天空に君臨せし魔王
夜来初三は大型飛行機の中に潜んでいた。これはノルウェー行きの一便であり、尚且つ空から北へ向かえる故に移動手段にはもってこいだった。行き先はひとまずノルウェー。そこから先は辿り着く前にいろいろと考えておけばいい。
しかし。
ここで問題なのはパスポートも何も持っていない夜来初三が、どうやって飛行機へ乗り込んでいるかだ。もちろん客として椅子にふんぞり返ってるわけじゃない。ましてやネズミのように上手く侵入して隠れるような面倒な真似もしない。
では、一体どうしたか。
そんな疑問を思案することはない。
大型飛行機をハイジャックして、運転手以外のキャビンアテンダントや乗客者達を全て飛行機の後ろに片付けておいただけなのだから。
殺してはいないのだろう。彼は雪白と自分の邪魔になった者は殺すが、その辺に転がっている小動物は眼中にさえない。鎮圧したキャビンアテンダントや客は何人か血を口から流している者もいたが、きっと、夜来初三は彼らを『人間』として見ていないから殺さなかった。
人、じゃない。
道端に転がる石ころ、なのだ。
故に夜来初三は彼らの『命』なんて微塵も見ていない。だからこそ、命を認識されるまでもない小物で石ころ同然だったからこそ、夜来初三に彼らは殺されずにすんだのだ。
奇跡だ。
ここで夜来初三に『邪魔』と認識されるだけの存在だったならば、確実に殺されていた。
これは奇跡だったのだ。
だがしかし。
操縦者だけは、違った。パイロットだけは、この飛行機を支配する大きな存在だった故に、はっきりと悪魔の眼光に射抜かれている。
パイロットの一人は、生唾を思わず飲み込んだ。
(は、ハイジャック!? こ、この周りが雲の海に見える高度で!?)
場所は操縦室。
素人では何一つ意味もわからない機械に囲まれた部屋では、二人のパイロットが顔を青ざめていた。背後に立つ東洋人の男が彼らの恐怖心をグチャグチャにかき回す。
「よく映画とかでよぉ」
ふと、ピリピリと張り詰めていた操縦室の中で、禍々しい声が響いた。夜来初三。彼がパイロットの一人のもとへ近寄っていき、その髪の毛を強引につかみあげた。軽い悲鳴が轟くが、痛みに顔を歪める男パイロットは夜来初三の目を見て即座に息を飲む。
この目は人間じゃない。
この闇を吸い込んだような眼は、自分という人間風情が抗っては飲み込まれる地獄の入口だ。
「パイロットが本部と通信取って、何だかんだで警察に連絡入れるような真似するだろ。特別なサインを言葉の中に隠して伝えたり。あれ、やめろ。抵抗するな。それだけだ、後は大人しくノルウェーに行け」
そう告げて、夜来は髪の毛から手を離す。
耳元で囁かれた夜来初三の声を聞き取っていたパイロットは、もう一人の相方と目を怪訝そうに合わせる。意味がわからない。結局、あの男は何のためにハイジャックをしたのか分からなかった。
金を要求さえしない。
何もせずに機内を鎮圧しただけ。
疑問を抱えるパイロット達だったが、そこで夜来初三の声が再び降り注ぐ。
「これ、もっと速く動かせ。スピードを上げろ」
日本語だが、パイロットの一人はそれを理解できるらしく、フルフルと首を横に振った。震える声を無理に鳴らして、綺麗な日本語で返答を返す。
「む、無理だ。これ以上は機体に負荷がかかる。それに、そ、そもそも急いで速度を上げることはないはずだろ? このペースでいいんじゃないか?」
「……スピードを上げろ」
「い、いや、だから無理だって。既にこれが出せるギリギリのラインだ! 戦闘機だとかなら話は別だが、この機体はあくまで旅行客を中心とし―――」
そこで。
パイロットは見て、聞いて、分かってしまった。
ズプリ、と。
隣の席に座る相方のパイロットの腹部に、鉄パイプが突き刺さった光景を。
そのパイプが機内にあったものだとは分かる。しかし、どうして鉄パイプ何かが同僚の腹を突き破っているのかは分からない。理解なんて出来ないし、何より、その突然の血の匂いに脳が追いつかない。
そのパイプを持っているのは、夜来初三。彼が間違いなく椅子ごと男を刺したのだ。
しかし、なぜ……?
