 そんなことは、分かっていた。

 だからこそ初三は、死ねない。自殺なんて出来ない。逃げられない。

(……終三だけは、弟だけは、何をしようと何をされようと守ってみせる。クソッたれが)

 拳を天井に向かって突き上げて握り締め、改めて誓った兄としての意思。

 彼は自分が両親に攻撃されることで、弟を守ろうとしているのだ。

 優しいのか、バカなのか、アホなのかは分からない。

 だが、初三の気持ちだけは揺らぐことが絶対にない。

 弟だけは守るという決意に、荒波が立つことは決してない。

「……俺は、何なんだろうな」

 ただ両親に傷つけられてきただけの人生を悲しんでの発言なのか、恨んでの呟きなのかは本人が一番分かっていないだろう。

 よって、そんな自問は切り捨てるように、

「チッ、クソが」

 と、吐き捨てた。

 長い溜め息を吐き、気分転換に外にでも行こうと思った。

 そのとき、




 ―――お前は立派な悪だな。




 突如、聞き覚えのない声が脳内に響いた。

 直接、心や考えに語りかけてくるような、実に不思議な声だった。

「っ!? な、なんだ、こりゃあ!?」

 ―――むぅ、おい小僧。これ扱いは流石にひどいぞ。

「な、何なんだよオイ!!」

 頭を抱え、虚空に向かって言い放った初三は、ベッドの上から咄嗟に身を起こす。

 ―――まあ良い。面と向かって話そうではないか。

 まただ。

 また、頭の中で反響するような声が、言葉が、音が聞こえた。いや、感じた。おそらく、現在の状況に聴覚機能は一切働いていないだろう。鼓膜に届いているのではなく、脳に直接情報が送られているような感覚だ。

「な、なにがどうな―――」

 トントン。

 動揺している初三の肩を叩く、リズミカルな音が鳴った。

 初三は、この自室には自分以外の人間がいないことを良く知っているので、背後を振り向くことが中々出来ない。

 恐怖だ。

 誰もいないはずの場所で、誰もいないはずの空間で、誰もいないはずなのに誰かに肩を叩かれたという不可思議な事実に恐怖してしまい、振り向けないのだ。

(……幽霊とか、俺、信じない派なんですけど……?)

 冷や汗を流しながらも、意を決してゆっくりと首を動かす。

 ぎぎぎ、という効果音がピッタリな動きで振り向いてみると……。

 ―――ふにっ。

「……」

 頬を指の先で、押された。

 そう。まるで、中学生や高校生のラブラブなカップルが日常的に行うような『肩を叩いて相手を振り向かせて頬を指でつつく』という、何の生産性もない行為だ。

「ほぉ。これの何が面白いのか、我輩には理解できんな」

「……」

「しかし、貴様のほっぺだけは……ちょー気持ちいい」

「知るかァああああ!!」

 いつまでもプニプニと頬をいじってくる謎の少女の手を払って、初三はこの状況にとって当然の言葉を第一に叩きつける。

「何なんだテメェは!!」

「神だ」

「ドヤ顔で言ったよ!? こいつドヤ顔で『神』発言したよ!?」

 腕を組みながらベッドの上で足を崩している銀髪銀目のゴスロリ服姿をした小学生か中学生程度の幼女。

 自称神である彼女は、うろたえている初三の目を直視して、

「実は悪魔です」

「神と大して変わってねぇよ!」

「実は実はサタンです」

「結局神じゃねぇか! 悪魔の神じゃねぇか!」

「そうだ。だから我輩は悪魔ナンバーワンなのだぞ。どうだ? パないだろう?」

 可愛らしいピースを見せつけて、少しばかり微笑んだ少女―――サタン。

 もちろん。いきなり現れて堂々と神と名乗り、最終的には悪魔の神という自己紹介をしてきた謎の少女に対しての初三の反応は、

「……」

 無だった。

 つまり、無反応だった。

「む? 今時の若者言葉に『パないだろ』はなかったか? ふむふむ……ならば―――どうだ? 我輩まじウケるだろう?」

「……現在進行形で俺にウケてねぇだろうが」

「すまない。貴様が『笑えない病気』を患っているとは知らんかった」

「どンだけウケると思ってたのお前!? 単純に面白くねぇだけだろうが!!」

 初三は即座にサタンから距離を取るために、ベッドから緊急回避するように飛び降り、敵意のみで作られた眼光を輝かせた。

「テメェは一体何者だコラ まさかとは思うが……」

 敵意から殺意の色へ変色した漆黒の瞳をギラつかせて、少年は言った。

「俺のクソ親共が連れてきた『俺の敵』ってわけじゃねぇだろうな?」

「……」

「黙ってんじゃねぇよクソ。クソの分際だろうと言語程度理解出来んだろ? 吐け。さっさと吐け。テメェは一体どこのドクソで、どんなクソッたれな目的があんだ?」

 双方は視線をぶつけ合うままで、何の行動も起こさない。

 ただ、部屋の時計による規則的な音だけが聞こえていた。

「小僧、貴様は」

 少女は自信の長い銀髪を片手でかきあげて、尋ねられた質問には答えずに、無関係な質問を返してやった。

「あの『精神異常者の両親』から逃げようとは思わんのか?」

「!? な、何で知ってやがる!! テメェ、マジで一体何者―――」

「言っただろう、我輩は神だ。嘘偽りなく、正真正銘悪魔の神様だ」

 静寂が場を支配した。

 初三は、自分の心臓がマシンガンのような速さで動いていることに気づいた。息が荒くなり、頭がクラクラとして目眩のような症状も発生している。

「そう緊張するな。我輩は貴様のことは何でも知っているぞ」

 緊張するに決まっているだろう。

 と、初三は心の中で吐き捨てるように呟いた。

 得体の知れない少女が突然現れて、彼女が自分の家の最大最悪の秘密である『両親が精神病』という情報を握っていて、さらには『貴様の全てを知っている』という今までの経緯からしてハッタリとは到底思えない発言までしたのだ。

 気味が悪いにも程がある。

 そんな状況になれば、誰だって緊張の一つや二つ無意識にしてしまうだろう。

「テメェが悪魔でサタンだってことは認めてやる。だが、何で俺の親のことまで知ってんだ」

「まぁ、それはボチボチ話していこうではないか。それよりも小僧よ。貴様、なぜあのイカれた両親のもとから逃げないのだ? なぜ、黙って暴力に耐えるのだ? 貴様はなんの落ち度も今までなかっただろう」

「その口ぶりからして、テメェは俺の過去の全てを知ってるみてぇだな……クソが」

 観念するように息を吐いた初三は、敵対する意思がサタンにはないと判断し、警戒心を少しばかり和らげた。

「俺にゃ逃げられねぇ理由……じゃなくて、逃げちまったらいけねぇ理由があんだよ」

「やはり、弟のことか?」

「……知ってて聞くなよ、クソが」

 サタンが座り込んでいるベッドまでもう一度移動し、寝転びながら初三は少女を一瞥する。

「あのガキ、終三だけはクソ両親の被害にゃ遭わせねぇ。そのためなら俺ァ地獄まで落ちてやっても構わねぇよ」

「自分を犠牲にして、他人を助けるということか?」

「他人じゃねぇ―――弟だ」

 サタンを睨みつけて『弟』という部分を強調するように言い放った初三。

 彼は大きな舌打ちをして、ゴロリと寝る体勢を変えた。

「貴様が弟を助ける理由、当ててやろう」

 サタンは初三の顔を上から覗き込み、告げる。

 初三が『大切な存在』として終三を守り続ける絶対的な理由を、告げた。


「今の貴様は両親からの暴力で生まれたストレスを発散するために、不良や暴力団が蠢く闇の世界で暴れ回っている。そんな現在の自分を唯一見捨てない弟に感謝しているからだろう」


