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淫魔の呪い

 鉈内翔縁なたうちしょうえん

 彼は幼い頃、実の両親と天山市まで旅行に来た際、捨てられた。

 つまり、捨て子である。

 当時の記憶は本人が一番良く覚えていないらしく、特に気にしているわけではない。

 そして、彼が捨てられた場所というのが、七色寺という当時から七色夕那ななしきゆうなが管理している寺の敷地内に生えている木々の中だったそうだ。

 気温が高く、日差しも強い初夏の頃。

 まだ子供ながらも、既に七色寺を管理する立場であった七色夕那は、木々の手入れをするために道具を所持して緑の森の中へと踏み込んだのだ。

 そこで発見した。

 幼い少年が無表情な能面のような顔でただ涙を落としているところを発見した。

 これが出会い。

 七色夕那と、捨て子であった鉈内翔縁が家族となった瞬間の出会いである。

「まぁ、このバカ息子との話はどうでもいい」

 本殿の内部へ入り、いくつもの錦絵や墨絵が飾られている大きな部屋で円を描くように向かい合っている少年少女達の視線を一斉に浴びている七色は、隣に座るチャラチャラした息子を一瞥して告げた。

「……あはは。夕那さん、バカは結構傷つくなー」

『悪人祓い』の見習い的立場にある鉈内。彼はバレバレの作り笑いを行うと同時に、いまだに痛む腹部をさすっている。

「さて、では早速。お主の『淫魔の呪い』を解くことにしよう。そのためにはまず、お主の『悪』を消し去らねばならない」

「……悪?」

 長い片ポニーテールを揺らして小首を傾げる雪白千蘭ゆきしろせんらんに、七色は大仰なほど大きく頷いた。

「呪いとして悪人に憑依してくる怪物。そやつら『悪』の塊のようなやつらに憑依される者は、その怪物と『似ている者』じゃ。つまり、お主はお主にとりついている淫魔の『何か』と似ているところがあるはずなのじゃよ。そして、その似ている部分がお主の『悪』じゃ。つまりそのお主と淫魔を繋げている『悪』をお主が捨てて、『似ている者同士』から『似ていない者同士』に変わってしまえば、自然と淫魔もお主から消えていくのじゃよ。なんせ、もうお主と淫魔は似ていないのじゃからな」

「だ、だが私は、淫魔などという性欲が強い悪魔と同じ考えや行動はしていないし取ってもいない。そもそも、私はセクハラや暴行を受けそうになったことなどはあるが、実際に汚されてすらいないぞ。そもそも、私は男性恐怖症だし男嫌いだ。性的なことなど考えたことすらない。はっきり言って正反対だ」

 恥ずかしそうに頬を赤らめた雪白は、隣に座る自分の男性恐怖症や男嫌いから例外として認識している少年を横目で見て、ごにょごにょと聞き取りづらい声量で言った。

「……まぁ……こいつは特別だが……」

 つまり、夜来初三やらいはつみだ。

 全てを壊す『絶対破壊』という、悪魔の神であるサタンの力の一つを使うことで、雪白にとりついている淫魔が放つ性的興奮を誘導させられる力に影響されない唯一の少年だ。

 夜来は雪白の視線に気づかないまま、ダルそうに首を回したり伸びをしたりして話に耳を傾けている。

「……本当に心当たりはないのじゃな?」

 七色は眉根を寄せ、困惑した表情で身を乗り出して尋ねてきた。

 雪白はきっぱりと「ない」と答えて小さく首肯する。

 座りなおした七色は顎に手を当てて、今回の患者、雪白千蘭という少女を凝視する。

(……どういうことじゃ? 似ている部分がないというのに『呪い』にかかるなんて話し、聞いたことがないぞ……?)

