自虐の結果
「さぁて夜来。一緒に風呂へ入ろうか」
「……」
何も返答を返さない夜来。
天蓋付きベッドから身を起こされた夜来は、雪白を睨みつけるわけでもなく、反論するわけでもなく、ただ黙り込んでいた。
まるでそれが唯一の抵抗のように。
「なぜ何も言ってくれない? 何でだ? 何か気に食わないところがあったのか? どこだ? もちろん私も一緒に入るぞ? 一体どこが不服なんだ?」
「……そこが不服なんだよ、アホ」
混浴するという部分に対して、夜来はそう言い放った。すると雪白は何も言い返してこなかった。まるで人形のように固まって、動かなくなって、呼吸をしているのかどうか疑うほど静かになる。
しかし彼女はようやくその腕をポケットに入れて、一本のカッターナイフを取り出した。
「っ!?」
何をするか即座に理解した夜来。
しかし時すでに遅しだったようで、気づけば雪白千蘭は、その美しく綺麗な白い左腕にカッターナイフを容赦なく振るった。遅れて赤い線が大きく走る。次に血が滲み、最後にはドロリと真っ赤な液体が傷口から溢れ出した。
夜来は飛ぶように彼女の腕を取ろうとしたが、彼女は一歩後退することでそれを回避し、優しげな微笑みを浮かべながら―――ザクザクとカッターナイフで左腕を斬りつけ始めた。
血が飛び散って、肉が切れる独特の気持ち悪い音だけが空間を支配する。ガシュ!! グチュ!! などの、明らかに切っているというよりも刺している音が反響した。
「オイやめろ!! 何やってんだバカがッ!!」
刃を振るう彼女の右腕を掴み、腹の底から大声を上げた夜来。
対して雪白千蘭はニッコリと笑って、
「だって、片腕が使えなくなったらお前が私の体を洗ってくれるだろう。だから左腕をぐちゃぐちゃの肉の塊にして、一生お前と風呂に入ろうと思った」
ここまでくれば、痛覚があるのかどうか本気で疑い始める。
例え呪いの力によって回復力が高かろうとも、痛いものは痛いはずだ。いかに骨折しようといかに腕を切り刻もうと、激痛が比例して起こるはず。
なのに。
それなのに。
その激痛を越えた先に、夜来初三との触れ合いがあるのならば、雪白千蘭は痛みに耐える。むしろ嬉々として受け入れる。笑いながら皮膚を剥いで、幸福感で身を悶えさせるのだろう。
一方。
雪白千蘭が持つカッターナイフ。その凶器が握られた腕をつかみ続けていた夜来は顔を俯かせていた。さらに、やがてはプルプルと肩を震わせ始めて、思い切り奥歯を噛み締めた。
「?」
思わず、怪訝そうな顔をした雪白。
そして彼女が声をかけようとした、その瞬間のことだった。夜来初三の真下にある床へ水滴が落ちた。ぽたりぽたりと落下していく透明な液体を視界に収めた雪白は、目を丸くして驚愕した。
なぜなら。
あの夜来初三が、涙を流していたのだから。
「大丈夫か!? どこか痛いのか!?」
すぐさま夜来の体を抱きしめて、本当の原因にまったく気づく様子のない雪白千蘭。とにかく背中をさすってやる。原因なんてものよりも、今はただ、愛しい彼の涙を止めることを優先したかった。
対して。
夜来初三は、唸るように抱きしめられている状況の中でこう口にした。
「頼む、から……!! もうやめてくれ……!! もう、そうやってお前を傷つけないでくれ!!」
雪白の腕から流れ落ちる血。それを視界の端に捉えた夜来は、さらに震える声で言い放つ。
「頼む…っ!! 頼むから、土下座でも何でもするから……!! もう、お前がお前を傷つけるのだけはやめてくれ。そればっかしは耐えられねぇんだよ!!」
自分でも、なぜここまで悲しいのかは分からなかった。なぜここまで、彼女が彼女自身を傷つける行為に心を痛めるのかまったく理解できなかった。心臓が冷えるのだ。ただただ、雪白千蘭の白い体に鉄臭い血が付着するだけで、胸の内が一気に寒くなる。