 驚愕した。

 まさか、そこまで自分のことを知られているとは思っていなかったので、純粋に驚愕した。自分が現在足を突っ込んでしまっている世界が、いわゆる『暴力の世界』だということまで分かっているらしい、目の前の少女。

「……マジで人間じゃねぇみてぇだな、お前」

 昨日、大規模不良グループと喧嘩して怪我をした右肩をさすりながら、夜来は改めて少女の存在を再確認する。

 しかし、ここで反論するべき点が一つだあけあった。

 それは、

「だが、俺は別にストレスを発散するために闇の世界に入ったわけじゃねぇよ」

「ほう、ではなぜだ?」

「簡単だ。……理由が欲しかったんだよ」

 可愛らしく小首を傾げて、銀髪を揺らしたサタンから一度だけ視線を外し、初三は己

の胸に手を添えた。


「俺が、親父とお袋に殴られる理由が欲しかっただけなんだよ」


 涙を流した。

 涙を落として、彼は言った。

 起き上がり、情けない顔を見られないように腕で表情を隠した初三は、壁に背中を預けた。

「納得がいかなかったんだよ、クソッたれ。だって、おかしいだろ? 何で俺だけが親父達に殴られなきゃいけねぇンだよ。蹴られなきゃいけねぇんだよ。ボコボコにされなきゃいけねぇンだよ! 俺は何もしてねぇのに、普通にしてるのに、何で俺だけ実の親から暴力振るわれなきゃならねぇンだよ。……納得いかねぇだろ、こんなの。だから殴られる理由が欲しかった。だから俺は―――」

「自分から暴力が支配する闇の世界に入って悪い人間、悪人になり、『両親に殴られるのは俺が悪い人間だから』という理由を作ったのか?」

「……ご名答だよ、クソが。そういう理由を作ることで、俺は親父達の暴力に耐えてきた。精神を安定させてきたんだよ」

 狂っていた。

 夜来夫妻も夜来初三も、狂っていた。どうしようもない程、圧倒的に狂っていた。両親から攻撃される理由を自分で作り上げて、親からの暴力を『納得』するなんて方法を実行する初三は、両親と同様にかなりおかしくなっていた。

「……ッ」

 歯を食いしばり、必死に涙の滝を止めようとするが、やはり誰かに自分の苦しみを打ち明けたことで、緩くなってしまっている。

 泣きたい、という感情を押さえ込んでいた紐が緩くなってしまっているのだ。よって、両目から溢れ出る液体は止まることを知らない。

「だがなぁ、そんなクソ人間に堕ちたってのに、終三だけは俺に懐いてくんだよ。路地裏っていう人間のクズばっかが集まった世界に一歩でも踏み込めば、俺はどんな奴からも恐れられて嫌われてる。だが、終三だけは違った。アイツだけは俺を……心配してくれて、好意を寄せてくれてんだ」

「……」

「だから守る。俺ァ弟だけは守りきってみせる。そう昔から決めてんだ。そしてそれが、俺の『悪』だ」

「……悪、だと?」

 なぜ、初三は『弟を守る意思』を悪と評価したのだろう。

 どちらかと言えば、悪よりも善に近いはずだ。

 いや、善そのものと認識することさえ可能だろう。

 しかし、

「悪に決まってんだろうが。お前、仮にも悪魔っていう悪の生き物の大将様だろ? これくらいの悪は見破ってみせろよ」

「なぜ、弟を自らが盾になって守ることが悪なのだ? どう考えても善だろう」

「いいや、悪だ」

 断言した。

 速攻で、サタンの考えを否定した。

「理由を聞かせろ、小僧」

「……俺が盾になって陰から終三を守るから、悪なんだよ」

「……」

「自分の代わりに兄が両親から殴られてるって終三が知ってみろよ。アイツはきっと……いや、誰でもきっと『自分を守るために兄が傷ついている』っていう罪悪感に押しつぶされちまうだろうぜ。わかるか? 俺が終三を体張って助けるっていう行為は、俺は自己満足を感じて、終三は罪悪感で一杯になって終わるだけなんだよ。だから終三を『陰から守る』っていう行為は、『終三に膨大な罪悪感を押し付けてしまう』リスクを背負うって悪行だ」

「確かに……な」

「これでもお前は、俺が弟を助けることが善だと言い張れるのか? あぁ?」

「……」

 じっと、こちらを見つめてくるサタンに気づいた初三は、赤くなった目で見返してやる。サタンは特に表情を変えず、ただ、感心するように初三を眺めているだけだ。

 その沈黙に耐えられなくなった初三は、

「と、とりあえず分かっただろ。俺は悪人だ。極悪人なんだよ」

 と言って静けさを破った。

 そして、出会って間もない女に何で自分のことをペラペラと話しているのだバカが、と心の中で自分を自分で叱りつけた。

「……ふむ」

 サタンは満足そうに笑うと、初三の傍まで四つん這いになって近寄り、

「どうやら、我輩が見込んだ価値がある男だったようだな。嬉しいぞ」

 潤んだままだった初三の目に、細く、白く、美しい指を近づけて、

 大粒の涙をすくいとった。

「そうだ。貴様がしていることは悪だ。それは悪の生き物の頂点に立つ我輩が保証しよう」

「なにを、言って……」

「勘違いするなよ小僧。貴様の悪は『本物の悪』だ。自分がしていることを悪と自覚した上で、弟にバレないよう陰から弟を守り続けている。これは良い悪―――『本物の悪』だ。誇れ、小僧。誇っていいぞ、貴様の悪は正しい。悪の神である我輩が言っているのだ、絶対に正しい」

「だ、だから急に何を―――」

 動揺する初三にサタンは微笑む。

 そして、撫でた。

「我輩は理解してやるぞ、お前の気持ちを」

 まるで、弟を可愛がる姉のように、初三の頭を撫でてやった。

 優しく、ゆっくりと、貴重品を扱うようにして、撫でる手を動かすサタンは、歓喜に満ちた表情をしている。

(この小僧は、悪というものを理解している。我輩と同じように、『本物の悪』を分かっている。それに、なにより……)

 どこか幸せそうに、猫のように目を細める初三を胸に抱き寄せて、サタンは思った。

(なにより、この小僧ほど『誰かを想うこころ』を持っていた者を、我輩は知らない)

 瞼を閉じて。

 サタンは考えた。

(……この小僧となら、我輩は一緒にいられるかもしれないな)


 初三が悪魔との出会いを果たしてから、一年の月日が経った。

 ギラギラと輝き、大量の紫外線を放出している太陽が、夏休みである現在を示しているようだ。夜来家の四人が来ている場所は、隣街の天山市都心の繁華街である。どうやら『アタリ』の日だったことが幸いしたらしく、初三も今回の家族旅行には同行していた。