 うーんうーん、と唸りながら頭を働かせている七色の様子を眺めている夜来は、自分の胸に手を当てて口を開いた。

「俺がちゃっちゃとコイツの淫魔叩き潰せば良いだろうが。そのほうが手っ取り早い」

「それは最終手段じゃといつも言っておるじゃろうが、前髪サタン」

「誰が前髪サタンだゴラァ!! ……腕の一本でも千切ってやろうか……」

 その辺で蠢いている不良やチンピラが裸足で逃げ出すような低い声で脅した夜来は、それだけで人を殺せそうな日本刀のように鋭い視線を七色に突き刺す。

「おー怖いわーマジ怖い。しょんべん漏れちゃうから止めてよやっく……ゴミくん」

「そのまま言えよ! なに言い直して間違えてんだよクソが!!」

 いちいち喧嘩を売ってくるチャラ男に、凶器と認識されても仕方ないであろう視線を移し変えた夜来は、一発ぶん殴ってやろうと勢いよく立ち上がった。

「兄様、飲み物をお持ちしました」

 しかし、ふすまを開けて突如登場してきた、輝く金髪が目立つ世ノ華雪花によって、殴りかかる勢いを削がれてしまう。

 世ノ華はおぼんにアイスコーヒーを乗せて、夜来の隣に無理やり座る。

 つまり。

 もともと夜来初三の隣に腰を下ろしていた雪白の席に無理やり入り込んで、無理やり着席し、無理やりその席を占領したのだ。

「貴ッ様……!!」

「兄様、先ほどようやく完成したブルーマウンテン産のコーヒー豆を使用したアイスコーヒーです。どうぞお飲み下さいませ」

 世ノ華は、怒りによって整った綺麗な顔を歪めている雪白を華麗にスルーして、愛しの兄様との時間を大切にする。

「あ、ああ。悪いな」

 どうやら、今の今までずっとコーヒー作りに専念していたらしい世ノ華。

その努力と集中力に感心しながらも、迷惑をかけたという罪悪感に心を締め付けられている夜来は、お礼を言って丁寧にコーヒーを受け取った。

 しかし、ここで雪白が気づいたように声をかけた。

「おい、妹キャラの金髪アホ女」

「義妹キャラと言って欲しいけど、何かしら? あとアホじゃないわよお年寄りお婆さん」

「私達と貴様の分の飲み物は持ってこなかったのか? あと私はピチピチの十代だアホ」

 雪白はこの部屋にいる夜来以外の者達、チャラ男に幼女(外見だけ)に金髪妹キャラの少女を確認する。……そこで気づいたが、まともな人間が皆無だった。

 すると、世ノ華雪花は心底興味がなさそうな無情な瞳で「……あぁ」とぼやくように呟き、ポケットの中に手を乱暴に突っ込んだ。

「はいどうぞ」

 そして。


 そこから取り出した、乳酸菌が豊富なヤクルトを雪白、七色、鉈内の前に無造作極まりない動きで人数分投げ捨てる。


 ……雪白は、堪忍袋が破裂するのを何とか押さえ込んで、目が点になっている鉈内と七色の代わりに口を開いた。

「……あとで貴様を天国に移住させることは置いておいて、もう一つ聞こう。貴様の分はどうしたんだ」

「ああ、大丈夫よ。ちゃんとこれを飲むから」

 そう自信に満ち溢れた満面の笑顔で返答して、世ノ華は自分の胸の間から一本のストローを取り出した。

「さーてと、喉が渇いたわね」

 さらにそれを、隣でコーヒーをじっくりと味わっている夜来のコップに差し込んだ。

「「「……」」」

 瞬間、場はその仰天してしまう事態によってフリーズまってしまった。

 しばらくの静寂が過ぎ、一番度肝を抜かれている夜来が、勇気を振り絞って口を開く。

「……おい、クソガキ二号……」

「何でしょうか兄様」

 コーヒーの入ったコップを世ノ華に差し出して、表情が引きつっている夜来は、やや無理やり優しげな声を出して言った。

「あの、これ、もうお前全部飲んでいいぞ、マジで」

「そ、そんな……お、お口に合わなかったでしょうか?」

 うるうると美しい緑の瞳を涙で一杯にする世ノ華は、「申し訳ありません申し訳ありません!」と何度も何度も頭を地面に叩きつけて謝ってくる。それはもう、ゴンゴンと叩きつけて謝罪してくる。

 ……もちろん、そんな痛々しい謝れ方をされてしまえば、いくら無愛想でツンデレな夜来初三だって。

「―――いや、じょ、じょ冗談だバカ! い、一緒に飲むぞ全っ然一緒に飲むぞ!!」

 断れるはずがないのである。 

 世ノ華雪花は絶望のどん底に突き落とされたような顔から一変して、三億円の宝くじが当たったとしてもそこまで喜ぶかどうか分からないレベルの笑顔を咲かせた。

「よ、よかったです! ではでは早速お飲み下さい、私は後から頂きますので」

 夜来は嫌な汗を流しながらも、無理に無表情を維持して『女子高生の胸の間に挟められていたストローが入っているコーヒー』に口をつける。

(……なんか、男として腐った事をしてる感じがする……な……)

