善人VS悪人2
危なかった。
朦朧とする視界を使って、それでも夜来初三の凶悪な笑顔から目を離さなかった鉈内は素直にそう思う。先ほどの一撃は確実に殺す気だった。一切の情けも慈悲もかけずに、仮にも兄弟的関係にある家族だった鉈内を昇天させに来た。
瞬時に『サタンの呪い』を使った鉈内だったが、突然、そこで猛烈な吐き気に襲われた。
(なん―――ッ!?)
ゴポリ、と口の中から液体が吹き出てくる。
必死に押し止めようとしたが、ビシャビシャと派手な音を立てて血を吐き出していた。さらには全身の神経がねじ曲がって引きちぎれていくような激痛が脊髄を走り回る。
間違いない。
紋様のある右顔付近が同時に熱くなっている。
まさしくこれは、
(呪いの、侵食ってわけか……!?)
脳みそをミキサーでかき混ぜているような、猛烈な目眩も炸裂してきた。ふざけている。あまりにも痛みのレベルがふざけていて、思わず発狂しそうになってくる。
立っているだけでやっとではない。
息をするだけで限界だった。
(こ、れを……あいつは、いつもいつも笑って使ってやがったのか)
思わず笑みが溢れる。
これほどの激痛と代償に、夜来初三は戦っていたのだ。あの悪人はいつもいつも、現在鉈内が体験している背骨をノコギリで切断されるより苦痛だろう苦しみに耐えていたのだ。そうして呪いの力を振るい、悪として大切な存在を守っていたのだ。
「やっぱ……お前は僕よりスゲーやつだよ」
やはり都合のいいパワーアップは、なかったのだ。
夜来初三だって、タダであれだけの力を振るえるわけがなかったのだ。
もちろん。
この痛みを常に背負って戦う彼は、やはり根本的な部分は最強なのだろうが。
「だけど」
今の夜来初三は何も強くない。
この痛みを背負って大切な存在を救っていた彼は最強だが、きっと、今の夜来初三は何一つ強さなんて誇れない。
現在の壊れた夜来初三は。
間違いなく。
きっと。
「今のテメェは世界で一番最弱だよ!! このゴミ野郎が!!」
全身から白い粒子を竜巻を作るようにして放出し、その渦の源かつ核として笑い声を上げている夜来初三のもとへ突っ込んだ。一直線に、細かい移動も安全なルートも探ることなく、とにかく鉈内は足場の雪原を吹き飛ばす勢いで殴りかかったのだ。
距離は百メートル以上はあったはずだ。
しかし、今の『サタンの呪い』にかかった鉈内翔縁にとっては一歩踏み出せば届く間合い。一秒とかからずに白い力を縦横無尽に振るう夜来初三の目と鼻の先に接近し、その破壊の魔力を纏った右拳を叩きつけてやった。
だが。
ボバッッ!! という轟音が炸裂した。夜来が無造作に片手を水平に振るい、その白い粒子を扇のように拡散させて前方二百メートルまでの雪原の八割を吹き飛ばした音だった。スケールが一回り大き過ぎる。即座に回避行動に移っていた鉈内は、転がるようにして雪原へ逃げる。彼と渡り合えるだけの力を借りながらも、本質的には絶対的な実力差があることを自覚した。
夜来は自分とは思考回路が決定的に違いすぎる。
鉈内は彼を殺す気なんてサラサラないが、夜来は本気で心臓を刈り取りに来ていた。
それも、楽しそうに笑いながら。
恐らく。
そういった些細な心構えから、悪人と善人は区別されるものなのだろう。
再び鉈内は突っ込む。彼の真似事に過ぎないが、全身に魔力を薄く貼り付けて『絶対破壊』を展開してみる。だが無駄が多かった。夜来が行えば目では見えないほどの最低限の魔力を使うだけで節約できるのだが、鉈内がやると無駄に魔力を使ってしまう為に黒い粒子が全身から溢れてしまう。
これでは時間の問題だ。
魔力の制御が出来ない鉈内は、すぐに呪いの侵食で自滅する。
だが。
向こうはご丁寧に付き合ってくれるつもりはないようだ。
「アはッ!! ぎゃっはははははははははははははははははははッッ!! チクショウが!! 何でだ!? 何で俺ァこんな意味も分からねぇ人生を送ってきたんだ!? ぎゃはは!! なにかしたかよ!? 俺が何か孤独になるようなことをしたか!? 俺が何か人から恐怖されて嫌われるようなことをしたか!? ああしたよ!! 滅茶苦茶してやったよ!! そうして悪にならなくちゃ、悪い人間にならなくちゃあのクソ親共の重圧に耐えられなかった!! そうしなくちゃ弟一人さえ守ろうと行動できなかったんだからなァァァああああああああああああああッッ!!」