 車から降りて、予約していた宿に向かって歩いている両親と、今年で十歳の誕生日を迎えることになった夜来終三の後ろ姿。

 仲良く手をつないでいる三人の様子は、まるで『普通の家族』のようだった。その『普通の家族』の輪から自分は除外されていると改めて自覚する初三は、三人からかなり距離を置いて一人寂しく歩みを進めていた。

 いや、訂正しよう。

『一人寂しく』ではなくて『二人寂しく』だ。

「おい、小僧」

「っ! 急に出てくンな、クソ悪魔!!」

 突如、自分の背中から現れたゴスロリ少女を怒鳴った初三は、周囲をキョロキョロと見回して、人が偶然にもいないことに安堵の溜め息を漏らす。

「テメェ、その辺の奴らに見られたらどうする気だコラ。つーか何で毎回毎回俺の体から出て来んだよ」

 約一年前に出会い、一心同体という呪いの関係になっている悪魔にそう言った、右目の周りに前髪で隠れる程度の小さな紋様が―――数秒前まであった少年。

 サタンが実体化して出てきたことによって、つい先ほどに『サタンの皮膚』を表す紋様は消えてしまっていた。

「我輩のような化物が人間界に出るときは、憑依体の人間からあくまで『一時的』に出られるだけだ。そう何日も人間界にいると、存在力が奪われていつか死ぬ」

「あぁ? 何で死ぬんだよ」

 サタンの美しい横顔を一瞥して、尋ねた。

「もともと我輩たちには合わないのだよ、この人間の世界は。住んでた世界が我輩は違うから、この人間界の空気も匂いも温度も何もかもが合わない。だから存在していけない。水の中に住む魚が陸で生活できないのと同じだ」

「お前、俺と出会ってから一年近く人間界にいるだろうが。全然平気じゃねぇかよ」

「いいや。我輩が貴様に憑依している間は、人間界に実体化するのではなく、呪いという形で貴様の中にいられるのだよ。だから、定期的に憑依体―――貴様の体へ戻れば、呼吸が出来ない状態に等しい人間界でも呼吸が可能になるというわけだ」

「俺は酸素ボンベかよ」

「あながち間違っていないな。それより……」

 前方を歩く、初三を除いた夜来家の三人に向かって鋭い眼光を放ち、舌打ちを吐いたサタンは、初三の袖を引っ張った。

「貴様には我輩がいる。だから安心しろ小僧。貴様は決して一人じゃない」

「……ああ、分かってる。悪いな」

 初三は溜め息を吐いて言い、頭をがしがしと乱暴に掻いた。

 そして、

「あと、いい加減教えろよ」

「何をだ?」

 初三の顔を真っ直ぐに見つめたままのサタンは、心の底から何を言っているのか分からない、といった風の顔をする。

 初三は自身の右目の傍に普段はある(現在はサタンが出ていることで消えている)紋様に手を添えて、

「何で変な紋様が俺の顔に出てきたのか、お前は何で俺に憑依してるのか、とかだ」

「……それは、言わなければならない質問か……?」

 言いたくなかった。

 自分が。

 どんな存在なのか。

 どんな理由で初三に憑いたのか。

 どんな効果を―――デメリットを紋様が表しているのか。

 これらの事を初三に教えてしまったら、きっと逃げられる。嫌われる。怖がられると予想しているので、サタンは言いたくなかった。

 初三の人間性や性格や人格、考えに好意を持ち、いきなり現れた自分みたいな悪魔に驚かずに接してくれる少年を、手放したくなかった。

 ずっと一緒にいたいと思った。

 なので、

「まぁ、別に言いたくねぇなら勝手にしろよ」

 初三の返答には心から感謝したものだ。

「いいのか?」

「テメェが言いたくねぇんだろうが。お前がどんな目的で、どんな理由で、俺と一緒にいるかはわからねぇが、別に気にしねぇよ。俺は全然気にしねぇ。なんなら、一生教えなくてもいい。だからまぁ、気が向いたら話せよ」

「な、なんで気にしないのだ?」

 一生―――という言葉に大層驚いたサタンは、初三の目を凝視してしまう。

 彼は、こう答えた。

「お前が悪魔の神でも、俺に悪影響を与える存在だったとしても、俺はお前と……い、一緒にいたいっつーか、何かお前といると楽っつーか……まぁ、その……と、隣にいて欲しいんだよ、お前に、これからも」