 チラリと、周囲の者達の顔をうかがってみる。

 そこには、

「「「……」」」

 軽蔑の視線を夜来に送りながら、ヤクルトをちょっとずつ、少しずつ、ちびちびと飲み込んでいる少年と少女達がいた。

 冷たい視線に耐え切れなくなった夜来は、途端に大声を上げて「仕方ねぇだろ! あんな謝られ方されたら断れねぇだろ!」と反論の嵐を巻き起こそうと思ったのだが。

「お、おい! 仕方ねぇだ―――」

「ではとりあえず。雪白、お主の『呪い』は……あまり使いたくなかったのじゃが、別の方法で祓うことにしよう。この後、奥の部屋で待機しておいてくれ」

「分かった、指示通りに動こう。ところで、私の知り合いに妹でもない同級生に自分のことを兄様と呼ばせている変態がいるのだが、どう思う?」

「そりゃゴミだね、まじゴミだね。もうゴミの中のゴミでゴミ過ぎるゴミだねーそりゃ。顔もきっとゴミなんだろうねー。うん、マジでゴミだ。もはや汚物だね、ちょーウケる」

 何も言い返せなかった夜来初三は、ただただメンタルを傷つけられていく視線に耐えながら、げっそりとした顔で出来るだけ早くコーヒーを飲み干したのだった。










 雪白千蘭の中に憑依しているキリスト教の下級悪魔、淫魔。

 この『淫魔の呪い』を解く方法で、『雪白を淫魔と似ていない者に変える』という方法は、雪白の淫魔と似た『悪』が分からないので実行に移すことが不可能である。

 よって、もう一つの解決方法を取ることにした。

 言ってしまえば、それは最終手段。

 つまり進んで使いたくない方法である。

 それが、悪魔の神に憑依されている夜来初三が扱う力、『絶対破壊』という触れたもの全てを自由自在に破壊することが可能な、サタンの力を利用したものだ。

 触れたもの全てを自由自在に破壊することが出来る。

 それはつまり。

 雪白千蘭に憑依している『淫魔だけ』を破壊、つまり殺すことが可能というわけだ。

 一見、簡単極まりない方法である。

 だが、この方法を実行するにはいろいろと準備がいるし、リスクも存在する。

 その準備というのが、破壊のターゲットである淫魔だけを始末するために、『淫魔を雪白千蘭の体から一時的に引き離す』という準備だ。

 夜来の能力、絶対破壊は触れたもの全てを破壊することが出来る。

 だが、逆に言えば。

『触れたもの』しか破壊することが出来ない。

 つまり、今回の壊す対象である淫魔を、雪白の体から一部分でもいいから引きずり出して、夜来に触らせる必要があるのだ。

 これが準備。

 そしてリスクというのが、死亡リスク。

 いくら『サタンの呪い』によって、悪魔の神の力をある程度扱うことが出来る夜来初三だろうと、『羅刹鬼の呪い』によって、妖怪の中でも神と呼ばれている鬼神に憑かれている世ノ華雪花だろうと、『悪人祓い』という『呪い』にかかった悪人を救うことが仕事であるベテラン悪人祓いの七色夕那だろうと、死ぬ可能性が浮上する。

 なぜなら、この『絶対破壊』を利用した方法は、言ってしまえば拳で解決するようなものだ。つまり、淫魔という人間を超えた存在である悪魔と命がけで戦い、『絶対破壊』で始末するということ。