真っ白な粒子が翼のようになって広がっていく。世界を包み潰すように肥大化したそれは、容赦なく鉈内の頭へ叩き落とされた。ズズン……ッッ!! と、大地震が起こる前の初期微動のように大地が沈む。しかし、鉈内は魔力を使ってその一撃を破壊し、再び全力で夜来のもとへ走り出していた。
それを夜来は見ているのかは分からない。
彼はただ、胸の内に秘めていた思いを言葉という布で包装して送り飛ばす。
「だけど、だけどだ!! そんなクソッたれな極悪人だってのに、俺のことを好きになってくれた奴がいた!! 俺がどれだけぶっ壊れても俺がどれだけ狂っても、あの女だけは俺のことを誰よりも何よりも思ってくれた!! ぎゃは、ぎゃっははははははははははははははッッ!! なのに、なのによぉ! その命すら俺じゃどうしようも出来ねぇんだ!! 俺は結局、雪白の奴を救うどころかアイツを傷つけるクソ野郎なんだよ!!」
互いの距離がゼロになる。
お互いの拳がお互いに届く間合いになった。
しかし、拳を構えて叩きつけようとしたのは鉈内だけだ。悪人は違う。夜来は片足の靴底を無造作に雪原へ叩きつける。すると雪を被った地が噴火するように爆散して、その地上だった岩や土や石の嵐が、鉈内の体に下から連続してマシンガンのように直撃する。
吹っ飛び、確実に二十メートル以上は滞空して、宙へ投げ出された鉈内。
ようやく凄まじい衝撃と共に雪の上へ転がった彼は、呻きながらも即座に立ち上がった。
「だからテメェが俺を倒してみせろよ!! 雪白をずっとずっと傷つけてる悪をテメェが倒してくれれば全部全部ハッピーエンドになるんだろうが!! お前ならあいつだって救えんだろ! 俺とは違って人を救える心ってのを持ってんだろうが!! だったら雪白の命の一つぐらい救えよ!! あの理不尽に巻き込まれて苦しんでる女を!! 泣いてる雪白をまた笑顔にさせてやってくれよォォおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
もう止まれない。
雪白千蘭の笑顔を思い出しても、彼女との日々を振り返っても、二度と夜来初三は暴力の手を休めることは出来ない。ここで鉈内を殺しても、結局は雪白を救うことは出来ないという事実から目を背けて、全部全部自分とは違って人を救える善人に押し付けている状態だった。
八つ当たりだ。
自分が少女を救う責任の放棄だ。
自分では何もできない、そう納得してしまい悪へ染まりきったからこその責任放棄だ。
だが。
その彼女を思う心だけは、言葉という形になって吐き出される。
「あいつの笑った顔が欲しいんだよ!! あいつの笑顔が見たいんだよ!! またあいつに手ェ引かれて生きてみたかったんだよ!! でも無理だって言ってんだろうが!! 俺みたいなクソったれの極悪人が、あいつの笑顔を守ることなんざ出来ねぇんだよ!! 守り方なんざ知らねぇよ!! 今まで全部壊してきてやった!! 周りも、自分も、全部全部壊すことでしか俺は生きてこなかった!! 『壊し方』ならいくらでも知ってるっつーの!! だけど『守り方』なんざ知らねぇんだよ!! ―――今まで誰も守りきれなかった極悪人なんだから、守り方なんざ知ってるわけがねぇだろうがァァああああああああああッッ!!」
ついに夜来初三も飛び出した。顔の皮膚にバキバキバキと亀裂を生みながら、左顔の皮膚を剥がす。異質な白い肌が、まさしく狂気となって威圧感を振りまいていた。しかし、それでも、白い怪物に染まってでも右拳を固く握って間合いを詰めた。対して、迎え撃つように左腕を引いた鉈内の拳も容赦なく飛んだ。
「「ォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!」」
絶叫が重なる。
同時に、お互いの拳もお互いの拳に激突した。
ゴガッッッッ!! と、たったそれだけの衝突で辺りの降り積もった白一色の雪が盛大に吹き飛ぶ。そのあまりにも膨大すぎる力の激突は、神話の世界を見ているような非現実感でいっぱいだった。
そして。
拮抗したかに見えた拳同士の激突は、最後に余波を生み出した。夜来初三も鉈内翔縁も、三十メートル以上は後ろへ砲弾のように吹っ飛んでしまう。だが、それでも二人は即座に起き上がり、雪を蹴散らして再び激突する。
