狂いの始まり
「もう一度言ってみろコラ」
「我輩とも寝ろと言っている」
夜来初三の自室からもめ合う声が響いてきた。正体は夜来に添い寝したいがために我がままを押し通す大悪魔サタンである。彼女は納得がいかないと言わんばかりに頬を膨らませて、夜来の傍らから離れることのない少女を指差す。
それが示す先には、案の定、雪白千蘭がいた。
「―――だが、そやつは一緒に眠る気なのだろう? 許せん。殺したくなるほど許せん」
「……仕方ねぇだろ。あんなクソ面倒なことが遭ったばかりなんだ。俺と寝るだけで安らぐってんなら安い買い物だ」
雪白は普段の強気な態度がないどころか、表情さえも虚ろで悲惨だった。
つまり『男』の恐怖が抜けきっていない証拠だ。
夜来はサタンの首根っこをつかみあげて部屋の外に追い出すと、ドアを閉める直前にきちんと謝罪の言葉を口にした。
「悪ぃ。後で美味いもん食わせてやっから我慢してくれ。今日は朝になる寸前までは唯神の部屋使って寝ててくれ」
「む。……じゃあ、マックに行ってみたい。小僧と一緒に」
彼女にしては随分と可愛いお願いで、思わず苦笑しそうになった。
夜来は小さく頷き、
「いくらでも行ってやるよファーストフード店なんざ。だから、今回は許せ。堪忍してくれ」
「……ことはおこすなよ?」
「おこさねぇよ」
「……ならばいい」
ふてくされるように、そっぽを向いたサタンに溜め息を吐いた夜来は、ひとまず了承を得たことに確かな安心感を感じていた。扉を閉めた彼は、いつの間にか自分のベッドに潜り込んでいる雪白千蘭のもとまで近寄っていき、頭から布団を被っている彼女に声をかけた。
薄暗い部屋の中で会話だけが響く。
「おい。大丈夫なのか? 本当に俺なんかと寝て」
「……お前以上に信頼している者は女も男も含めていない。一緒に寝てくれ。それだけで私は安心できる」
夜来は何も返答を返さなかったが、特に迷うことなく彼女の隣へ入っていった。布団の半分の面積とベッドの半分のスペースしか使えないわけだが、そのことに対して文句を言うほど彼は心が狭くはない。元々シングル用のベッドなので、雪白とはすぐに背中同士がぶつかり合ってしまう。
だから、
(……もちっと離れるか)
雪白から少し離れてスペースを空けてやろうという、彼なりの気遣いだったのだが、どうやらそれは逆効果だったらしく、
「どこに行く気だ」
がしっと背中を抱きしめられたと同時に響いた声。
足に絡んでくる美しい太もも。
正体が彼女だと知っている夜来は、心配性なのか単純に一人ではいられないのか分からない雪白に振り向かず、返答を返す。
「……どこにも行かねぇよ」
「ならばなぜ私から離れた」
「お前が窮屈だろうと思ったからだ。俺なりの配慮だよアホ」
「そうか。なら―――」
ぐいっと、ほとんど無理やり夜来の体を自分と対面式にさせた雪白千蘭は、彼の体を正面から抱きしめて、囁くように頬を赤らめて言った。
「私と密着して寝ればいいだろう。スペースを開けずに抱き枕がわりにすればいい」
「……て、テメェ」
さすがに少し動揺の声を漏らした夜来。
その反応が楽しいのか、雪白はさらに足を絡ませてきた。
「こりゃどっちかって言えばテメェが俺を抱き枕にしてんだろうが」
「ふふっ。ならそれでいいだろう。大人しく抱き枕になれ」
ようやく普段通りに笑った雪白千蘭。
ようやく笑顔を取り戻した雪白千蘭。
その事実を理解しただけで、夜来初三は彼女に抗う気などなかった。抱きしめられていようと、何をされていようと、彼女がまた笑ってくれただけで言いようのない幸福感を感じていた。