 一言で言えば、純粋な殺し合いである。

 さらに、呪いというものは使えば使うほど『憑依している怪物に自分が奪われてしまう』のだ。よって、思う存分力を引き出すことは出来ない。

 なので、夜来初三はサタンの力を満足に振るうことは不可能である。

 一方、雪白の体から引き離された淫魔は、全力で暴れまわることが可能だ。

 なぜなら淫魔は、雪白千蘭の体から離れた時点で、『呪い』という存在ではなく『悪魔』という存在としてそこにいるのだから。

 雪白千蘭という殻から出て、悪魔そのものとして人間の世界に出現することになるからだ。だから、全力で力を扱うことが出来てしまう。

 全力で戦える下級悪魔、淫魔。

 全力を出せない『悪人』たち。

 この事実だけで、実力の差は大体理解する事ができるだろう。

 いくら悪魔の神、サタンの力を夜来初三がある程度扱えるといっても、所詮ある程度だ。

 その力は、『サタン本人』の力と比べれば、おそらく……。

「―――百分の一にも満たんじゃろうな」

 コンクリートだけで作られた部屋の中で、静かに夜来初三の戦闘能力のレベルを告げた七色夕那。

 部屋の中で、話しに耳を傾けている夜来初三と世ノ華雪花、二人の悪人は特に緊張した様子はない。

 それもそうだろう。なぜなら、夜来も世ノ華も、一度は七色夕那という『悪人祓い』の手を借りて、自身の呪いを解こうといろいろな努力をしたからだ。

 その努力の中には、

 今回、雪白千蘭の『淫魔の呪い』を解く為に命をかけるような事をしたことだってある。

 ゆえに、緊張などするはずがない。慣れているのだから。

「それと世ノ華。お主の『羅刹鬼の呪い』は、もはや下級妖怪と同等の力しか残っていないじゃろう。昔ほどの力は、特にお主は使えん。肝に銘じておくのじゃぞ」

「大丈夫です。私が危なくなったら、兄様が絶対に完璧に格好良く華麗に鮮やかに王子様のように助けてくれるでしょうから、問題ありません」

「……ハードル上げんじゃねぇよ」

 壁に寄りかかり、文句を言うような口調で呟いた夜来。

 だが、助けないと否定しないということは……。

(本当は優しいのにツンデレなんだから、兄様ってば)

 くすくすと笑い、世ノ華は夜来に微笑みを向ける。

「さてと、それじゃあ早速じゃが……」

 部屋の中心に立つ少女、雪白千蘭に近寄った七色は、首にかけていた十字架のネックレスを雪白の額に当てて息を一つ吐いた。

 そこで気づく。

 ポニーテールを解き、膝まで伸びた長い白髪をストレートにして立っている雪白が不安そうな顔でこちらを見下ろしていることに。

 七色は苦笑して、これから行うことの説明を始めた。

「キリスト教の下級悪魔、淫魔はサタンと同じ種族、『悪魔』じゃ。だから、この十字架を使う。エクソシストが良く悪魔祓いとかで十字架を使っとるじゃろ? 今からそれを行って、お主の中の淫魔を一時的に引き離す」

「わ、分かった。とにかく、ジッとしていよう」

「よい判断じゃ。それじゃあ早速、始めるとしよう。少し気を失うじゃろうが……まぁ、ゆっくりと眠っておけ、意外と快眠かもしれんぞ?」

 七色は口を閉じて、また開けた。

 理由は単純。

 雪白の中に眠るキリスト教の下級悪魔、淫魔という人間の上を行く『怪物』を呼び出し、それを始末するためだ。

 そろそろ始まる。

 雪白千蘭という一人の悪人を救う為の、悪人達の戦いが。






 重く、厚く、大きい鉄のドアを、きしむ音を生み出しながら開けて部屋から出てきた七色夕那に、鉈内翔縁が声をかける。

「夕那さん、そろそろ始まった感じ?」

「まぁ、そうじゃろうな。ここからは、わし達『悪人祓い』の人間が出る幕じゃないからのう。少し休憩でもするか」

「でもさぁ、今回は簡単な呪いだったよね。下級悪魔一匹でしょ? なら、やっくん一人でも十分だと思うんだけどねー僕は」

「見習いが偉そうな口をきくでない」

 鉈内の腰をバシン! と叩き、七色はてくてくと小さな歩幅で可愛らしく歩いていく。

 腰を擦っていた鉈内はそのあとをすぐに追い、隣に並んで口を開いた。

「それにしても、何で雪白ちゃんは憑依されてる淫魔と少しも似てないんだろうね。僕は雪白ちゃんと顔を合わせた瞬間に何か呪いが関わってることに気がついたけどさ、まさか『淫魔の呪い』とは思わなかったよ。……はは、どうりで僕も雪白ちゃんに興奮したわけだ」

「変態め。お主まで欲情したのか」

「ひ、否定はしないけどさぁ、『呪い』のせいだしドンマイじゃない?」

「それで済むわけないじゃろうがッ!」

 大声を上げた七色は、鉈内の話しに一つだけ共感できる部分があった。

 それは、雪白が淫魔と同じように男に対して好意を抱いているのではなく、正反対の嫌悪感や恐怖感を持っているところだ。

 まったくの正反対で真逆である。

 よって、なぜ雪白に淫魔が憑依したのか分からないのだ。

 呪いというものは、『悪人祓い』を仕事としている者達の間では一種の『天罰』だと考えられている。

 つまり。

 神が、人間として生きていくことを許されないほどの『罪』や『悪』を背負っている『悪人』に、悪魔や魔物、妖怪などの『怪物』を憑依させて、人間を捨てさせようと天罰を下しているということだ。