「―――っ!?」

 思わずサタンは立ち止まってしまった。

「チッ。……とにかく行くぞ」

 かなり勇気を出して本音を吐き出した初三は、恥ずかしさのせいで、ぷいっと顔をサタンから背けて、てくてくと歩行速度を早めてしまう。

「一緒…………隣に、いて……欲しい……」

 呆然と突っ立っているサタンは、少し先を歩く初三の背中をしばし見つめて、ようやく我に返った。

 その結果。

「こ、こ、こここ」

 ニワトリの鳴き声の真似にしては全然似ていない声を発して、

「小僧!」

「ぐおわっッ!?」

 普段のクールな態度からは想像がつかないほど幸せそうに笑い、背後から思い切り初三を抱きしめた。

 背中に当たる柔らかい感触と、周囲の人間から浴びせられる視線に耐え切れなかった初三はジタバタと暴れまくる。

 が、サタンは彼の力を上回る筋力で抱擁を続行するので、初三に逃げ道など存在しなかった。

「好きだ好きだ好きだ好きだ大好きに決まっている。ずっと隣にいてやるから安心しろぉ可愛いやつめぇ! もう大好きすぎて我輩ってば萌え死んじゃう!!」

「むむ、むむむう!?」

 今度は小さいが柔らかい双方の胸の間にぐりぐりと顔を埋められながらハグされて、窒息死する限界の初三。

「何だ何だ小僧も我輩のことを気にってくれていたのかぁ。もはや我輩が小僧の味噌汁を一生作ってやるしかあるまい」

「ちょ、お前、いい加減離れ……」

「照れてるのか? 照れてるのか? 初々しいやつめ、もっともっとぎゅっと抱きしめさせろ我輩のダーリンよ」

「お、おいクソ悪魔、てっめ―――」

 と、様々な愛情表現による地獄を体験している初三に、

 一つの声が掛かった。

「兄ちゃん、何やってるの?」

 初三とサタンは同時に振り向く。

 そこには、

「しゅ、終三、どうしたんだ?」

「いや、兄ちゃんが来てないから探しにきたんだよ」

 弟、夜来終三がいた。

 自分の兄が知らない女―――しかも銀髪銀目でゴスロリ服を着た少女に抱きしめられていることが、よほどビックリしたのか、終三は呆然とした顔で二人を見つめていた。

 サタンは空気を読んで名残惜しそうに初三から手を離し、一歩後ろに後退する。

「ああ。今行くから、ちっとばっかし待ってろよ」

「うん、分かった。……それより兄ちゃん」

「あん?」

「その女の人、兄ちゃんの彼女? 綺麗な人だね」

 ハッと背後を振り返ってみると、終三の『彼女』という発言に動揺一つ見せないサタンが腕を組んで立っている。

 初三は誤解を解くために動き出した。

「いや、全然違ぇよ」

「じゃあ何? っていうか、何でここにいるの?」

「この女は……彼女じゃなくて、女友達ってやつだ。偶然こいつも家族旅行でこの街に来たンだとよ。んで偶然会っただけだ」

「へー、そうなんだ。初めまして、兄ちゃんの弟の夜来終三です」

 ぺこり、とお辞儀までして丁寧な挨拶を行った終三に、サタンは同じように返答を返すのではなく……。

「おい、終三とやら」

「はい? なんですか?」

「貴様、自分の兄である初三のことを好いているのか」

 首を傾げた終三は、しばし沈黙してから、

「はい! 兄ちゃんは強いし、かっこいいし、僕に優しくしてくれるんで大好きですよ」

 と言った。

「……そうか。ならば、両親のことはどう思っている?」

 サタンは目をうっすらと細めて、真剣さが増した声で尋ねた。

 すると、


「そりゃ大好きですよ。兄ちゃんにも僕にも優しくて、すっごい大好きです!!」

 

 初三とサタンはお互いに目を合わせてから、小さな溜め息を吐いた。

 やはり、終三は知らない。

 その大好きなお父さんとお母さんが、自分の兄を陰で殴り飛ばし、蹴り潰し、暴力を振るっていることを、何一つ知らない。知らされてないし、知らない。

 だが、これこそが初三の望んだ結果だ。

 終三がもし、自分の両親の正体を知ってしまえば、きっと壊れる。両親は終三にだけは手をあげたことがない。

 理由は、初三が両親の攻撃対象になっているから、自然と終三は攻撃対象外として認識されているからである。

 ゆえに夜来夫妻の『精神異常』の部分を知らない終三は、両親は普通だと思い込んでいるのだ。

 だからこそ、自分の親が本当に狂った人間だと知ってしまったとき、終三の心はその現実を受け止めきれない。

 受け止められずに、壊れてしまうだろう。

 だからこれでいいのだ。

 終三は親の正体を知らずに、両親を『優しい親』と思ったまま幸せに生きればいい。

(お前だけは、弟のお前だけは、俺が守る……)

 邪気などが一切混じっていない終三の綺麗な瞳を見て、小さく笑った初三。

「……」

 サタンは『弟を守る悪』を抱いて生きている初三を哀れむように見つめる。

 本当に兄の鏡と断言できるぐらい弟想いの兄―――夜来初三。

 彼は、終三のもとへ近寄って頭を撫でてやった。

「いいから先に行け。俺もすぐに追いつく」

「うん。分かった!」

 無邪気な笑顔を咲かせた終三は、まだ小さい歩幅で走り去っていく。

 サタンは、どこか寂しそうな初三の横顔に声を掛けた。

「……小僧。貴様はこれでいいのか? 誰からも貴様の弟を守っているという事実を評価されないままで、本当にいいのか?」

「構わねぇ。これが俺の『悪』なんだからな」

 即答だった。

 だが、即答したわりに、初三は……。


 悲しい顔をしていた。


 やはり、『構わない』なんて思っていなかったのだ。

 本当は、自分も両親に甘えて、優しくしてもらって、仲良く家族生活を送りたかったのだ。

 普通だ。

 普通の反応だ。

 弟は両親と幸せに暮らして、兄の自分だけは両親から殴られる。

 納得出来るはずがない。

 親の気分で、その場の気分で、殴られる。

 逆に都合がいいときは、優しくされて、頼られる。

 そんな日々だった。

 まさしく、

『アタリ』の日と。

『ハズレ』の日がある毎日だった。

 サタンは、あまりにも報われなくて、可哀想すぎる彼の傍へ近寄って行った。

「貴様は、本当に素晴らしい人間だ。『本物の悪』を理解している人間だ」

「……」

「やはり、貴様に憑いて正解だった。貴様ほど、『本物の悪』を理解している者には、一度たりとも出会えなかったぞ」

「……だから何だよ」

「我輩が貴様と一緒にいる理由、一つだけ上げるとすれば、貴様のそういうところに惚れたからだ。弟を守るために自分を盾にすることを『悪』だと自覚しているがゆえに、弟に気づかれないよう陰から助けているお前の『本物の悪』に惚れたからだ」

 そっと、手を伸ばした。

 サタンはその手を初三の頭に乗せて、

 優しく、一年前に始めて会った時のように、撫でてやった。

「だから我輩は貴様が好きだ。好きになった。貴様ほど我輩と同じように『正しい悪』を意識する者には、今まで一度も会ったことがない。どいつもこいつも、己の私利私欲オンパレードな小悪党ばかりだった。だから小僧、貴様は『弟を陰から支えているという悪』を誇りに思え。貴様はまさしく、この世で一番―――『一流の悪』を背負っている『一流の悪人』だ」

「……あぁ、俺は悪人だ。紛れもない悪人だよな」

「そうだ。自分を悪人だと認めた上で、『弟を守る悪』を貴様は抱いている。この時点で、貴様はその辺にいる人間よりも、優しくて正しい人間だ」

「……弟に罪悪感を感じさせないように陰から守ってる俺は……『一流の悪人』なのか。……だったら、『一流の善人』って奴ァどんな人間を指す言葉なんだよ」

 初三からの質問を受けたサタンは。

 笑った。

 小さく、失笑するように、笑った。

 まるで、テストの答案用紙にバカバカしい答えを書いて間違いをしてしまったように、ケアレスミスをしてしまった時のように、笑った。

「いいか? 小僧。この世には悪が満ちている。金による悪は詐欺だし、恋愛の悪は嫉妬だ。友人関係の中に亀裂が走ってしまえば、暴力という悪だって行われる。この世は悪で満ち溢れているのだ。だがなぁ小僧。この世に『悪』は存在するが……」

「存在するが?」

 サタンは微笑んだ。

 その微笑みは、悪魔というより天使に近いものだ。

 が、次の発言は改めて悪魔の神と再認識させられるような言葉だった。



「悪はあっても、『善』なんてものはこの世に絶対に存在しない」


 

 なぜだろう。

 なぜ、「そんなことはない」と初三は反論を返せないのだろう。

 善だってあるはずだ。

 苦しんでいる者達を助け、悪を成敗するヒーロー(善人)だって、この世界のどこかにはいるはず……なのだろうか?

「小僧、貴様も気づいているはずだ」

「……」

 ああ、そうだ。

 気づいているさ。

「正義のヒーローこそが、一番の悪だということに。善人こそが、善こそが悪よりも悪だということに」

「……ああ、そうだな」

 そうだ。確かにそうだ。

 肯定できないはずがない。

 だって、事実なのだから。

「よくテレビで見るような子供向け番組の正義のヒーロー。あんな『悪党』を子供に見せるなんて、人間は狂っているな」

 サタンの言うとおりだ。

 何もかもが、サタンの言うとおりだ。

 この世に『善人』なんていない。

 この世に『善』なんて皆無である。

「『正義のヒーローが悪党を倒す』という時点で、『正義のヒーローはもはや正義ではなくなっている』のだ。悪党が一般人に『暴力』を行って困らせているのを、ヒーローは颯爽と駆けつけて助けるのだろう? 悪党と同じ『暴力』という悪同然の行為を持って悪役を片付けるのが、今の正義のヒーローなのだろう? 子供はその『悪党を暴力で殺す・倒すヒーロー』を見て、それが『善』だと―――『正義』なのだと教育されるのだろう? そんなものを子供に見せるだなんて、人間は狂っている。イカれている。あんなものはただの傷害クソ野郎なだけだ」

「ああ、そうだ。今の人間はどいつもこいつも『悪を倒せば善』だとか、『困ってる奴を助けるのが善』だとか思ってやがる。それこそが紛れもない『悪』だってことも知らずにだ」

 もしも、困っている人がいるなら、人間はその人を助けるのだろうか?