これ以上は何もいらない。そう思えた。
良かった、と呟いた夜来。
無意識による発言だった。
しかし彼女は聞き逃していなかったようで、
「なにが良かったんだ?」
「な、何でもねぇよさっさと寝ろ!」
ややドスの効いた声で脅すように言い放つ。
しかし雪白は臆することなく、
「私は気になったことは解明しなければ寝られない体質なんだ。だから教えてくれ―――何が、良かったんだ?」
「……知るか。つーかテメェにも聞いときたいことがある」
「なんだ?」
「お前、俺とは一緒で大丈夫なのかよ。今のお前じゃ、例え俺でもちったぁビビるんじゃねぇのか―――」
「大丈夫だ。絶対に大丈夫だ。それどころか安心感に包まれる。問題など微塵も無い」
即答以上に即答らしい返答だった。
一瞬で彼の不安をかき消してやった。
雪白は続けて、
「お前は少し自分という存在を理解しきれていなようだから教えてやるが、少なくともお前は私が一番信頼している存在だ。だから私を気遣って離れるな。傍にいてくれ。それだけで私はこうして立ち上がれる。わかったな?」
「……分かったよ」
沈黙した彼は小さく呟く。
反抗期の子供のような態度を取った夜来に対して、雪白は満足そうに頷いた。そうして彼の胸へ頬を当てながら、猛烈な安心感に包まれて静かに微笑む。
睡魔に襲われていった夜来初三は何も言葉を返さない。
次第に彼女の温かい体温が影響したのか、眠気にいつの間にか完敗してしまい、静かな寝息を立ててしまっている。
そう。
もしもここで、彼が眠りにつくことなく瞼を開けていれば未来は変わったかもしれない。もしかしたら、あんな事件に発展しなかったかもしれない。
彼は気づかずに眠り続ける。
ドアの隙間からこちらを覗いている銀色の悪魔に気づかずに。
彼女の瞳はドス黒い『闇』で構成されていたような―――恐ろしい目だった。
「小僧……」
ドン!!
その物音が倒れるような音によって目を覚ました秋羽伊那。
彼女は寝ぼけた頭とぼやけた視界の中で、近くにあった目覚まし時計を発見する。時刻を確認してみれば現在は午前四時という太陽も登っていない深夜だった。
「……うるさいなぁ。お隣の人?」
クレームを付けるように呟き、再びベッドの中へ潜り込む。
しかし。
今度こそ飛び起きなくてはならない事態が発生した。
「やめて!! それ以上はダメ!!」
唯神天奈の必死の叫び声が響いてきた。反響するようにその言葉は秋羽伊那の頭にしっかりと植えつけられる。
「お姉、ちゃん?」
やや呆然とした顔でぼやいた。
しかし次々と響き渡る彼女の大声や物音にただ事ではない事態が起きていると確信した秋羽伊那は、ベッドから飛び出して騒がしい現場である部屋へ走っていった。
何かまずいことが起きている気がする。
それも泥棒や強盗などの日常的な脅威とは違った異質な脅威が。
「お姉ちゃん!? どうしたの!?」
音が響いてきたのは夜来初三の部屋からだ。
秋羽はその目的地に辿り着いた瞬間と同時にドアノブに手をかけた。
さらに壊す勢いで開け放ったドアの先には、
雪白千蘭の首を締め上げている大悪魔サタンとそれを止めようとしている唯神天奈の姿があった。
薄暗い部屋の中で起きている異様な光景。
殺意の色も塗りたくられているサタンの瞳。
間違いなく、雪白千蘭を『敵』と認識している証拠であった。
「貴様だけは許さん。先ほど決めたが、場合によっては殺そうと思う」
無情な声で言い放ったサタン。
対して呼吸を止められている雪白は必死に声を搾り出し、
「ふ、ざけ……るな……!!」
