ケアレスミス
雪白千蘭の病室へ入る事は禁止だそうだ。リーゼ・フロリアという『悪人祓い』が管理する、イギリスに設置されている軍事基地内では、男女問わず全員にその知らせが届いた。夜来初三という少年の要望が通ったようで、誰一人として衰弱している少女に近づくことは許されなかった。
だが。
「……ここか」
一人の男が、その立ち入り禁止の病室・204号室の前に立っていた。この基地内で働く人間からして、恐らくは『悪人祓い』で間違いはない。
東洋人の男だ。
名は風堂仁。彼は一度、夜来初三に攻撃的な対応を取られ、逃げるようにして病室から逃げた過去を持つ。つまり、夜来に脅されたあの男だったのだ。
そして。
結論を言おう。
風堂仁はスパイだ。
所属組織は『エンジェル』であり、上の命令から雪白千蘭に再び薬物を注入するためにここにいた。
今までのペースでは、明らかに『計画』の進行が遅れてしまう。
故に、少しでも夜来初三の行動力を増加させるためにも、もう一度あの少女の体に注射器を突き刺す役目を承ったのだ。夜来初三は別館の方へ移動したという話を耳に入れたので、間違いなく高確率で雪白千蘭は一人きり。
チャンスは今だ。
とにかく、風堂は己の仕事を全うするために動く。
「やっぱり、誰もいないか」
部屋へ入ると、予想通り人の気配は皆無だった。視界の端にはベッドを隠しているのだろう、緑色のカーテンが大きく開いている。あそこにターゲットが眠っている。風堂は一度だけ息を吐くと、ポケットからピンク色の液体が入った注射器を取り出す。
足音を鳴らさないが、素早く近寄っていく。
最小最低限の動きと、最小最低限の時間の中で、薬をもう一度打てばいいのだ。
ミスは許されない。
早急に終わらして、この立ち入り禁止の部屋から出ていくことが安全だ。万が一、夜来初三にスパイだとバレたならば、皮膚を強引に剥がされて鼻をヤスリですり潰されることだろう。
だからこそ、風堂はカーテンを開けて的確な動きで雪白千蘭の腕に針を埋め込もうとしたのだが。
「っ。いない……だと……!?」
もぬけの殻だった。
反射的に病室全体を見渡してみるが、やはり人の気配はない。もしかしたら、夜来初三に先を読まれて罠にハマったのかと冷や汗を流した風堂だったが、夜来初三どころか虫一匹さえも視界には映らなかった。
ならば、答えはただ一つ。
(病室を、間違えたのか……?)
苦い顔をして、早足で病室を後にする風堂。
廊下へ出て、徐々に歩行速度を落としていき、眉間にシワを寄せながら自分の失態に溜め息を吐いた。
(くそ、絶好のチャンスだったのに……!! ケアレスミスなんて言葉じゃ片付けられないぞ!!)
反省というよりは、愚かな自分に怒りをぶつけているようだった。このまま雪白千蘭の寝ている正しい病室へ向かって任務を遂行しようとすれば、夜来初三と出くわす可能性が非常に高い。タイムリミットだ。これ以上の行動は慎み、もう少し間を置いてから再び行動すればいい。
そう納得して、曲がり角を曲がった時だった。
「あ? テメェ、ここで何やってんだ」
危なかった。
本当に、予感通りに別館から戻った夜来初三と鉢合わせてしまった。あと少しでも時間を無駄にして動いていれば、間違いなく風堂は悪魔の手で真っ赤なひき肉に工作されていたことだろう。
夜来初三とは顔を合わせることなく、当たり障りのない返答を返して立ち去っていく。
「い、いや、自販機を探していてな。戦場の空気っていうのは、いつまでも慣れないから喉が砂漠地帯になってるんだよ」
「……そうか。あと、さっきは悪かったな。いきなり暴力行為に移っちまった」
「ああ、いや気にしていない。俺の態度にも問題があったんだろう。じゃあ、またな」
勝った。
風堂は静かに、最悪の事態を乗り切った自分に心で拍手を送る。夜来初三にはバレなかった。ならば、まだまだ雪白千蘭を狙うチャンスは生産される。次こそは完璧に行動すればいいのだから、今はとにかくこの場から立ち去ればいい。
だがそこで、
(待て……? さりげなく雪白千蘭の正しい病室を聞き出せば、また同じ失敗をせずに済む。だったら……)
「そういえば、連れのあの子は204号室で休んでるんだったか? うっかりと、あの子の病室に入ってしまわないよう、改めて病室の正しい場所を教えて欲しいんだが」
「204じゃ西の方だろうが。あの女は東側の563号室で寝てる。言っとくが、入ったらぶっ殺すぞ」
「わかってる。間違って入らないために、いま聞いたんだ。念のためにも皆に伝えておくから、安心してくれればいいさ」
「そうか、そりゃ助かる。雪白の奴に飲ませる水の調達と、汗を拭うためのタオルも今から調達しに行かなくちゃならねぇから、そういう気遣いは素直に感謝するぞ」
「ああ。じゃ、俺はこれで」
大きな収穫ばかりだ。
雪白千蘭が眠っているのは563号室で、たった今から夜来初三は彼女の傍から離れるらしい。やるなら、今だ。すぐに東棟の病室へと向かっていき、風堂は563号室の前で注射器を取り出した。
次こそ、仕留める。
時間には余裕があるのだから、冷静に的確に注射器を血管にねじ込んでやれ。
そう決意して、病室に足を踏み入れた。
その瞬間、
「やっほー。スパイ見ーっけ、ぎゃはははっ!!」
聞き覚えのない、女の子の声が部屋で響いた。




