雪白を変えた原因
「ほら初三。あーん」
雪白千蘭は、食卓の椅子に腰掛けている少年の膝の上に着席した状態からそう言って、晩ご飯であるシチューをスプーンですくう。それを少年の口に運ぶ。
一方。
俯き、指一本動かすことがない少年は、生気のない虚ろな目をゆっくりと上昇させて迫って来ていたシチューの存在に気づく。
彼はゆっくりと口を開けて。
彼女の思い通りにそのシチューを食した。
雪白千蘭は自分の手料理を夜来初三が口に含み、胃に送り込んだ事実によって、頬を赤くしてうっとりとした笑みを開花させる。
さらには夜来の口元についているシチューの汚れを指で拭き取り、それを自分の口へ運んだ。
「ふむ、味は悪くない。お前は美味しかったか? 私の料理は」
小さく頷いた夜来。
その些細な反応一つで幸福感に包まれてしまった雪白千蘭は。
「ふふ、そうかそうか。それにしても――――――ああ何て幸せなんだ!!!! こうしてお前と共に一週間生活して改めて自覚してしまった。私は私が思っていた以上にお前のことが好きだったらしい。どうしようどうしようどうしよう―――こんな幸せすぎる生活を今の今まで送ってきていた唯神天奈と秋羽伊那を殺したくなってきてしまった!! だが、あの小娘に関してはいい、どうせ邪魔にすらならないだろうしな。だがあの唯神天奈だけは本当に憎いよ。こんなにも初三と触れ合ってられる楽園生活を天国生活を幸福生活をハッピーライフを満喫していたのだろう? ―――何様のつもりだあの女は!! 馬鹿にされれているとしか思えんぞ!! まぁ、それももういい。もういいんだよ初三。だってこれからは―――お前を見るのも触るのも聞くのも撫でるのも舐めるのも話すのも可愛がるのもキスするのも挨拶をするのも会話するのもずっとずっとずっと私だけなんだからな」
「……」
「なぁ初三。何があろうと、何が壁になろうと、何が待っていようと、何が邪魔しようと、私達はずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと『一緒にいる』のだよな? ―――そう『約束』したものな? 死んでも『ずっと一緒』だよな?」
「……あァ」
震えるような弱々しい声で肯定した夜来。彼は雪白に頭や体を撫でられながらも、それを拒まずに受け入れていた。
少年の返答に大満足したのか、雪白は彼の唇へ自分の唇を持っていこうとする。
距離が近くなっていく。
もう、この監禁生活の中で雪白千蘭と何度キスしたのかは夜来初三本人が一番覚えていない。ただ一線だけは超えてないという事実に密かに安心していただけだった。
しかし。
どうしても。
知らなくてはいけないことを知らなければならなかった。
夜来初三は目と鼻の先にまで迫って来ていた雪白に対して、虚ろな目を向けたまま、
「……一つだけ教えてくれ」
眼前にあった美しい少女の顔はピタリと停止する。
雪白は首を傾げて、
「なんだ?」
「どうして、どうして―――お前はこんなことをしちまったんだ? 理由があるはずなんだよ。何にだって理由っつーもんがある。笑うのは面白ェからだし、泣くのは悲しいからだし、キレんのはムカついたからだ。逆に、何もしてねぇのに爆弾が起爆するわけがねぇし、何もしてねぇのに笑ったり泣いたりキレたりはしねぇ。いや―――できねぇ。面白くもないコント見てて笑えねぇのと同じだ。だから、お前が『こんなこと』をするに至っちまった理由が―――何か、あるんだろ?」
「……」
「頼む。俺はどうしても、お前をそんなにしちまった『原因』が知りたい。お前が前から俺を盗撮してたりストーキングしてたっつーのは俺が『好きだったから』っていう『原因』がある。でもよぉ、俺を監禁しようと思ったのは、俺のことを好きだからなんて理由じゃねぇはずだ。もしもそうなら、お前はもっと早く行動を起こしてただろうが。だから教えてくれ―――『こんなこと』したまでの『原因』ってなぁ、何なんだ?」
彼の目には生気がない。いつもの力強ささえ言葉にはこもっていなかった。まるで死にかけの病人のように何もかもが弱々しい。
すると。
黙り込んでいた雪白千蘭は、夜来の膝の上へさも当然のように対面式で座リ直す。