 いいや、助けない。

 きっと助けないはずだ。

 正確に言えば、『助けられない』はずなのだ。

 具体的な例として、荷物を持ちきれない老人がいたとする。老人は息を荒くしながら、必死になって荷物を運んでいる。それを見た青年が、「荷物お持ちしましょうか?」と手伝いをしに動いた。


 これは悪だ。


 もう、この時点で悪と判断されても仕方がないほどの悪だ。

 助けられた老人はどう思うのだろう。

 持ち運べない荷物を持ってくれる青年が現れたとしたら、一体どう思うのだろう。

 答えは二つだ。

 まず一つ目は、素直に感謝する。

 きっと、優しい人だなと感心しながら老人は笑ってくれるはずだ。

 が、しかし。

 同時に、怒りを覚えるだろう。中には「ふざけるな!」と激昂する老人もいるかもしれない。

 当たり前だ。

 怒って当然だ。

 それは助けようとした青年が悪い。

 青年こそが、『悪』だ。

 なぜなら、青年からすれば『困ってる人を助けている』とか勝手に思い込んで、善行をしたと勘違いしているからだ。

 だが。

 しかし。

 老人はどう思った? 

 もちろん、感謝はしたはずだ。

 ありがとうと頭を下げてくる人もいるかもしれない。

 しかし、老人サイドからすれば。

 荷物を運べない自分の代わりに、青年が荷物を持ってくれたという事実によって、『歳で筋力が衰えたせいで荷物さえも運べないのが今の自分』だと再確認させられるようなものなのだ。 

 自分の出来ないことを他人が出来た……と思ってしまえば、誰だって自己嫌悪したり劣等感を感じたりするだろう。

 このように。

 他人を助けることだって、時として絶対的な悪に変わるものなのだ。

 ならば、どうすれば老人を傷つけずに『正しい善行』を行えたのだろうか?

 答えは一つ。


 善行なんて存在しないから、何も出来ない。


 老人を助けるという行為は―――老人を助けて劣等感などを与える悪。

 老人を助けないという行為は―――老人を見捨てるという単純明快な悪。

 これだけだ。

 助ける、助けないの違いはたったこれだけだ。

 つまり、善行なんて選択肢にさえ入っていないのだ。

 人は繊細だ。

 人は救えば壊れる恐れがある。

 些細なことで精神や心は破壊されてしまう。

 だからこそ―――


「―――『誰も救わずに目的てきだけを始末する』ことこそが『本物の悪』だと、我輩は思っている」


 サタンは初三の手を取って、歩き出した。

「だから、貴様の『弟を陰から守る悪』は『本物の悪』だと認めているのだ。弟を守っていることを弟本人に知らせれば、弟は罪悪感で一杯になる。だから弟には秘密で弟を守る……というのは、まさに『本物の悪』だろう。弟は罪悪感に埋もれず、幸せに生きている。ただお前だけが傷ついているだけだ。おまえ以外・・は誰も傷ついていない。もちろん、弟にバレてしまったのなら、それは話は別だがな」

 サタンは初三に微笑んで、

「お前は弟を助けているつもりか? それとも、兄として『当然の事』をしているに過ぎないか?」

「……当然の事をしているに過ぎないよ」

「だったらお前は『本物の悪』だ。弟は助けていない、ただ兄として弟を守っている当然のことをしているだけだ」

「……そう、か?」

 サタンは、やや大仰に頷いた。

「うむ、そうだ。だが、もう一つ『本物の悪』というものがある。我輩の思う『本物の悪』とは、もう一つの『小悪党を成敗する悪』だ。『無闇に人を傷つける』ような真似をする三下な小悪党を始末するときだ」

「あン? そりゃさっき話した『正義のヒーロー』っていう悪党がすることじゃねぇかよ」

「いいや、違う。『正義のヒーロー』は『誰かを助けている』とか『困ってる人を救わなきゃ』と思って敵を暴力で倒しているのに『自分がしていることは正義だ』と思い込んでいるのが『悪』だ。ようは一方的な自己満足で自分の悪行を善行と思い込んでいるのだ。が、しかし、『目的』を変えれば悪行を善行に変えるような自己満足は発生しないはずだ」

 サタンは満面の笑顔を開花させ、風によって銀髪が吹き上げられたタイミングと同時に言った。

「小悪党に襲われている『誰かを助ける』のではなく、『小悪党を成敗』すればいい。誰かのために戦うのではなくて、小悪党を自分の意思で倒せばいいのだ。それは、誰かに傷を負わせない代わりに、小悪党と戦った自分の体が傷つくだけで終わる。―――だからやっぱり『誰かを救わずに目的てきだけを潰す悪行』こそが、本物に近いと我輩は思うぞ。敵を殺害し、自分の体だけを傷つけて終わる。ほら―――周りの者は誰も傷ついていない」

「……なるほどな。ようは、自分の為に戦えってことかよ。誰かを助けるヒーロー気取るンじゃなくて、自分の為だけに戦えってことかよ。人を救うことは悪だ。だから誰も救わない。ただただ目的てきだけを蹂躙するってわけか」

 感心するように小さな声量で口にした初三は、確認を取るようにサタンの美しい銀目に視線を送る。

 すると、かなり神秘的な容姿を持つ少女姿の大悪魔は、満足気に首肯した。

「その通りだ、小僧」

『本物の悪』とは『誰も救わずに目的だけを遂行する悪行』。すなわち誰かを救う善人を気取ることなく、ただ悪を極め続けた故の結果に過ぎないのだろう。 

 だからこそ。


 夜来初三は弟を守っている行為を『当然』だと認識している故に、彼のしていることは『本物の悪』だろう。助けるなんて善人を気取っていない時点で『本物の悪』なのだろう。






 予想はしていた。

 いつかはこうなると予想はしていた。

「は、はは、マジかよ」

 皮膚に浮かぶ紋様が戻っていることからして、きっと今はサタンが初三の体へ戻っている。なので、夜来初三はたった一人で呆然としていた。

 予定だった旅館にたどり着いたと思ったら、そこには、

「潰れてンじゃ………ねぇか、よ」

 旅館なんて、なかったのだ。

 廃墟と化した日本風の旅館は、もはや心霊スポットとして利用できそうなレベルだった。

 しかし、この辺りには宿泊施設など目の前の元旅館以外にはなかった。

 これらの事実からして、夜来初三はきっと、


「親に、捨てられた……か」

 

