黒神ロイリー
鉈内翔縁を乗せた白神円山の車がゆっくりと停止する。ききっと、少し急ブレーキ気味に止まり、車体が軽く前後に揺れた。だだっ広い山沿いの一般道である。左右を見れば深山が延々と続いているため、どこを探してもいざという時の逃げ場はない。
逃げ場がないのだ。
逃げる必要がある事態が、たった今、二人の目の前に現れたのだ。
一般道の先。二人の車から三十メートルほど離れた地点から、近寄ってくる男の姿がある。
白髪の男だ。黒い眼球に白い瞳を持っている。
間違いない。鉈内は生唾を飲み下した。
「円山さん。あれって……」
「どうやら、向こうさんからお出ましのようだな」
面倒くさそうにため息を吐いた円山は、チラリと鉈内を見やってさらりとこう言った。
「んじゃ倒してこい。ぽぽいと」
「うっしゃいっちょ行ってきます―――ってぽぽいと倒されるのは僕になるんですけど!?」
「切れのいいツッコミだなあ。お前ひょっとして関西人なのか」
円山は面倒くさそうに近寄ってくる敵さんの容姿を改めて確認する。眉根を寄せてその顔を注視すると、どうやら知った顔らしく、
「やべえな。あいつか」
「あいつ? 友達なんすか、そうなんですよね。だから仲良く通してくれますよね」
「ちょっと前に片腕を落としてやった仲ではある」
「謝ってきてください!! すぐに!!」
「いやあ俺も内蔵いくつかやられたし、やだ」
「だってあれめっちゃ怒ってるじゃないですか! 絶対円山さん狙いですよ!!」
「……だったらもっと前から襲撃してきたはずだぜ。タイミングが妙だっつーの。待ち伏せしていたってことは、今この状況を望んでいたってことだ」
白髪をオールバックにした、紳士風の初老の男は姿勢よくこちらに歩いてくる。その手には薄い生地の黒手袋を着用しており、加えて背筋を伸ばした美しい歩き方から執事のような印象を受ける。
しかし、明らかに味方というわけではない。
ましてや、一般人であるはずもない。
冷や汗を流す鉈内の背中を、円山はぽんと叩いてきた。
「今この状況。つまり、鉈内。お前がいる状況ってことだ。お前は普段は七色寺にいる。つまり羅刹鬼の世ノ華、最強の悪人祓い夕那姉ちゃん、清姫の雪白、『夜明けの月光』の悪人祓いたちっていう強大な戦力に囲まれている。向こうは迂闊に手出しはできなかった。けど、もしも俺がお前を連れ出すことを知っていて、お前さんを守る奴が俺一人になる、手薄になると分かっていて、あいつはあそこで待ち伏せしていたとしたら、どうだ。くそつまらねえ話じゃねーか」
「ええ。欠伸が出るほどつまらない。だから涙が出てもそれはつまらないからですよ」
「そりゃ同感だ」
円山は車から降りると、鉈内も覚悟を決めて地に足をつける。七色寺で渡された刀を御札から武器変換しておく。手元に現れた日本刀を鞘から引き抜くと、円山はそれを見てこう口にした。
「『悪斬』。そいつの名前だ」
「……『悪』を斬ることに特化した、今までに黒神一族に殺された白神一族の怨念の宿った刀、ですよね」
「そうだ。ちょっと早めの任務になっちまったなあ。手伝ってくれるかな、ヒーロー」
「まあ。正義の味方どころか、正義そのものみたいな僕ですからね。やりますよ」
悪斬≪あくぎり≫を抜刀した鉈内は、そのまま自ら進んで敵の元へと歩き出した。向こうも背筋を伸ばしたまま上品に歩き近づいてくる。
鉈内は円山に振り向くことなく、そのまま敵と視線を交差させながら歩み寄っていき、ニコリと笑って口を開いた。
「鉈内しょーえんです。しくよろー」
「しくよろとはまた随分と死語。加えて礼儀礼節がなっておりませんな」
「随分と僕のこと待ってたみたいだけどさあ、ごめんね。これでも結構忙しいんだわ。世界救うのとかで」
「それはまた大変な重労働ですな」
「でしょ? つーわけで速攻退場願います。黒神なんちゃらさん」
お互いの距離は三メートルほど。
目の前と言っていいほどの近くに君臨する脅威を前に、おちゃらけたヒーローは悪斬の切っ先を突き付けた。
対して、初老の男は穏やかな微笑みを浮かべて正体を明かした。
「黒神ロイリーと申します。梼杌の黒神ロイリー、とでも言えばより御理解いただけますかな」
「おじいちゃん腰痛めちゃうから帰りな。僕こう見えて強いよ」
「ええ。ご存知ですとも」
ロイリーは丁寧なお辞儀を軽くする。
馬鹿にされている、と鉈内は苛立ちを覚えた。ぴくりと眉が動いている。
「かの七色夕那様の愛弟子であり息子様。武神・速水様の体術を直々に叩き込まれた悪人祓いであり、死神の呪いを宿した悪人を救い、『エンジェル』の九尾の悪人・伊吹連を倒し、シャリィ・レインを代表とする死霊の呪いにかかった子供の悪人たちをダルク・スピリッドを筆頭とする街中の人間たちから死守した。くわえて、暴走し悪化した夜来初三という強大な存在を止めるために、サタンを一時的に憑依させ、見事勝利を収める。さらに羅刹鬼の力を流出させた世ノ華雪花と刃を交え、彼女を救い、すぐさま神々の王たる悪人・アルスと向き合い、死なずにここに立っている」
「……」
「強いですよ、あなたは。術もろくに使えぬ悪人祓いだというのに、異常なくらいに強い。その体術のレベルは相当ですし、頭も切れるから生き残っている。だから、私はあなたを本当に強いと思っておりますぞ」
「……随分と僕のことを知っているんだね。いつから僕を狙ってたのかな、黒神ゲイリーさん」
「夜来様の観察を主にしている中で、あなたへの『期待』が黒神一族の中で高まってきたのですよ」
期待、とはどういう意味だ。
眉根を寄せた鉈内は、悪斬を構えて隙を伺う。
「ですから、鉈内様。どうか一緒に参りませんか」
「どこに? えっちなお店ならいいけど」
「いえいえ。より深い快楽の世界に。そう、端的に表現するならば―――」
その時。
音が、消えた。
「―――悪の世界へいらっしゃいませ、ということですな」
耳元で、背後から、新たに音が生まれた。
鉈内は振り向けなかった。攻撃が、死角からやってくる。
避けられないことだけが、ただ分かった。




