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宿泊

「怖いお兄ちゃん遅いなぁ~」

 マンションの前で小石を蹴りながら呟いたのは小学生の女の子。コロコロと転がっていった石をまた軽く蹴り飛ばした彼女は唇を尖らせる。

 理由は夜来初三の帰宅が遅いから。

 故に不満たっぷりの彼女は家に入ることさえできず、一人寂しく石遊びをしているのだ。さすがに放置されっぱなしという状況に嫌気がさしたのか、

「早く帰ってきてね、って言ったのに……怖いお兄ちゃんのバーカ、アーホ、DV? 星人めっ。もう翔縁お兄ちゃんとこに家出してやるんだから!!」

 毒を吐くことで気を紛らわす。

 しかし、どうやらバッチリと毒を吐いた対象者には聞こえていたようで、

「誰がDV星人なんだよクソガキが」

 気づけば、背後には日傘をさした目つきの悪い少年が立っていた。恐ろしい程の威圧感があるオーラにバッと振り向いた秋羽伊那は、途端にぱあっと嬉しそうな表情を咲かせた。

 が、しかし。

「あ! お兄ちゃん帰ってきて―――」

 何やらシュールな光景が目に映った。

 振り向いた先には夜来初三と唯神天奈の二人がいるにはいたのだが、どうしても別の存在に視線が移動してしまう。それは夜来の腕にがっしりと、すがりつくような必死さで密着している白い少女のことだ。

 彼女のことは秋羽伊那もよく知っている。というか今朝には既に関わっているし、過去に迷惑もかけたことがある。

 つまり、雪白千蘭だ。

「ど、どうしたの? 綺麗なお姉ちゃん」

 ひざまで伸びた長い神秘的な白髪を片ポニーテールにしていて、美しいルビーのような赤い瞳。女性ならば誰もが憧れて男性ならば誰もが興奮するだろう完璧で完全な体。美少女以外に説明のしようがない容姿。どこか強気な、武士や男のような喋り方と口調は、迂闊に近寄れない雰囲気を漂わせていて高嶺の花だという事実が倍増するよう。基本は生真面目で頭も非常にいい。

 ―――それが普段の彼女だった。

 それらこそが彼女を構成するパーツだった。

 しかし今の雪白千蘭は『普段の雪白千蘭』とはまったくの別人の様だった。

 見た目はさして変わっていない。しかし内側があまりにも痛々しかった。捨てられた子犬のように震えている肩と膝。今にも崩れ落ちてしまうようなもろさがある。夜来初三という『安全地帯』にすがりついているような格好で腕を組んでいて―――見るに耐えられなかった。

 夜来初三は己の体から一向に離れる様子がない雪白を再確認して、

「……泊まってくか?」

 現在の弱々しい彼女を一人にすることは出来なかった。幸いにも夜来のマンションには夜来以外には唯神天奈と秋羽伊那という『女』しかいないので、雪白にとっても安息の地になるはず。

 とにかく。

 この恐怖の渦から脱出していない雪白千蘭を一人には出来なかった。

 夜来の提案に対して、雪白はきゅっと彼の腕に一層強く抱きついた。

 これは肯定の合図なのだろう。 

「んじゃ決定だ。さっさと行くぞ」

「……仕方ない。これは私も了承する」

 今朝と同様に状況がまったく分かっていない秋羽伊那は首を傾げていた。





 それからというものの。

 雪白千蘭は夜来初三からまったく離れる様子がなかった。

 彼が自室に行けばぴったりと腕を組んで着いていくし、彼がトイレに行こうとすれば中にまで入ってきそうになるし、彼がリビングの白ソファの上に座れば当然のように隣へ座る。

 唯神天奈も事情を知った秋羽伊那も、白ソファに座っている夜来に文字通りべったりである雪白の様子を見て言葉を交わしあっていた。

「男の人に殺されそうになって、男性恐怖症が極限まで発症してるってことでいいのかな? あ、でもそれじゃ何で怖いお兄ちゃんだけは大丈夫なんだろ」

「それは元々らしいよ。初三だけは男性恐怖症や男嫌いの対象外らしい。というか、彼以上に信頼している相手はいないみたい。つまり初三の傍だけが彼女に『安息』という感情を生み出させられるんだよ、きっと」 

「むむ、それじゃ私が行っても無視されたりするのかな……」

「おそらく無意味」

「ガーン!!」

 雪白千蘭の精神状態は良い方向に進んでいるようには見られなかった。

 しかし悪い方向に進んでいるわけでもない。きっと、夜来の傍にいることで『停滞』しているという表現が適切になるだろう状態だ。

 今、雪白千蘭から夜来初三という『信頼できる唯一の場所』を奪い取ってしまえば、間違いなく彼女は泣き狂い体調を悪化させていくことだろう。言わば、麻薬常習犯から麻薬を奪い取った結果、禁断症状がでるようなものに近い。

 彼女の傍には夜来初三がいなくてはならない。

 少なくとも今は。

「それにしても……怖いお兄ちゃん、嫌がる素振りも密着されて喜ぶような顔もしないね。なんでだろ?」

「初三はそういう人間。美少女に密着されても、少なくとも顔に喜びは出さない人。尚更、今の状況じゃあ喜べるものも喜べないんだよ。きっと彼も心を痛めてる。少なくとも雪白さんの次くらいには」

 その通りだ。

 彼は雪白千蘭に傷を負わせない覚悟を抱いている。だというのに彼女を傷つけられてしまった。彼女をバスジャック犯という『男』に触らせてしまった。

 だからこそ。

 白ソファの上に座っている、いつもの不機嫌顔を維持したままの夜来初三は。

 ぎりっ! と密かに奥歯を噛み締めて自分に激怒していた。

(……クソが! クソがクソがクソがクソがクソがクソったれが!! 俺ァどうして雪白をあのクソに触らせちまった!? どうして人質にされちまった!? ―――何やってんだよ夜来初三クソヤロウ!! テメェはどうしてそうトロトロトロトロ行動すんだよ!! 何でもっと早く動いてねぇんだよバカが!!)

 表情はいつもと同じだ。しかし内側では自己嫌悪で一杯一杯だった。

 いわゆるポーカーフェイスというもので誤魔化しているだけで、実際は雪白をここまで怯えてしまう状態にしてしまった自分自身に殺意を覚えていた。

 だから。

 だからこそ。

 


 雪白千蘭が自分にくっついているだけで、彼女が少しでも満足するというのなら、いくらでも付き合ってやるのだ。



 自分の腕から離れることがない少女。

 しかし、腕から離れないだけで彼女の心が少しでも休まるのならば、夜来は何時間でも何日でも何年でも付き合ってやる。付き合わせてもらう。

 それが彼女を守りきれなかった自分が出来る唯一のことだから。

「仕方ない。晩ご飯は私が腕によりをかけて作るよ」

 エプロンをして唯神は袖をまくっていた。

 長い黒髪も一本に縛っていることからして、相当やる気満々だ。

 秋羽伊那は飛び跳ね、全身を使って喜びをアピールする……だが。

「わーい! ―――って、天奈お姉ちゃん料理できるの?」

「できない」

「じゃあ何で晩ご飯作る気満々なの!?」

 ……どうやら今晩のメニューは大変なことになりそうだ。

 


 

 

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