 彼は、放心するわけでもなく、ショックで泣き叫ぶこともなかった。

 ただ、事実を、結果を、状況を納得したように呟いていた。

「あっハハハハ! 何だこりゃ何だこりゃ何だこりゃあアアアああ!? あっハハはハハははハハハハハハハハハハハハハははははハハハハハハハはハハははハハハハ!! ふざけんなよ、マジでクソったれだなあオイ‼ ぷっ、くはははハハはははッッ!!」

 空に向かって顔上げ、背中を後ろへブリッジするように伸ばし、頭を挟むように両手で押さえて頭痛に苦しむようなポーズで一通り大笑いした初三は、息を大きく吸い、

「ふざっけンじゃねェェええええええぇぇぞォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! クソ野郎共がァァあああああアアあアアああああああアアアア!!」

 世界中に響き渡る怪獣の咆哮を轟かせた。

 奇跡的に周囲に人間がいなかったおかげで、初三の絶叫する異様な姿は誰かの目に入ることはなかった。

「どうすンだよクッソがァァあああアアアアあアアア!! これじゃ、これじゃあ俺ァ―――終三を守りきれねぇじゃねェかぁぁアアああアアあアアアアア!!」

 そうだ。

 今、初三がこんなにも焦って、怒って、恐怖しているのは、『自分がいなくなったことで終三が両親に殴られる』ということだ。

 捨てられるのは別に構わない。

 むしろ、あんな親からはこっちから離れたいものだ。しかし初三には『大切な存在』である終三―――弟がいた。

 弟がいるから、弟を陰から守るから、弟だけは幸せに生きて欲しかったから、初三は両親からの暴力に耐えてきた。

 いや、耐えられてきた。

 そして。

 これから先も弟だけは守りきることが絶対の目標だったのに、捨てられてしまったら、もう、弟を守る事なんてできないじゃないか。

「落ち着け小僧!!」

 突然、背後から耳に入ってきた聞き慣れた美しい声。

 初三はサタンの登場には目も向けず、廃墟の旅館の一部を全力で殴り、壁を破壊した。

 ほとんど腐った外壁だったおかげで、初三の拳に傷は一切つかない。

「ううううううあああアアアアアアああああアアアアアアアアアあアアああああああああああアアあああアアアあああああアアあああああああああああ!!」

「っ! いい加減落ち着け小僧!!」

 サタンは咄嗟に動きだした。

 夜来初三は明らかに暴走寸前を通り越して暴走中だった。血走った目、額に浮かんだ青筋はさらに悪化してしまい、もはや獣同然の姿である。

 しかし、

「まったく、世話をかける小僧だ」

 と、初三はどこかの銀髪銀目の悪魔の声を聞いた瞬間を最後に、首元に走った衝撃で意識を失った。

「しかし、まさか小僧を捨てるためだけに、この旅行を計画したのか、あのクズ両親は」

 そう憤怒が詰まりに詰まった口調で、夜来初三の意識を一時的に奪ったサタンは、汚い廃旅館を見上げる。

(本当に、どうするべきだろうか。この小僧はこれからどうやって生きていくのだ……? まだ中学生だ。学校には給食とやらがあるから餓死はしないだろうが……おそらく、もう夜来家は売られてるか、誰も住んでいないだろうな)

 息子をこの隣街という近場に捨てたということは、すでに夜来夫妻とその子供、終三はどこか別の街へ逃げ出したのだろう。もちろん、一度初三を呼びに来た終三は『初三を捨てる』ということを知らされいないのだろうが。

「……どうするか。小僧が回復してしまえば、きっとまた暴れまくるだろうな。それでなくても、弟想いの優しい奴なのだから、相当今回の出来事はショックだったのだろう……」

 サタンは、最初からおかしいと感じていた。

 初三の両親は、機嫌がいい時は初三も終三も可愛がるし普通に接してくる。

 だが逆に、機嫌が悪い時はそこらの虐待の方がよっぽどマシだと言い張れるぐらい、豹変する。よって今回の家族旅行に初三を同行させた時点で、両親の機嫌はいいはずなのだ。

 なのに、夜来夫妻は幼い終三とだけ会話し、並んで歩き、初三の存在など欠片も感じていないような行動や言動をしていた。

 おかしい。

 両親は、期限がいいから初三を旅行に同行させたのだろうに、初三に対しての態度は機嫌が悪いときのそれだった。

 つまり、

『アタリ』の日だったはずなのに『ハズレ』の対応をされていたのだ。

 だから何か企んでいるのでは? とサタンは怪しんでいたのだが……。

 まさか、実の子供を捨てるとは予想外だった。

「我輩が……小僧を守らねばならんな。ずっとずっと……守り続けてやらねばならんな」

 と、決心を言葉にして、初三を軽々とお姫様抱っこしたサタン。

 そのまま改めて周囲を見渡してみると、ここは自然に囲まれている神秘的な場所だと気づいた。

 さらに日が暮れ始めていて、辺りは幻想的なオレンジ色に染め上げられている。

「……気に入った。最悪寝床がこれから先ずっと確保出来ない場合は、ここら一体を我輩の魔力で平地にしてから、魔力で家を立てて小僧と一生暮らしていこう」

 夕日が輝くこの場所がよほど気に入ったのか、満足気に頷いてチラリと初三の顔を伺ったサタンは、

「ノリで、いっちゃおう……かな」

 夕日が沈むときにキス、というシチュエーションに憧れていたのか、サタンは可愛らしく頬を染めて、うっとりとした表情で初三の唇に自分の唇を持っていった……そのとき。



「何をしておる、お主」


 