「やはり、『呪い』というものは良く分からんのう……」

「? そりゃそうっしょ。結局は、科学的説明が絶対的に不可能な現象が『呪い』なんだからさ」

 スキップをしたりクルクルと回ったりして、落ち着きがまったくもって皆無である鉈内の言葉に、七色は反論することが出来なかった。

 確かに、不可思議極まりない現象が、『呪い』だ。

 魔術。

 魔法。

 呪術。

 などの、オカルトと同じ種類であろう非科学的なものこそが、『呪い』だ。

 ゆえに反論などすることが出来ないのだ。

 だが。

「じゃがまぁ、『呪い』というものは―――」

 これだけは言える。

 これだけは誤解されてはならないことだ。

「善良な人間にだけは、絶対にとりつかないのじゃよ」

 





 出現した。

 気絶して倒れこんだ雪白千蘭の体から、まるで幽体離脱のように、ターゲットが出現した。

 闇の生き物。

 悪の生き物。

 人々から恐れられ、怖がられ、嫌がられている、悪そのものが具現化したような存在。

 それが、

 雪白の体から出て来た一匹の『怪物』。

頭部から生えた二本の角、さらに小さな灰色の羽根を生やし、クセのある黒髪を肩まで伸ばした少女……。


 キリスト教の下級悪魔、『淫魔』だ。


「なによ、これは」

『怪物』である淫魔は、面白くもないお笑い芸人のコントを退屈そうに眺めているような調子で、言った。

 返答を返したのは、世ノ華雪花だ。

「何って……あなたを始末するためよ。分かってるでしょ? ビッチ悪魔さん」

「あなた達が? 人間如きが? 私を? 嘘でしょ?」

 心底信じられなかったのか、淫魔は目を大きく見開いて何度も確認をとってくる。

 これから殺し合う相手と無駄話をすることに意味がないと踏んだ夜来初三は、「面倒くさい」と盛大にアピールするように舌打ちをつく。

「チッ! 男なら誰にだって股ァ開くようなメス悪魔に構ってる暇ねぇんだよ。アバズレが調子にのんなアホ。俺はケツの軽い女が一番嫌いなんだ」

 瞬間。

 両目をうっすらと細めて、侮蔑するように淫魔を睨み付けた夜来初三の顔に異変が走る。

 右目の周りに存在する禍々しい紋様が徐々に顔の右半分に広がっていき、目自体はまだ変化の一つも現れていないが、あと少しでも力の出力を上げれば漆黒の魔眼に早変わりするだろう。

 つまり。

『サタンの呪い』に身を喰われるのと引き換えに、強大な力を手にしているのだ。

「……さーてと」

 呟き、サタンの力、『絶対破壊』を全身に展開させた。

 これによって、夜来の体にはいかなる攻撃も効くことがない最強の盾になり、夜来の指一本でも淫魔に触れることが出来れば、雪白千蘭を救うことが出来るという最強の矛にもなった。

言ってしまえば、完全完璧な戦闘モードだ。

「散っとけよ……クソビッチが」

 黒い魔力を、噴火寸前のマグマのようにボコボコと足元で溢れさせていた夜来は、その魔力を淫魔の胸元に向けて勢いよく放出させた。ただし、それは生きているように四方八方へと散らばっていき、様々な角度から淫魔の体を突き刺しに行く。

