面倒事
そこでようやく覚醒した少年。
夜来初三は頭を襲ってくる妙な痛みによって目が覚めたようで、現在の状況を把握するように周りを見渡した。
「あぁ? まだクソ面倒くせぇバスジャックなんてやってたのかよ。よく飽きねぇなぁオイ」
「何余裕こいてんだよガキ。テメェ殺されてぇのか?」
男は夜来に銃の照準を合わせた。
しかし彼はそれを鼻で笑って、
「サツに一億は要求できたのかよ? 愉快な愉快なバスジャックさん?」
「……マジで死にたいみたいだな、お前」
瞬間。
夜来は腹を抱えて笑い出した。
「ぎゃっハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!! 死にたいみたいだな、ってお前、ぷっくあはははははははは!! 今の会話からどこが俺が死にたがってるだなんて推測できたんだよ!? あーやっべぇクソ笑えるわ、クッハハハハハハはははハハハハハハ!!」
と、そこで彼女が口を開いた。
共感するようにコクりと頷く。
「確かに笑える。さっきからあなたは『殺す』と言っておいて実際には一人も殺していない。その事実からあなたの持ってるその拳銃はただの飾り。いわゆる腰抜けにすぎない」
今の今まで何の反応も見せていなかった唯神天奈の声を聞いた雪白は、彼女に目をやってみる。すると唯神は静かに黙々と読書をしていたようで、夜来と同様に神経が図太いことがよく分かった。
男は馬鹿にされた態度に怒りを爆発させて、
「こっちにこい女ァ!!」
「―――!?」
彼らと同じ制服に身を包んでいる雪白千蘭を引き寄せた。さらに彼女の頭に銃口を痛いほど押し付けて、いつでも殺せるとアピールしてくる。
「さっきから舐めたことばっか言いやがって!! 調子にのるなよガキがあああああああああ!! 罰としてテメェらの大事な大事なお友達をあの世に送ってやるから感謝しろよ!! あぁ!? あんま生きがっからこういうことになるんだぜぇ!?」
雪白は感電でもしたかのように動けなくなった。
泣きそうに涙を瞳に貯めている。
膝をがくがくと震わせて痛々しい姿。
目を見開くようにして体をプルプルと震わせていて―――圧倒的な恐怖を感じていたのだ。
理由は単純明快。
現在。
雪白を拘束しているのは、バスジャック犯という『男』だからだ。
彼女は『男を憎む』という『悪』を背負っている。しかしそれ以前に。その元のようになっているのは男性恐怖症や男嫌いだ。つまり彼女は男の持っている銃ではなく男自体に恐怖を感じていたのである。
「た、たす、けて……や、やら」
男に拘束されている。
しかも拳銃をセットでだ。
明らかに異常なほど恐怖している雪白千蘭の様子に眉を潜めた男は、彼女の容姿が一級品だということに今気づいたようで、
「おーおーおーおー、いい体してるじゃねぇかよお前。どれ、ちっと服脱いでみろよ」
「―――っ!?!?」
自分の胸に迫ってくるバスジャック犯の手。
その事実だけで彼女は絶対的な恐怖の餌食になっていた。
(触られる触られる触られる触られる触られる触られる夜来じゃない『男』に触られる!? 胸を!? い、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だそんなの嫌だ気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!!!)