「……ゆっくりと話してやろう―――原因というやつを。私が想うこの気持ちの強さを」
少女を愛に狂わせた原因。
それは少し前に遡ることとなる。
インターホンの前で呼吸を落ち着けている少女。正体は天山高等学校の制服に身を包んでいる雪白千蘭だった。彼女はとある少年を迎えにこのマンションへ立ち寄ったのだが、どうしても中々インターホンを押すことができない。
理由は実に初々しいものだ。
その少年とは雪白千蘭が恋をしている『好きな相手』だったから。
故に彼女は恥ずかしさと緊張の影響から、そうやすやすと決心を固めることができない。
(だ、大丈夫……ただ、ただ、ただ単純に私は夜来と通学しようと思ってるからで、アイツはすぐに学校をサボろうとするから、私が多少強引に連行しなくてはならない! うん、それだけの……はずだ)
彼女は携帯電話を開く。すると待受に設定していたあの少年の横顔が映っていた。相変わらず不機嫌そうな顔をしていて、思わず苦笑してしまう雪白。
笑ったことで少しリラックスできたのか、
「よ、よし」
ようやくインターホンを押せていた。
遅れて甲高い呼び出し音が鳴り響いた。が、携帯の中に映る彼の姿を眺めて耐性をつけた雪白にとっては、それだけのことで緊張することはありえなかった。
しかしすぐに少年は出てこなかった。
雪白は少し首を捻って、
(遅いな。もしや今日もまだ寝ているのか? まったく、相変わらずアイツは私がいなければ何もできないんだから……ふふ)
そこで。
思わず微笑んだ雪白の耳にとある子供の声が叩き込まれた。
そう、夜来初三の住まう、雪白がインターホンを押した対象である彼の部屋から。
「お兄ちゃんだ! 怖いお兄ちゃんだ! ねぇねぇ、今日も寝癖直して!」
(―――っ!? だ、誰だ今の声は!?)
気づけば雪白千蘭は早朝だというのに大声を上げてしまっていた。
自分でも無意識のうちに、だ。
「夜来!? 誰だ今の声は!! 誰かお前以外にいるのか!?」
無我夢中だった。
自分以外の女があの少年のもとにいるという事態に、事実に、状況に雪白はとてつもない恐怖を感じていた。自分の知らない間に、あの少年が取られてしまったのではないかという恐怖としても認識可能な大波に彼女の心は飲み込まれていた。
しばらくすると少年がドアを開けて自分を招き入れてくれた。
が、しかし。
そこまでは良かったのだが。
彼の後ろをついて行ってリビングに足をつけてみると、
「ああ、雪白さん。こんにちは」
一人の、見覚えのある少女がさも当然の様に『そこ』にいた。あの少年の住む家のリビングに―――当然のように椅子に腰掛けていたのだ。
(な、なんで、こいつが……。い、意味がわからない! なんで夜来の家にこんな朝から―――)
混乱が増していく雪白千蘭。
さらに視線を移してみれば、かつて自分を襲った幼い幼女さえもニッコリと笑っていた。まるで『客を自分たちの家へ歓迎する』ように微笑んでいた。
少女と幼女にはどちらも面識がある。
しかし。
彼女達がなぜこのマンション―――あの少年の家に『住んでいる』のかが理解できなかった。その事実を事実として受け止めきれなかった。
(な、何で、何で!? 何で、こいつらは、こんなにもあっさりと夜来の家へ住めて……私は置き去りにされているような……)
あんまりだった。
自分の好きな相手の家に『あっさり』と彼女達は住まうようになっていたのだ。さらには『家族』などという固い絆の証のような言葉さえ共通していたのだ。
雪白千蘭とは違い、彼女達は簡単にあの少年と『家族』という親密な関係になっていた。
雪白千蘭のように、コツコツと少年との距離を縮めようとする努力もせずに『同棲』していた。
しかも―――その絆を少年も受け入れて。
どうしようもない怒りが湧いた。
どうしようもない嫉妬心が咲いた。
どうしようもなく―――羨ましかった。
(だ、大丈夫だ。まだ、まだ、別に夜来を取られたわけじゃない。それに、私の方が夜来のことを……)
雪白は己の全身を埋め尽くす『好きな人を「あっさりと」取られそうになっている不安』を抱きながらも学校へと向かっていった。