「―――ッ! あなた、サタン様に憑依されて……ッ!」

 言い終える前に、自分を殺しにかかってきている魔力の攻撃が迫ってきたので、淫魔は頭上高くに飛び上がる。そして、そのまま天井へ足を着けて回避した。

 天井に足の裏を着けて、コウモリのように頭を床に向けて立っている淫魔は、きっと重力を感じていないのだろう。まるでバンパイアのようだ。

淫魔は右手を横に大きく振るう。

 すると、漆黒の閃光―――悪魔の魔力が解き放たれて、敵である夜来初三に襲い掛かっていった。

 しかし。

「兄様に怪我などさせませんよ」

 横から割り込んできた声と同時に、淫魔の攻撃は何者かの手によって別方向へ弾き返された。

 悪魔は天井から見下ろしたまま、ぼやくよう言う。

「……なるほど。あなたは妖怪なのね」

 夜来の前には、少女がいた。

 いや、少女なのだが、少女ではないと言ったほうが正しい。

 正確には、鬼だ。

 淫魔の頭部から生えている角よりも大きくて長い灰色の角。

 額からとび出ているそれは、まさしく鬼だ。

 さらにその手には鬼の特徴的武器である、真っ黒な全長三メートル近くはあるだろう金棒がいつのまにか握られていた。

 彼女は鬼だ。だが、その可愛らしい外見はきちんと残っているため、手に持っている物騒な巨大武器……金棒とは実に不釣合いな姿である。

「まぁいいわ。それよりもアナタ……かなりいいわね。死なない程度に痛めつけてから、お姉さんと気持ちいいことしましょう? ああでも、やっぱりハードなほうもいいかもね」

 少女の後ろで、身構えることすらせずにポケットに両手を突っ込んだままの夜来初三に熱っぽい視線を送りながら、そう口にした淫魔。

 少年はその誘いを一瞬で断った。

「ざけんな淫乱悪魔。テメェはド汚ぇ野良犬とベッドで運動してりゃ良いんだよ。つーかがっついてくる女ァ趣味じゃねぇんだ。他所よそを当たれ」

「結構ひどいこと言うわねぇ。でも……そこが良い気もしてくるわ」

 声音を低くして呟いた淫魔は、両足にぐぐぐっと精一杯力を込める。

 すると、その足場になっていたコンクリートの天井に大きな亀裂が走っていくのと同時に、ビシビシと天井が割れていく音が生まれていった。

 つまりこれは、

 強力な踏み込みである。

「じゃあまずは、お気に入りのアナタからねッ!」

 舌なめずりをして、淫魔は力が溜まりに溜まった脚力を利用し、ロケットのように真っ直ぐ突っ込んでいった。

 結果、踏み込みに耐え切れなかった天井は崩れ、外の日差しが少しだけ差し込んでくる。

 風を切り、空気を突き破りながら進んでいく淫魔の狙っている標的は、夜来初三ただ一人だ。

(……コイツ、バカか? 俺にサタンがとりついてるって事を分かってんなら『絶対破壊』についてだって知ってるはずじゃ……)

 自分の体―――触れたもの全てを破壊することが出来てしまう、殺人兵器そのものであるボディ。その黄泉の国への入口に堂々と突っ込んでくる淫魔に夜来は純粋に疑問を抱いた。なぜなら、自殺志願者と思われても仕方ない行動を淫魔は取っているのだから。

 夜来の体に触れてしまえば淫魔は体を内側から破裂させられたり、首を吹き飛ばされたりして……つまり、壊されて昇天することになる。

 だというのに、淫魔は自分から、自ら、己から夜来の体に迫ってきているのだ。

(まあ良い。とりあえず、内臓の位置ィ入れ替えてやってから挽肉にしてや―――)

 と、悪人らしく笑いながら今後の戦闘プランを大雑把に思案していた夜来の腹部に……。

 突然大きな衝撃が走った。

 その正体は、淫魔の放った前蹴りだ。

「―――ッ!?」

 呼吸をして取り込んでいた最中だった酸素を全て吐き出し、その苦痛によって顔を歪める。さらには軽く十五メートル近く吹っ飛んでいった夜来は、コンクリートの壁に猛烈な速度で激突した。

 壁には巨大なヒビが入る。さらには大きすぎる衝撃のせいで、パラパラと落ちてくるコンクリートの粉さえある。

「が、っは……!?」

 血をシャワーのように吐き出しながら咳き込み、呼吸を整えている夜来に向かって、淫魔は自分の口に手を当てながら意外そうに言った。

「あら? もしかしてアナタ、俺様には『絶対破壊』があるから大丈夫だーとか勘違いしていたの?」

「な……ガハッごほっッ!! ク、クソがッ! な、なんで効いてねぇンだ、よ」

「あのねぇ、アナタの『絶対破壊』はもともと、私たち悪魔の神様、サタン様の力なのよ? それなら、同じ悪魔の私が『弱点』を知っていたって不思議じゃないでしょ?」

 淫魔は教師のように説明を続ける。

「『絶対破壊』っていうのは、確かに強力なサタン様独自の力よ。でも、それは触れたものを壊せる力。つまり、『壊しきれないほどの鎧』を無数に装着すれば、あなたが私の鎧を全て破壊しきる前に私の攻撃が届くのよ。まぁ、サタン様と同じ種族の私が相手だったのが、アナタの敗因よねぇ」