でも。
原因はわからなくとも。どうしても、彼女だけは傷ついて欲しくなかった。故に、我慢しきれず涙まで流してしまった夜来。
だが。
「お前がそれを私に言える資格はないだろう」
罵倒ではない、まるで苦笑するように言った雪白千蘭。
彼女は赤く染まった自分の腕を見ながら、
「まず第一にやめるわけがない。こうすれば、こうやって自分を傷つければ、お前を私のモノにできるのだからやめるはずがない。これほどまでに強力な武器などないだろう。手放すものか」
さらに彼女は泣いている彼の背中をさすって、
「そして二つ目に、お前がそれを言えるのか? いつだって自分をクズだの悪だのと自分自身を傷つけているお前に、『自分で自分を傷つけるな』だなんてことを言える資格があるのか? ―――私はいつだって何回も言ったはずだ。『自分で自分を傷つけるな』と。なのに、それなのに、お前は自虐を直さなかった! だというのに、お前は私に言うのか? お前は私に命令できる立場にあるのか?」
びくりと夜来の肩が跳ね上がった。
ようやく気づいたのだ。
ようやく察したのだ。
いかに自分が雪白千蘭を苦しめていたかということに。
「苦しいだろう? 痛いだろう? 悲しいだろう? 私が私を傷つける様子を見てはいられないだろう。―――私もそうだった。私も今のお前と同じだったんだ。お前がいつも自分を悪だのクズだの悪党だのと評価して満足している様子を見て―――そうやって苦しんできたんだ……!! やめてくれ。お前はそんな人間じゃない。もうやめてくれ。何度そう心で叫んできたことか。なのにお前は自分を変えなかっただろう。ならば私だって自分を変えない。これから先も自分を傷つけ続けてやろう。少なくとも、お前が自分を自虐してきた分と同等までには」
どうしようもない罪悪感が湧いた。
夜来初三は、今まで自分を『悪』と肯定して生きてきたからこそ、何とか生きてこられた。それは今でも同じだ。現在進行形で、その邪悪な意思と決意は変わらない。いや、変えられないほどに定着している。
しかし。
その方法が。
現在、夜来初三を襲っている心の痛み。心臓を握りつぶされるような感覚、どうしようもない悲しみが頭の中で爆発するように膨れ上がる激痛に、雪白千蘭を遭わせていたのか。
自分を悪党だと肯定した分、雪白千蘭は苦しんだ。
自分をクズだと評価した分、雪白千蘭は傷ついた。
待て、傷ついただと? ふと夜来の頭に疑問が生まれた。絶対にスルーしてはいけない大きな疑問が、風船が膨らむように脳の中で広がっていく。
それは実に単純で。
(俺は雪白を傷つけたくなかった。傷つけさせないつもりだった。だが、俺が自分を悪って認めるたびに、宣言する度に、雪白は傷ついてきたっていうのか!?)
クソ野郎だった。
夜来初三は今改めて自分をそう評価した。その評価すらも自虐に入るのかもしれないが、どうしても自分をクソ野郎としか認識できなかった。本気で、自分自身に殺意が湧いた。
(お、俺は一体、今まで何回自分を『悪』だと言った!? 何回自分を悪人だと悪党だと評価した!? だ、だめだ、そんなの『思い出せないくらい』にある!! ってことは、その『思い出せないくらい』の量と同等の苦しみを俺は雪白に与えていたっていうのか!? 今まで!? ずっと!?」
なんだ、コイツは。
夜来初三というのはどこまでのクソだったんだ? 一体、どこまで人を傷つけ続ければ夜来初三というクソ野郎は満足するんだ? このクソよりも価値のないクズは、昔も今も結局は人を傷つけていたということに過ぎないということなのか?
(は、はははははははッ!! な、なんだよそりゃ!! 最終的には、俺が一番多く雪白を傷つけてきたんじゃねぇかよ!!)
