洗脳
「離せ!! ダメなんだよ!! 俺はアイツから離れちまったらダメなんだ!!」
「なぜ?」
「っ!! ―――俺がアイツをずっと苦しめてきたからだ!! 俺が自分を自虐した分、アイツが苦しんだからだ!! だからけじめを取るためにも俺はアイツの傍から離れられねぇんだよ!!」
がっしりと掴まれた腕は固定されるように動かせなくなっていた。唯神天奈にここまでの握力があったとは知らず、内心夜来は仰天していた。
一方。
唯神天奈はベッドの上で泣き崩れている雪白千蘭をじっと見つめて、
「なるほど。彼女が君をどうやって『洗脳』したか分かった気がするよ」
ベッドの上で輝いている大量の―――紫外線ライト。さらには先ほど夜来が発言した『自虐』という言葉から完璧に今までの出来事を読み取った唯神は、怒りがこもったような溜め息を吐く。
「君、いい加減に目を覚まして。いつもの初三ならもっと『正しく』状況を理解できるはず」
「何言ってんだよ!! 俺は雪白のやつを傷つけてたんだ!! それも知らねぇ内に!! だったらそんなのは俺の『本物の悪』に反するクソッタレな悪行だ!! だから罪滅ぼしのためにも雪白の傍にずっといなきゃならねぇんだよ!! 離せ!! 雪白のところに行かねぇとダメなんだ!!」
「ほら、既にそこがおかしいことに気づいていない」
「あぁ!?」
ダメだ。
明らかにいつもの冷静さを夜来は完全に失っていた。
まるで―――雪白の傍にいなくてはならないと、脳そのものに刻み込まれたように取り乱している。
「どうして―――『自虐して雪白を傷つけた』から罪滅ぼしのために『雪白の傍にいなくてはならない』なんて、何の関係性もない罪滅ぼしの仕方をしなくてはならないの? もっと他に方法はあるはず。例えば、自虐した分は雪白のために動くだとか、自虐した分は雪白と一緒にいるとか。―――何で、自虐しただけで『ずっと』雪白の傍にいなくてはならないの? 自虐したから君は雪白に『一生』を捧げるようなものなんだよ? これはあまりにも―――理不尽でおかしくない? 一時の悪行に人生を捧げる行為はあまりにも罪滅ぼしし過ぎていない?」
「っ……!」
ようやく何かに気づいた夜来初三。
彼はバッと泣き崩れたままの雪白へ振り返った。
すると、あれだけ悲惨な顔をしていた雪白は真っ暗な瞳を向けてこちらを睨んできていた。その顔にはもう涙など一滴も流れ落ちていない。おそらく先ほどまでの涙は全て―――演技だったのだろう。
「あーあ―――本当に貴様は厄介な女だな。ようやく私色に染まった初三をそうやって汚しおって。……豚に等しい女だ」
「あなたは悪魔だね。初三の『本物の悪』っていう考え方と思考回路そのものを突いて、無理やり『雪白千蘭と一緒にいることが彼女を苦しめた罪滅ぼしになる』だなんて『洗脳』をかけるなんて。卑劣にもほどがある」
まさしく唯神天奈の言うとおりだった。
雪白千蘭はくっくっくと声を押し殺すようにして笑う。夜来初三にとって『大切な存在』である自分自身を利用して彼を監禁・拘束。さらには『洗脳』までもを成功させていた悪魔のような天才的頭脳を司っている雪白千蘭。
心底恐ろしい女だった。
ここまで完璧な精神を利用した監禁から絶対的なまでの洗脳を行った彼女は、恐ろしいとしか言いようがない。
だが。
「お、俺が、洗脳、だと……? 、な、なに意味わかンねぇこと言って―――」
「よく考えて。普段の君ならとっくに気づいてるはず。君が自分を自虐して雪白を傷つけたのは確かに悪いこと。でも―――たった『それだけ』で一生を捧げるほどの罪滅ぼしは必要ないよ。明らかにレベルが違う。自虐しただけの悪行に『一生』はあまりにも不釣り合いすぎる罪滅ぼしなはず」
頭を押さえて視線を泳がせ始めた夜来初三。
少しづつ、気づいている。
彼はきっと、少しづつ雪白の色に染められた洗脳を自力で解き始めているのだ。
だがしかし。
そこで黒い天使が夜来を出迎えるように両手を広げてこう言った。
「初三、さぁおいで。私の胸の中へおいで。ずっとずっとずっと―――もう二度と離したりしない。もう絶対に離さないから、永遠に私が抱きしめてやるから。さぁ! 早くおいで! じゃないと―――舌を噛みちぎってしまいそうだよ」
軽く舌を出して噛んだ雪白のその姿に夜来は思わず大声を上げた。
「ッ―――やめろ!!!!」
瞬間。
背筋に電撃が走り抜けた感覚に襲われた夜来初三は即座に雪白のもとへ飛び出そうとした。だが、それを唯神天奈が彼の腕をギュッと握り締めることで阻止する。
夜来は振り返ることもせずに雪白のもとへ向かおうとしながら、
「離せ!! 離せえええええええ!! 俺が洗脳されてようと何でもいい!! でもアイツを傷つけることだけはダメだ!! 見逃せねぇんだよ!! だからとっとと離せ!!」
「ダメ!! それも雪白の罠!! 本当に雪白が死ぬと思う!? 死んだら全部無くしてしまうんだよ!? ―――夜来初三っていう大好きな君と、あの雪白が死んで離れ離れになると思う!?」
「っ!」
ようやく振り返った夜来に唯神は続ける。
「いい? 雪白は絶対に死なない。なぜなら―――死んだら君と会えなくなるから。死んだら夜来初三と会えなくなるから。君を監禁するほど大好きな雪白が、そんな簡単に君と別れて死ぬわけ無い」
説得力に溢れる言葉だった。
確かに、と正常な思考さえも奪われていた夜来でさえ納得しかける正論だった。
雪白千蘭は自殺なんてしない。なぜなら、死んでしまえば夜来初三と離れ離れになってしまうから。大好きな彼と二度と会えなくなってしまうから。
その言葉に説得力が溢れる理由はきっと―――雪白千蘭がどれだけ夜来初三を好いているのか夜来初三自身が一番知っているからだろう。
一体。
今までに何度『愛している』と言われた? 何百と囁かれたその言葉から考慮しても、雪白千蘭は夜来初三のことを好きな証拠である。故にそう簡単に死んで彼と離れるわけがない。
一体。
今までに何度『ずっと一緒だ』と言われた? 何百と告げられたその言葉から見れば、雪白千蘭は夜来初三と一緒にいることを固く誓っていることが分かる。ならば彼女は自殺なんてして彼とそう易々と別れたりしないだろう。
ならば実に単純なことが事実で。
雪白千蘭は絶対に自殺なんてしないということだ。
もちろん確証はない。
だが。
可能性は充分高いことは確証していた。
「……本当に私の邪魔ばかりするメス豚だな」
倍増した雪白千蘭の殺気。
噴出した雪白千蘭の憎悪。
爆発した雪白千蘭の怒り。
それら全てを収束させたような視線が唯神天奈にぶつけられる。その恐ろしい程の威圧感に一歩後退した唯神天奈―――の愛おしい彼を未だに掴んだままである『手』を見て、雪白千蘭はこう告げた。
「まずは私の初三に触れたままの小汚い手を落とそうか」