 邪魔が入った。

 最高の時間に最悪のタイミングで、邪魔が入った。

忌々しそうに舌打ちを吐いたサタンは、背後を振り向く。

しかし、

「む? 気のせい、か?」

 誰もいなかった。

 人っ子一人、虫一匹さえも、視界には写っていなかった。

 だが、

「いるじゃろうが、馬鹿者が」

 また、声が聞こえた。

 かなり近くで聞こえているはずなのに、どうしても姿が見当たらない。

「ふむ、幽霊というやつか?」

「違うわ馬鹿者が!」

 きょろきょろと、あちこちに目を動かしていたサタンは、ふと、声のした自分の足元に視線を急降下させてみる。

 そこには、

「ようやく気づきおったか、鈍い奴じゃのう」

 小さな生き物が浴衣姿で腰に手を当てていた。

「……何だ、この微生物は」

「微生物!? 身長が低いことは自覚しているが、微生物と言われたことはないぞ!! っていうかお主も十分小さいじゃろうが!!」

「なら貴様は何生物だ?」

「どう見ても人間じゃろうが!!」

「うっわー、ちょーどうでもいい」

「お主が聞いたよね!? なんでお主が興味ないの!?」

 面倒くさいな、と小声で吐き捨てたサタン。

 見た目が幼女のくせに、喋り方だけは大人っぽいを通り越している浴衣姿の少女をサタンは見下ろす。

「ん? お主……」

 すると、少女はしばし無言でサタンの顔――主に右半分を凝視してきた。

 その視線が捉えているのは、おそらく……。

「お主……まさか―――!?」

「ほう。貴様、我輩達『怪物』の専門家というやつか? 確か、『悪人祓い』といったか」

 銀髪銀目の少女の右半分にある『サタンの皮膚』を意味する紋様を咄嗟に理解した少女は、愕然とし、驚愕の声を吐き出した。

 サタンは感心するように『悪人祓い』の少女を見る。

「な、なぜ貴様のような大物が人間界にいるのじゃ!!」

「観光だ」

「真顔で嘘をつくでない!!」

「……はぁ、気に入った人間がこの世界にいたからだ」

 溜め息を吐き、サタンはいまだにお姫様抱っこ中である初三を少女の前へ軽く突き出した。

 少女は目を丸くしたまま呆然としていたが、初三の存在に気づき、我を取り戻す。

「こ、この者がお主の気に入った人間なのか」

「ああ、その通りだ」

「そ、それで、お主達はこんなところで何をしているのじゃ? ここはもう見ての通り宿泊施設の面影なんぞゼロな場所じゃ」

 指で廃旅館を指し示しながら、少女は言った。

 サタンは簡潔に、今の状況を説明する。

「この小僧は先ほど親に騙されて捨てられた。よって、今晩の寝床が存在せんのだ」

「す、捨てられたじゃと!?」

「ああ、だから右往左往していたところだ」

少女は、すぅすぅと寝息を立てている初三の顔をじーっと見つめ、決心したように踵を返した。

「ついてくるのじゃ、悪魔よ。わし―――七色夕那は七色家を引き継いだばかりの未熟者じゃが、寝床ていど提供できる甲斐性はあるぞ」

「……なぜ、助ける? この小僧には我輩がいるのだ。その気になれば我輩はここら一体の自然をマイハウスに変えることだって出来る。ゆえに、助けなどいらん」

「ならば、尚更お主達はわしの家に連れて行かねばならぬのう」

「なぜだ?」

 七色夕那は、着用している白い浴衣と腰まで伸びた夜色の髪をなびかせて、振り返った。

「そのお主がマイハウスにしようとしている、ここらの自然は全て、我輩の家―――七色寺の領地だからじゃ」








 七色寺の鳥居を潜り、境内から本殿へ入っていったサタン達は、とある一室に到着していた。

 一つだけ敷かれた布団には、いまだに目を覚ます気配がない夜来初三が静かに眠りの世界へ入っている。

「そういうことじゃったか……」

 寝ている初三を挟むように座布団の上へ座っている七色夕那とサタン。

 サタンが七色に現状までのあらすじを大まかに説明してやると、七色は外見に不釣り合いな真剣な表情で、初三の事情を理解した。

「弟を守る為に我が身を犠牲にするとは……兄の鏡そのものといったところじゃのう」

 と、初三の寝顔を眺めながら七色はぼやくように賞賛した。

 しかし、

「違う。この小僧が弟を守るということは悪そのものだ。勘違いをするな七色」

「……なぜ弟を守ることが『悪』になるかのは、儂にはよう分からんが」

 サタンの銀色の瞳を直視して、

「きっと『本物の悪』という悪を背負っている、悪の生き物の頂点に立つお主―――大悪魔サタンが悪と言うのだから、きっと弟を守るという行為は悪なのじゃろうな」

「我輩の背負っているものが『本物の悪』だということを知っているのか」

「当たり前じゃ。これでも儂は『悪人祓い』の一人前じゃ。チャラチャラとした茶髪の弟子もいる」

「まぁ、貴様に関する情報は特に興味がない。それより……」

「この夜来初三という男をどうするか、じゃろ?」

 サタンの考えを即座に察した七色は、初三を指差して告げた。

 静かに首肯するサタンは、頬を赤くすることもなく、当然のように愛しい彼の自慢話を始める。

「この小僧は、我輩が見た人間の中で、一番優しくて、一番強くて、一番格好よくて、一番我輩と同じ悪、『本物の悪』を背負っている人間だ。いや、人間なんてド汚い生物よりも美しく、清く、真面目で、光り輝いている正しい考えを持つ最高で最高な最高の我輩の旦那さんだ」

「だ、旦那さん!?」

「うむ。我輩はこの小僧と生きて共に死ぬ。つまり我輩は小僧の妻になる予定なのだ」

「そ、そこまで好きなのか? この夜来という男が」

「うむ、好きすぎてつらい。小僧ほど優しい者は、きっとこの先一生絶対完全に現れないだろう。我輩は一番近くで小僧のことを見てきたが……自分の弟を守る小僧の姿には、良く惚れ直してしまったよ。だから軽く弟に嫉妬した。殴り殺したくなるくらい嫉妬した」

 それはもう『軽く』嫉妬していない。

 盛大にもの凄く嫉妬している。

「……な、なる、ほど、のう」

 七色の中で、サタンという悪魔の神に対するイメージは一言で言えば『恐怖の象徴』だった。なので、目の前にいる『恐怖の象徴』からかけ離れている本物のサタンとイメージとのギャップが激しいので、目をほとんど点にして固まっているばかりだった。

 だが、すぐに本題へ戻り、

「して、お主は夜来初三をこれから先どうやって守っていく気じゃ?」

「小僧を守る為ならば、この世界をぶッッ殺すことすら躊躇わん」

 即答だ。

 即座に世界殺害宣言をした大悪魔サタンだった。

「……ならば、儂が面倒をみてやろう」

「なに?」

 七色は胸を張って腕を組み、

「丁度、儂の弟子は今外出中だし、儂は仏教を営む寺の娘じゃ。ならば、人を助けることなど当然のことじゃ。それに夜来は人間の世界で生きているのじゃから、同じ人間である儂のほうが、悪魔のお主よりも適任じゃと思うぞ?」