 淫魔は夜来を蹴り飛ばすことに使用した綺麗な右足をひらひらと見せ付ける。



 その足は、うず状の黒い魔力に包まれていた。



 おそらく、その魔力こそが淫魔が言うところの『鎧』で、それを何重にも重ねて『鎧』をいくつも固めているのだろう。だから夜来の『絶対破壊』は『何重もの鎧』を短時間の内に壊しきることが出来ず、全てを壊せなかった結果、『鎧』に包まれている淫魔の足が夜来の体に直撃したのだ。

 壊している最中に押し込まれた蹴り。

 そう言った方がしっくりくるだろう。

 淫魔は夜来を指差し、精神的にも追い詰めてやろうという邪悪な考えを実行する。

「まぁ、所詮はただの人間のクズで無力だったってこと―――」

 しかし、

「黙れ」

 背後から聞こえた、ゾッとする一言が耳に入ってきた瞬間、咄嗟に振り向いた。

 本能的に、危険を察知して淫魔は振り向いた。

 そこには。



「……兄様に何してンだテメェ……!!」



 鬼がいた。

 血走った両目をギラつかせている世ノ華雪花が、野球のフルスイングの構えを取るようにして立っていた。

 淫魔を殺すために。

 夜来初三を傷つけた罰を与えるために。

 たったそのためだけに、

 鬼神である少女、世ノ華雪花は金棒を一切の躊躇いをせずに、ただ振るう。もちろん、淫魔という夜来初三を蹴り飛ばしやがったクソ野郎に向けてだ。

 妖怪、鬼とは。

 悪魔と違って、魔力という不思議な力は基本的に宿していない。

 しかし、鬼には悪魔だの魔物だのといった他の『怪物』達から頭一つ分飛び出た強大な力がある。

 それが。

 純粋な筋力。つまり『力』である。

 ゴォッッ!! 風を一刀両断しながら、三メートル近くある撲殺用武器は淫魔の美しい横顔に吸い込まれるように喰らいついた。ピンクの肉をえぐり取り、硬い骨にヒビを与えてしまう轟音が炸裂する。