白い力を本気で振るう。
白い怪物が望むような悪そのものに変貌した夜来初三は、その邪悪な白い粒子を纏った右足で雪原を蹴り叩いた。すると雪崩が発生する。それも化物の力を使って起こした雪崩なのだから、その速度は音速を超えた雪の大規模破壊だった。
全てが飲み込まれる。鉈内の姿も雪に潰されて消失する。
だが、悪人の絶叫だけは響く。
「何でだよ!! 何で雪白の隣にいるのがテメェじゃねぇんだよ!! 何で俺がこんな歯車に絡まなくちゃならねぇんだ!! おかしいだろうがよ!! 全部全部俺じゃなくてテメェだけがあいつと!! あいつらと!! テメェだけがあいつらと出会って守ってやれば皆皆笑顔で終わったじゃねぇか!! 雪白だってテメェに助けられてたら良かったんだ!! 俺があいつとたまたま出会って、偶然にも助けて、おかげであいつは俺の隣に立っちまった!! 全部全部俺のせいじゃねぇか!! 俺みてぇな悪人と出会わなければ、雪白はこんな目にはならなかったんだよォォおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
あの日、自分が雪白を電車で助けてしまったから、全ての悲劇に彼女は組み込まれた。自分ではなく鉈内に助けられていれば、今、夜来初三を狙う奴らに利用されて苦しむこともなかったはずだ。意味のわからない薬で死にかけることはなかったはずだ。確かに、その言い分は客観的に見れば何一つ間違いは無い正論だった。
すると。
そのタイミングで、雪を雪が飲み込んだ雪原の一部がボバッッ!! と、勢いよく四方八方へ吹き飛んだ。姿を現したのは鉈内翔縁。その身にサタンの魔力を纏った、たった一人の夜来とは対極の位置に立つ善人だった。
「……ふざけんなよ」
善人は唸った。
低い声で、激怒の色を声に含んで、本当に堪忍袋を爆発させた。
自分のような悪人ではなく、鉈内のような善人に雪白千蘭は出会うべきだった。あの日、痴漢から彼女を助けたのが鉈内だったのならば、きっと彼女は苦しむことにはならなかった。
それを聴き終えた善人は。
その悪人の言い分を理解した善人は。
「僕が助ければ良かった? 自分みたいな悪人じゃ助けられない? 雪白ちゃんも他の皆も、僕とだけ出会って僕が全部助ければ全てがハッピーエンドになった?」
そんなこと。
そんな都合のいいことが。
「ありえるわけねえだろうが!! 僕が全部救えば本当にそれで満足か!? 僕が今ここで雪白ちゃんを連れてって、何とかしてあの子を助ければそれで良いってのか!? んなわけねえだろうが、ふざけてんじゃねえよゴミが!!」
善人と悪人が交差する。
二人の視線が静かに鋭く交差する。
「雪白ちゃんはお前が救ったんだろ!! 救ってないって言い張るだろうが、お前が雪白ちゃんを救ったんだよ!! もちろんお前の考えじゃ、それは立派な悪行なんだろうよ!! 人なんて救ったらお前の言い分じゃ悪行なんだろうよ!!」
その通りだ。
悪人にとって『救う』とは絶対的に悪なのだ。
だが。
ならば。
「―――だったらそれでいいじゃねえか!! 悪人でいいじゃねえかよ!! 僕はお前の道を決定する権利なんざ持ってねえんだよ!! お前は悪い方法で『悪人として救えばいい』じゃねえか!! もちろん僕はそれを認めない!! けど、僕が認めないからって理由だけでお前は変わるのか!? 僕一人の意見に流されて悪いやり方を捨てるほど『小さな悪人』だったのか!? お前はお前で進んでみせろよ!! 今更になって悪い道を歩くのに何をビビってんだ!! お前は間違ってる! けど、お前はその間違ったやり方で実際に雪白ちゃんを救ってみせたじゃねえか!! 救ってないけど救ったじゃねえかよ!!」
善人の声が、強くなっていく。
声量ではなく、もっと深い場所にある『信念』というものがだ。
「クソッたれな生き方だったろうよ!! 暗い暗い道だったろうよ!! 孤独で一人で寂しくて、ずっとずっと血みどろになって生きてきたんだろうが!! それがお前だろ!! どれだけ過去に人を傷つけたのかは知らない。どれだけ悲劇を体験したのかは知らない。僕はテメェの人生に興味なんざねえ!! けど、それでも、過去に大きな罪を犯して、今もその罪をさらに背負っていくようなやり方をしていても!! ―――雪白千蘭だけはどうしても救いたいんじゃねえのか!! 大好きなんだろ!! あの子のことがオマエは大好きなんだろうが!! だから、そんなぶっ壊れた今でも、お前はあの子を救ってくれって僕に頼んでるんじゃねえかよ!!」