「ふざけているのは貴様だろうが!! 我輩の小僧と、我輩の小僧とおおおおお!! なんてことをしてるのだ小虫風情が!! 死んで償え!! 死んで死んで死んで死んで償えエエエエエエエエエエエエエエエ!!」
今度こそ激昂したサタンは、雪白の体を床に叩きつける。ドン!! と、近所迷惑どころの騒ぎではないレベルの轟音が炸裂した。
なぜ雪白千蘭が呪いの力を使わないのか疑問に思ったが、よく考えてみればサタンに触られている時点で呪いの力なんてものは単純に壊されるだけだった。その目に見える結果を熟知していたからこそ、彼女は何の抵抗もしなかったのだろう。
サタンは雪白の腹を容赦なく蹴り飛ばした。五回、十回、二十回、と、あまりにもやり過ぎなレベルのストンピングや純粋な蹴りが無慈悲にも叩き込まれていく。
気色の悪い、肉の叩かれる音だけが空間を支配していく。
―――殺す。
その意思をサタンの様子からはっきりと感じ取ることが出来た。
その一方的な虐殺を必死に止めようとしている唯神天奈だが、彼女程度ではサタンの足元にも及ばないのは一目瞭然。混乱しかない秋羽伊那だったが、そこでふと見当たらない少年の姿を探してみた。
と、そんな秋羽の心情を読み取ったのか、
「小僧ならばベッドで気を失ってもらっている。我輩の小僧は素晴らしいからな。こういうクソ女にまで手を差し伸べようとする心がある。それは実に我輩からしても誇らしいことだが現状にはいらんものだ」
暗闇から出てきたサタンが引っ張ってきたものは美しい白髪の長い髪。その先に繋がっているのはボロボロになっている雪白千蘭だ。もはやピクリとも動かない彼女は一瞬死体のように思えてしまったが、時折動く指先や上下する胸からして、生きていることだけはよくわかった。
そんな雪白をサタンは無造作に投げ捨てる。
「ふん。安心しろ。その小虫は生かしている。何より、小僧は美しく心が広い我輩の誇りで旦那様だからな。そこのクソ女が死ねば小僧が悲しむだろう。だから生かしておいてやる」
「な、なんで、こんな……」
「その女が我輩の小僧に手を出したからだ。それ以上でも以下でもない。男を怖がっていたとはいえ、さすがにあれは我慢の限界だった。我輩は寛大だが小僧に関しては短気なのだよ。―――ってもう時間か」
気づいたように窓へ視線を向けるサタン。どうやら既に朝日が昇っている時間帯らしい。ならば彼女は夜来の中へ戻らなければならない。。
サタンはベッドで眠る夜来のもとへ踵を返すと。
最後に、
「言っておくが―――そのクソ女を我輩は許さん。我輩は小僧以外はどうでもいいからな」
夜来の体へ消えていった彼女からは―――明らかに今までのサタンとはレベルが違いすぎる激怒の様子。
圧倒的なまでの怒りと殺意。
その二つのみが彼女の行動源として働いているようにも見えた。
「あ、天奈お姉ちゃん、一体なにがあったの? 何でサタンちゃんはあんなに怒ってるの?」
「……分からない。私も物音に気づいて駆けつけてみればこの有様。事情は分からない。でも、サタンはやりすぎ。これは事実」
「そ、そうだよね―――って、大丈夫お姉ちゃん!? すぐに手当するからね!!」
雪白千蘭は『清姫の呪い』を宿している。故に自然治癒能力は非常に高いのだが、やはり応急処置は今すぐ行わなくてはならない、と慌てるレベルにまでボコボコにされていた。
彼女をリビングにまで運んだ唯神と秋羽は傷が癒えるまで傍で見守っていたが、やはり呪いの力は凄まじい。一時間程度で雪白の傷は綺麗に感知していた。
目を覚ました雪白千蘭は特に何もいうことがなかった。
しかし。
その目には。
明確な敵意を宿した色が混じっていた。