「ッッ、あっガァああアああアアアアアアアあアアアああアアア!?」

 金棒で殴り飛ばされてスポーツカー並みの速さで床を転がっていき、激痛によって空気が震えるほどの絶叫を上げた淫魔は死にかけのセミのようにジタバタと暴れまわる。

 その顔は平和主義者な人間が見たらショックで倒れてしまうほど血まみれになっていて、悲惨だった。

 世ノ華の持つ金棒には、淫魔の顔の肉がしっかりと張り付いている。ついでに言えば綺麗だった皮膚も真っ赤な血も一緒にだ。

「兄様っ!!」

 決着がついたことを確信した世ノ華は、座り込んだままの夜来のもとへ走り寄った。

「大丈夫でございますか、兄様!!」

 うなだれている夜来の肩を大きく揺さぶって必死に声をかける。

 すると。

 夜来初三は口から唾液をペッと床に吐き捨てた。

「……回復したみたいだな。あー痛い」

 それに血が混じってないことを確認して、そう呟いた。

「に、兄様、お怪我のほうはもう大丈夫なのですか?」

「当たり前だろうが。俺ァサタンに憑かれてんだ。こんくらいの傷、一分ぐれぇ経てば塞がる」

 夜来初三は、涙目になって自分のことを心配している世ノ華の頭を、ぽんぽんと優しく叩いた。

「……悪いな、一人で片付けさせちまって」

「……い、いいんですよ。も、もう終わったことですから」

 顔を赤くしてうつむいた世ノ華は、内心「兄様に触られてる!」と狂ったような満面の笑みを浮かべて踊りを踊っていた。

 一方、夜来は完全に回復しきったことを悟ると、ダメージなど元から無かったようにすっと立ち上がり、携帯電話を取り出して七色夕那にメールを打つ。

 内容はもちろん、淫魔退治に成功したことの報告である。

「さーてと、そこで転がってるクソ悪魔をさっさと叩き潰さねーとな」

 メールを終えて携帯電話をポケットにしまった夜来は、溜め息混じりに呟いて今度こそ『絶対破壊』で淫魔を始末するために動き始める。

 すると、世ノ華が泣きそうな顔で、後ろから心配をかけてきた。

「兄様、気をつけてくださいね?」

「ふン。次、喧嘩売ってきやがったら確実に殺してやんよ」

「いえ、淫魔のほうではなく。私いま、兄様に触られて欲情しているので」

「背中見せられねぇじゃねぇか!」

 バッと振り向き、すでに背後に息を潜めていた世ノ華から距離を取る夜来。息遣いが荒い世ノ華は、「はぁはぁ」と、はしゃぎ終えた犬のように吐息を漏らしている。

「はぁ、はぁ、も、申し訳ありません兄様、はぁ、はぁ、我慢できない、はぁ、です」

「ふ、ふざけんじゃねぇぞクソガキ二号―――」

 と、くだらないやり取りをしている瞬間に、



 血が舞った。

 夜来初三の背中から、真っ赤な血の花が咲いた。



 ちなみに。

 理由は実に単純明快である。

「あッッがァあああああああああああああああああああああああああ!?」

 そう絶叫を上げた後、激痛によって意識を失いかけてしまう哀れな者こそ―――夜来初三の隙を突いて、背中に襲い掛かった下級悪魔・淫魔である。

 淫魔は奇襲に失敗したことを悔やむ暇もなく、失った片腕の傷口から飛び出てくる血液を必死に押さえ込んだ。

「……ったくよぉ、ビッチの行動パターンなンざサルと大差ねぇんだよバーカ」

 背後から背中を引き裂こうと襲い掛かってきた淫魔に、『絶対破壊』による反撃を行使した夜来。彼は自分の背中へ淫魔が触れた瞬間に片腕を壊してやった。

 肘から先を吹き飛ばす、という方法で壊してやった。

 案の定、淫魔は自分の肘から先がない腕を見て失神しかけているし、眼球がグラグラと揺れているので、焦点が定まっていないのだろう。

「な、なん、で、私の『鎧』が……」

「あぁ? ああ、あれねぇ……正直あんま意味がねぇんだよなぁ。いやいや黙っててごめんねー? テメェの自意識過剰っぷりに腹の中で爆笑してたんだわ、ハハ!!」

 対絶対破壊用の、魔力で作った『鎧』を装着した上での奇襲だったというのに、それを叩き潰されてしまった淫魔は困惑が隠しきれていない顔をする。

 夜来は鼻で笑う。

「簡単な話だ。お前の『鎧』を壊すんじゃなくて、『空間自体』を壊しちまえば良い」

「く、空間?」

「そうだ。テメェの『鎧』だの体だのを壊すんじゃねぇ。テメェの『体がある場所の空間そのもの』を『絶対破壊』でぶっ壊してやったんだよ。まぁ、そのせいで呪いの侵食に激痛が走ったが」

 つまり、ターゲットの変更である。

 淫魔の体が『鎧』のせいで壊せないのなら、その腕がある場所の空間自体を壊してしまえば良い。

 そうすれば、必然的に腕も一緒に壊れてしまう。

 夜来初三は。

『壊す対象』を少し変えるだけで、こんなにも簡単に『弱点』というものを克服してしまったのだ。

「ンじゃ、ボチボチ始めるとしますか」

 夜来は床に座り込んでいる淫魔のもとまで歩み寄っていき、親が子供を褒めるときのように、淫魔の頭の上へ手を乗せた。

「な、なにを……」

「あばよ、ちっぽけな悪。テメェの悪は思ってた以上にちっぽけだったぜ」

 男を寄せ付けて、ただ性的快楽を味わうだけの下級悪魔。

 己の私欲オンパレードで男を餌にするような小さな悪なんて、夜来初三は絶対に認めない。

「本物の悪ってのはな、関係のねぇ野郎どもにゃ迷惑かけねぇんだよ。それをお前は、雪白千蘭にとりついて男をバカみてぇに寄せ付けっから、関係のねぇ雪白千蘭に被害が出てんじゃねぇか。ンなモンは悪じゃねぇ。ただのバカがすることだ、犬畜生が」

『絶対破壊』の力を淫魔の頭部に乗せられている手に収束させていく夜来は、最後にこう言った。

「授業の時間だァ小悪党。本物の悪ってモンを教えてやンよ」

 まばたきをした後に映ったものは、コンクリートの床ただ一つ。

 そして、この場に存在する者たちの名は。

 サタンに憑依されている少年、夜来初三。

 弱体化した鬼に憑依されている世ノ華雪花。

 この二人の『悪人』と。

 ……『淫魔の呪い』から解放された、気絶したままの雪白千蘭という美少女だけである。

 


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