夜来初三の顔が歪んでいた。
好き、なんて人間らしい心が自分にあるわけがない。
それを見抜いたのか、鉈内はさらに続けた。
「好きなんだろうが!! それが『どういう好き』かは知らねえ!! でもお前は、あの子のことが大好きで大好きで仕方ねえから、今までも戦ってきたんじゃねえのか!? 自覚を持て!! お前だって人間なんだよ!! どれだけ狂った真っ黒な生き方をしていようと、人を好きになれる生き物なんだよ!! いい加減に分かれ!! ―――大好きな女の子の命くらい、テメェの手で『悪』らしく救って見せろ!!」
ゴバッッッ!! と、サタンの魔力が爆発的に鉈内の体から溢れ出た。さらに鉈内は駆け出して、一気に相手との距離を詰める。その吹き出ている魔力の渦は止まらない。夜来初三の白を塗り替えるほどに、善に輝いた美しい黒が広がっていく。
悪を善が塗りつぶす。
悪人を善人が倒してみせる。
気づけば。
夜来初三の目の前に、善人の拳が飛んできていた。
自分の返り血で染め続けてきた拳とは違い、全てを照らす綺麗な汚れのない拳だった。
それを見て、思わず悪人は理解した。
(……ああ。そうか)
自分のことを分かった。
改めて、自分はどう在ればいいかを受け止めた。
そして。
同時に、その美しい光の拳が迫ってくるのを眺めながら自覚した。
(……俺は、コイツに憧れてたんだ)
気づいた時には、既に遅い。
自分とは違って、善に生きることが出来る鉈内翔縁。
彼の拳が届く。
勇者の拳が魔王へ到達する。
善人としての拳が、ついに悪人の顔へ接触する。
「テメェが思う『本物の悪』を信じろよ!! この小悪党が!!」
轟音が炸裂した。
悪の顔面を正義の拳が射貫いた音であり、正義は必ず勝つ証拠の音だった。
避けようと思えば、避けれたはずだ。反撃しようと思えば、反撃できたはずだ。
(……ったく)
しかし。
それは出来なかった。
(……なに、やってんだよ……おれ……)
確実に突き刺さってきた拳は、不思議と痛みは感じられなかった。むしろ、胸の内に巣食っていた霧のようなモヤモヤを、完全に打ち払ってくれた清々しい一撃だった。真後ろへ倒れながら、雪原へ沈みながら、夜来初三は薄れていく意識のなかでふと思った。
自分は、あの男に憧れていたのだ。
善なんてものを微塵も理解できない己とは違って、いつも全ての人々を温めてしまう彼の背中を指をくわえて眺めていたのだ。
心から悪だったから、善である彼を追うことは出来ず。
ただただ、憧れて終わるだけだった。
だが。
やはり。
自分は悪で在ろう。もう一度、二度と揺らがない『本物の悪』として闇の道を走っていこう。そうして大切な少女の命をつなぎ止めて、誰にも左右されない鋼の悪として存在してみせよう。雪白千蘭の笑顔を取り戻したい。ならば、再び本物の悪人として彼女との日々を掴み取ってみせようじゃないか。
ああ、と夜来初三は沈んで行く意識の中で思い出した。
いつだったか。
ずっとずっと、昔から決めていたことではないか。
自分は。
自分は―――――――。
一流の悪を誇り。
一流の悪を極め。
一流の悪になる。
それが少年の夢であり、望みであり、希望であり、目標であった。
自身を悪と認め、理解し、納得し、肯定した。
なぜ、少年は自分を悪だと受け入れたのだろうか。
その理由は、少年が歩んできた苦しく、残酷で、悲しみが溢れていた人生の影響である。
少年は悪人だ。
それは自他共に認めなければならない事実であるし、少年自体、悪人と理解されなければ悪人と思わせるほどの行動を取るであろう。
何が何でも自分は悪人だ、という考えを少年が捨てることは決してない。
なぜなら、事実だから。
自分が悪人だということが、事実以外の何ものでもないから。
さらに言えば、少年は自分の悪を誇りに思っているし、自分の悪に満足感すら覚えている。
それが少年。
『本物の悪』を極め、安い悪を成敗する『一流の悪人』だ。
そして、その少年こそが、
夜来初三という極悪人である。
悪の王として君臨する、本物を突き進むただ一人の悪人なのだ。