首をプルプルと横に振る雪白千蘭。
自分の服を脱がそうとしている男を拒絶しているのだろうが、残念ながら首を振るだけでは現実は変えることができない。そんなにも簡単なシステムで世界は回っていない。
「ほれ、暇つぶしに犯してやろうか?」
バスジャック犯は汚い笑顔を咲かせて少女の胸へ手を付着させようとした。
しかし彼は知らなかった。
現在拘束している雪白千蘭という少女が、いかに『触れてはいけないもの』なのかを。絶対に食べてはいけない禁断の果実だったということを。
絶対に。
雪白千蘭にだけは触れてはいけなかった。
雪白千蘭にだけは攻撃してはダメだった。
なぜなら彼女は、悪魔が仕えているお姫様だったから。
ブチブチブチ。
と、何かが引き裂かれるような音がした。肉を繊維ごと裂いたようなものに近かったが、同時にドロリとした液体が流れ落ちたような音さえする。
「……は?」
バスジャック犯は、ふと床に視線を落としてみる。
そこには真っ赤な液体で池のようになっているバスの廊下と―――あるはずがない『何か』が落ちていた。いや、見れば分かるものだった。その『何か』とは常に自分が持っているものなのだから忘れるはずがない。
しかしその『何か』とは落ちるはずがないものなのである。
だからこそ。
バスジャック犯の男は。
落ちていた自分の右手を見て唖然としていたのだ。
「あっつがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?!?!!!??」
遅れて痛みがやってくる。
激痛が、焼けるような感覚が襲ってくる。
男は雪白千蘭どころか握っていた拳銃さえも手放して、血が溢れ出てくる傷口を押さえ込むようにうずくまっていた。
筋肉の繊維や神経や血管ごと強引に『手首から引きちぎられた』ことで落ちてしまった右手。
男は呻きながら頭上を見上げてみる。
そこには。
ニヤニヤと笑っている悪魔がいた。
解放された雪白千蘭を片腕で抱き寄せている悪魔が極悪な笑顔を浮かべて見下ろしていた。
邪悪な声が響く。
「……ダメだよなァ」
彼は雪白千蘭と一つの約束をしている。
『すっと一緒にいる』という内容のものだ。
しかし。
もう一つ、雪白千蘭を弟と重ねてしまっていたことの罪滅ぼしをするべく、少年は彼女を守っていく義務がある。守るなんて上から目線な意味ではなく、守ることが当然で必然なほどの意思があった。
「ダメだよなァ、本当ダメだよなァ……あッハハはははハハははははハはははっははハハハははハ!! ダメだよダメだよ本当ダメだよクソ野郎。よりにもよって雪白千蘭に触るのはダメだろォがよォ」
手首から先を引き抜かれた男は、少年が何者なのかは知らない。どういう原理で自分の右手がなくなったのかは分からない。
しかし、だ。
本能的に少年に歯向かえば―――殺されると理解した。次は右手ではなく心臓をえぐり取られると察知した。
故に命乞いをするしか道はなかった。
だが、
「た、たす、け―――」
「助けるわけねェだろボケが」
慈悲なんてなかった。
言い終える前に少年は雪白千蘭を傷つけたクソ野郎の頭を踏みつけてやった。そのまま地面に足で押さえつけて頭を押しつぶすようにこすりつけてやる。
血がさらに舞った。
花火のように舞った。
「い、あっがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!???」
ピキピキ!! と、男の頭蓋骨から悲鳴が鳴り響いたような気がした。しかし踏みつけている靴底はさらに重みを増していく。
「つーかテメェさぁ、自分は金目的でそこに転がってる拳銃人に向けてきやがったってのに、テメェが狩られる側になった途端命乞いってなんだよそりゃ。喧嘩売ってるとしか思いようがねぇんだよ豚が」
「あっが……!!」
「つーかまァ単純にテメェは―――雪白千蘭に触った時点で死体チェンジ決定なんだよバーカァ」
雪白を抱きしめている夜来の力が強くなる。
それと比例するように男の頭蓋骨にもヒビが入りそうなレベルの力がミシミシと乗せられていく。
雪白はまだガタガタと震えたままだ。虎に狙われた小鹿のように痛々しく震えて夜来に抱きついている。そんな彼女の悲惨な状態に気づいた夜来は、元凶である男に猛烈な怒りを感じ、その頭を文字通り蹴り潰して殺そうと考えた。
しかし実行に移そうとしたその瞬間。
「それ以上はダメ、だよ」
唯神天奈の静止の声。
ぎゅっと肩を掴まれた感触。
その結果、夜来は冷静さを取り戻して小さく息を吐いた。
「……まだやっても良かっただろ」
「ダメ。家族が殺人犯になるのは見逃せない」
「……チッ。クソったれが」
「よろしい。素直でいい子だね」
周りを見渡して見れば理解が追いつかない事態に呆然としている乗客者たちがいた。唯神は彼らに腕が落ちて血が溜まっているのは拳銃の暴発だ。彼が犯人の隙を見て無力化してくれた。などの適当だが現実的な言い訳を使って事実を隠す。
その後。
到着したパトカーに連れられていった犯人は、腕の治療が先ということでひとまず病院へ搬送された。犯人の男が負った手首から先が無くなるレベルの怪我は誰だって銃の暴発と考えるだろう。少年が『引きちぎった』とは非現実的すぎて考慮さえしないはずだ。
こうして問題はほとんど残らないままバスジャック事件は幕を下ろす。
きっと。
少年の逆鱗に触れた故に犯人が無力化されたとは誰もわからないだろう。