「……いいだろう」

 渋々といった風に首肯したサタンは、自分は初三の為に何も出来ないという現実の味を感じながら部屋を退出していった。






 翌日。

 完璧に意識を取り戻した初三を第一に出迎えたのは、サタンによる熱い抱擁だった。

「小僧!」

「むむっむむうううう!?」

 現在の状況すら正確に把握していない初三は、混乱した状態のままサタンの柔らかい胸に顔を埋められる。

 なんとか胸の中から顔を振り上げて脱出した初三は、

「ぷはっ!? だ、大体ここはどこだ!? 俺ァ一体―――」

「ここは儂が管理する寺じゃ」

 ふと出入り口に目をやってみると、そこには、

「七色夕那じゃ。これからお主の面倒をみる。よろしくじゃ」

 可愛らしい浴衣姿の少女、七色から自己紹介された初三だったが、『これから面倒みる』という言葉で親に捨てられたときのことを鮮明に思い出し、

「……あぁ」

 と、無理やり絞り出したような声を出した。

 さらに、

「そうか。ははは、そうだったな。俺ァ終三を……守れなかったンだな……」 

親に捨てられたことを悲しむのではなく、弟を守りきれなかったことを悔やんだ。

「だ、大丈夫か小僧。やはり、まだショックが抜けてないんじゃ……」

「いや、全然、大丈夫だ」

 明らかに大丈夫じゃない。

 生気なんて欠片も残っていない暗い瞳を細めて、無理やり口の端を釣り上げて笑っている姿は、誰がどう見ても大丈夫じゃない。大丈夫じゃなさすぎる。

「小僧……」

 かける言葉などなかった。

 何も言えなかった。

 それもそうだろう。

 なぜなら、初三がショックを受けている原因は『弟を守りきれなかった』という事実だ。

 弟を『守りきれなかった』ということは、もう、守りきれなかったという時点で改善する余地などない。過去形の言い方をしているのだから、もう終わっているのである。

 もう、やり直すことは出来ないのである。

 よって、何も言えない。

 何を言っても、すでに終わっているから無意味なのだから。

 なので、

「少し、外に出て風にあたってこい」

「……ああ」

 この程度の気遣いしか出来ないのが、サタン達の現状なのだ。

 ゆっくりと立ち上がり、寺の境内へ向かって歩いて行った初三の後ろ姿は、どこか小さく見えた。

 そんな彼の背中を見ていた七色は、

「よほど、重症なようじゃな……」

「ああ、そうみたいだ」

 拷問に耐えるように歯を食いしばって返答をしたサタン。

 七色は彼女に顔を向け変えて、

「とにかく、儂達で力を合わせていくしかない。そう苦しそうな顔をするな―――」

「これが苦しまずにいられるかァァあアアああアああああああアアアアアアアアアアああアあああアアあああアアアああああアアアアアアアあああアアああああああアアアアアアアアアアアアア!!」

 七色の言葉をかき消すような咆哮を放ったサタンは、自身の体から漆黒の魔力を流出させていた。

「なぜ、小僧があんな目に遭わねばならん? なぜ、小僧はあんなにも苦しまねばならんのだ? 小僧は、何一つ何もかも全て落ち度がないのに、なぜあんなにも苦しまねばならんのだ? おかしいだろう、ああおかしくておかしい!! 殺してやりたいくらいおかしいなぁオイ!!」

 突然、サタンの心情を表すような烈風が周囲に走った。

「っく、風が……!?」

 魔力の渦が出来上がっていくせいで起きた、台風のような暴風に体を持って行かされそうになる七色。彼女は足を床にくい込ませるように踏ん張って立つ。

「なぜ、小僧は苦しんでいる? あんな死んだような目になってしまうほど、なぜ苦しんでいるのだ? そうだそうだそうだ、最初から小僧を苦しめていた存在をぶッッ殺していれば良かったのか! あっハはっはハハはハハ!! ならば話は単純だァ、小僧を苦しめている小虫以下の存在―――この世界自体を殺してやればイイ」

 膨大な魔力は気づけば七色寺をあっという間に覆ってしまっていて、瓦や木々を吹き飛ばしている。

 このままでは、サタン本人が言った通り。

 世界が殺されてしまうだろう。 

「ッ!! っく!?」

 風の勢いが増したことで体が浮いてしまった七色は、近くにあった壁にしがみついて危機を防ぐ。

 しかし、いずれは時間の問題。その内、この黒い魔力は文字通り世界そのものを殺すまで広がっていくのだろう。

 もはや打つ手はないと見える。

 サタンに匹敵するほどの力を持つものは人間界にいないだろうし、サタンの世界そのものに対する憎しみは留まることを知らない。

 もう、世界は殺されるだけだ。

 と、考えていた七色の耳に突然、



「あっがァァっァあああああアアアあアああああアアアあああああアあアアああアアッ――――――――ッッッ!?!?」



 とある少年の絶叫が鳴り響いた。

 瞬間。

 サタンから溢れていた七色寺を包囲していたような魔力は霧散するに、バァン! と盛大な消失音を轟かせて消えて、

「小僧!!」

 我を取り戻したように、サタンは声のした方向へ走っていった。九死に一生を得た七色だったが、すぐにサタンの後ろを追って駆け出していく。

 そうしてたどり着いた七色寺の外、境内の中心には、頭を抱えてうずくまっている少年・夜来初三がいた。

「どうした!? 何があったのだ小僧!!」

 彼の背中をさすりながら、状況を理解しようと行動するサタンだったが、

 初三はただ涙を零して呻くだけで、何の情報も得られない。

「一体何があったのじゃ!?」

「分からん。しかし、これではまるで……」

 まるで、親に捨てられたときに暴ていたような状態だった。

「大丈夫だ! 大丈夫だ小僧!! 我輩だけは小僧を見捨てんぞ!!」

 そう叫ぶように言って、強引に初三を正面から抱きしめたサタン。

 そのとき、

「た―――が、怖―――」

 と、嗚咽混じりの初三の声から、何か聞こえた気がした。

 サタンはもう一度、耳を澄まして集中して聞き取ろとする。 

 すると……。



「太陽が、怖、い……ッッ!?!?」



 確かに、そう聞き取れた。

 だが、太陽が怖いとは一体どういうことなのだろう?

 心の中で首を傾げていたサタンだったが、

「ッ! そういう、ことか……!!」

 サタンは思い出した。

 ようやく、思い出した。

 あの日、実の両親から初三が捨てられたときのことを。

 よって、納得した。

 初三が太陽を怖がっている理由が分かったからだ。

 その理由とは、

(あの日、小僧が捨てられた日の天気は、この夏一番の猛暑だった……!!)

 つまり。

 特別日差しが強かった日に『弟を守れなくなった』というトラウマが、初三の中では出来上がっていたのだ。

 太陽の日を浴びることで、『親に捨てられて弟を守れなくなった猛暑の日』を思い出し、体調が悪くなってしまっているのだ。

「おい七色!! 今すぐ日傘を持ってこい!」

「な、なぜじゃ!?」

「いいからさっさと行動しろッ!!」

 脅すように怒鳴り飛ばしてやると、七色は急いで日傘を取りに走り出していった。

 傘が到着する間に、サタンは初三を日陰へと運んであお向けに寝かせてやる。

「持ってきたぞ!」

 丁度良いタイミングで直射日光を防げる道具が届いたので、それを初三の顔とひなたの間に壁代わりとしてセットする。

 しかし、

「くっ、やはりダメか」

 一向に体調が改善される様子はない。

 拳を握り締めたサタンは、意を決してとある作戦に移ることにした。

「……おい七色」

「な、なんじゃ? というか、まったく状況が呑み込めてないのじゃが……」

「それよりも貴様。一つだけ約束しろ」

 頭痛に苦しんで暴れている初三から七色へ視線を移し替えて、

「我輩の代わりに一時的に小僧の面倒をみろ」

「……わ、分かっている。それはもう約束しているじゃろうが」

「よし、ならばいい」

「な、なにをする気じゃ?」

 サタンの表情がどこか悲しげに見えたので、七色はそう尋ねた。

 すると、銀髪銀目の美少女の姿をしたサタンは、

「我輩はしばらく、小僧や貴様の前には現れないだろう」

 初三の胸へ手をそっと添えて、サタンは、

「だから、さらばだ」

 初三の体へ戻っていった。

 消えるように、霧が晴れていくように、その美しい姿を完全に完璧に消した。

 するとどうだろう。

 先ほどまで、死にそうになっているように苦しんでいた初三は、いつの間にか普段の表情へ、顔色へ、元通りになっていた。

 これが、夜来初三の過去の一部―――一ページ程度の出来事だ。

 何百ページもある文庫本の一ページ程度のお話。

 夜来初三の――悪人のお話だ。


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