涙が溢れる。
顔を歪めて、嗚咽混じりの声が漏れる。それぐらいの威力だった。突きつけられた事実は、あまりにも、夜来初三の心を壊す大量の爆薬を秘めていた。
「ご、ごめん……!! ほんとに、ごめ、ん……!! もう、もう、何でもするからっ……!! 本当に、ご、ごめ……!!」
「ああ、許さん。私がどれだけ悲しんだと思う? どれだけお前に、傷つけられたと思う?」
「――――――――――――ッッっッっ!?!?」
次の瞬間。
夜来初三の空間を震わせる絶叫と涙が勢いよく噴火した。
壊れたように泣き叫び、結局は自分が一番『大切な存在』である雪白千蘭を、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと傷つけ続けていたことを自覚した夜来初三。
彼の精神は、たった今本当の意味で崩壊したかもしれない。バラバラに砕け散って、廃人と化すかもしれない。
しかし。
彼女は崩れ落ちていった彼を抱きしめながら、こう言った。
「安心しろ。それでも私はお前が大好きだ。大好きなんだ。どうしようもないくらい愛しているんだ。だから、今まで私を傷つけた分、せめて『永遠』に一緒にいてくれるか?」
自分が彼女を傷つけてきた悪行の数々。
その罪滅ぼしに少しでもなるならば、きっと少年は彼女の傍に居続けるのだろう。それこそ、自分が犯した『本物の悪』からかけ離れるような、『傷つける必要のない相手を傷つけた行為』をしてしまったのだから。
雪白千蘭を無意識に傷つけていた。
これは『本物の悪』なわけがない。間違いにもほどがある『間違った悪』だ。知らない間に彼女を苦しめていたというのに、その悪行を『悪だと自覚していない』今の自分に、夜来初三はどうしようもない殺意のみを抱いていた。
これでは、クラスメイトをいじめて楽しむ『ちっぽけな悪』と変わりないではないか。これでは、特徴的な人に後ろ指をさして嘲笑う『間違った悪』と大差ないではないか。
雪白千蘭を傷つけていたことを自覚せずに、今の今まで彼女を苦しめて罪悪感など微塵も抱くことがなかった夜来初三。
実に『本物の悪』からかけ離れている。
実に『間違った悪』に当てはまっている。
故に償いをしなければなるまい。彼女を傷つけてきた分の罪滅ぼしをして、もう一度やり直さなくてはならない。きちんと頭を下げなければならない。
そのためならば。
ただ雪白千蘭の傍で生きていくことなど、容易いことではないのだろうか?
激しい嗚咽を繰り返しながら、夜来はひたすら謝り続ける。
自分の犯した最低最悪な卑劣の行為を。
「一緒―――い、る!! ずっと、一緒―――いる、か、ら―――ごめ、ん……っ!!」
「そうか。一緒にいてくれるか。ありがとう。これでお互いに納得できたな。ずっとずっとずっとずっと私と一緒にいるべき理由がはっきりしただろう? これで迷うことはない。私と一緒に幸せになろう」
甘く囁きかけてくる雪白千蘭の綺麗な声。優しく抱きしめてくる彼女の白い腕。それら全てに抗うことは、もう夜来に許されなくなった。
なぜなら、彼は雪白千蘭を今の今まで傷つけてきたのだから。
「さてと。では風呂へ行こうか初三。安心しろ。一線はまだ超えないつもりだ。きちんと、お前が私を求めてくる日を待つのも一興だとも思うからな。だけど、お前は私のモノに変わりはない」
コクコクと泣きながら頷いた夜来。
納得したのだ。彼女のモノになることを、彼はようやく納得したのだ。
最後に雪白千蘭は、夜来をそっと抱きしめて、
「さあ、これからはたっぷりと愛し合おうか」
少年はやはり悪だった。
悪だと思っていた少女は少年の被害者だった。
さて。
ここで判決を取ったとしたら、一体どちらが悪なのだろうか。
少女を傷つけていた少年か?
少年を監禁している少女か?
善と悪という問題ではない。
どちらが悪なのかが重要な事実だろう。
今回は夜来くんの精神崩壊に近い現象が起きましたね。←書いた私が何を言いているんだろう
しかしこういった『どっちが悪いか分からない』などの、心理的な部分がこの作品の醍醐味であると思います。
雪白の心の痛みを味わった夜来は己の過ちに気づき、泣き叫んでボロボロになる。個人的にはかなり心理描写が多めになってしまいました。