そんなことを思う呆然としたパイロットに、夜来初三は言った。
「これで急ぐ理由が出来ただろ。さっさとノルウェーに行け。じゃねぇとコイツが手遅れになるぞ」
ビクビクッ!! と背もたれに体を預けている同僚パイロットの体が跳ねた。椅子から突き刺さっているパイプを、夜来初三が片手で回してグチャグチャとかき混ぜたからだ。
まるで卵をとくような調子で。
彼は人の内蔵をメチャクチャにする。
「ご、っは……!? つっがっぷぼぇ……ッッッ!?!?!?」
豪快に血を吐き出す同僚の姿は、あまりにも無残で残酷だった。血が目の前にあったハンドルや機材にかかり、白目を剥いて死にかけのバッタのように痙攣している。
椅子を永遠の安楽椅子にしてしまう寸前だった。
「やめろ!! 分かった、分かったからもうやめろ!! それ以上やったら死ぬっ!! いくらでも速くするからもうパイプを動かすな!!」
「五分だ」
「……は、は?」
「五分でノルウェーに着け。着かなかったらコイツを殺す」
無理に決まっている。
しかし、夜来初三はギョロリと生き残ったパイロットを睨みつけてからスタスタと退出していった。扉を閉めて大勢の椅子が並んだ客席へ戻る。確かに無茶苦茶な命令だとは自覚していたが、ああでも言っておけば少なくとも本気で機体を飛ばすことだろう。
日本語を話せるあの男は、自分の命令を理解できる唯一の存在故に殺さなかった。
だが、もう片方の男は必要なかった。だから命を利用して、速度を上げさせるエサにした。
それだけ。
それだけの考えで、夜来は人の内蔵をパイプでかき混ぜたのだ。
狂っている。
しかし、その狂い果てる理由は、客を全員排除したことですっからかんの客席の群れの中にあった。
(……ああ、よく寝てる。今は少し楽なのか)
雪白千蘭。
椅子の背もたれを倒していることで、簡易的なベッドになっている席に寝ている彼女のためだった。彼女のために、うるさい客やキャビンアテンダントをボコボコにして後ろへ放り投げた。彼女のために、機内を乗っ取って静かでエアコンの効いた環境を与えた。彼女のために、一刻も早く目的地へたどり着けるようにパイロットの一人の腸をグチャグチャにした。
全て雪白千蘭一人のため。
彼女のために、彼はこれだけの暴虐を繰り返したのだ。
(すぐに治してやる。すぐに笑わせてやる。だから安心して寝てればいい)
微笑む。
優しい笑顔を雪白に『だけ』は向ける。
他は潰す。
彼女以外は薙ぎ払う。
それこそが、今の夜来初三の全てだった。
「……は、つみ?」
目を覚ました雪白。
彼女は自分の頭を撫でている夜来に気づいたようで、生気のない目を向けてきた。
「こ、……こは、……どこ、だ?」
「飛行機だ。すぐに治してやる。待ってろ」
夜来は雪白を抱き起こした。そのまま自分も客席の一つに座り、彼女を膝に乗せて背後から包むように腕を回す。
「温かいか? 欲しいものはあるか? 何でも言え。すぐにやってやる。お前は俺に願えばいい。そうすれば、全部俺が叶えてやる。さ、何が欲しい?」
今の夜来初三ならば、それこそ雪白のために一国を潰しに行くことだってする。何でも願え、とは本当にその願いを叶えてしまう悪魔の囁きだった。
だが。
雪白は、ボソリと言った。
後ろから回されている彼の腕の袖をきゅっと掴もうとする。しかし手が動かない。指先もピクピクと跳ねるだけで、自分から彼の体に触れることすら叶わない。
でも、口は動く。
だから願う。悪魔に願う。
「お、ま……えが、いれば……良い。だか、ら……離れないで、くれ……ずっと一緒にいて、ほ……しい。……それ、だけでいい」
夜来初三は何も言わなかった。
代わりに、雪白のことをより一層抱きしめた。
(……ふざけんなよ)
怒りが再び湧いてきた。彼女をこんな状態にさせて、苦しめて、痛めつけている全てが憎い。その殺意は胸の内で風船がパンパンに膨らんでいるように膨大だった。
もう、些細なきっかけ一つで。
(……ふざけんじゃねぇっつってんだよ)
破裂してしまうほどに、手遅れな激情。
(こいつが、何でこんな目にあってる……ふざけんじゃねぇ。結局はなんだ。雪白は何でこうなった。こいつが何をしたよ……息を吸って吐くだけしか出来ねぇ体になるほど、こいつは、何をしたってんだよ……)
頭に血が上っていくことが分かる。
顎が砕けるほどに、歯切りしを鳴らしていることが分かる。
だが。
そんな闇だけで構成された夜来初三を、また光は照らしてくれた。
「……怒って、る……のか……? 短気は……直せと……言ったろ……」
「……」
「大丈夫、だから。私が、いるから。……私が、お前を護るから」
雪白千蘭は、そう言った。
指先一つ動かせず、呼吸活動に必死になっていなければ息さえも出来ない状態になってまで、彼女は夜来初三にそう告げたのだ。
お前を護るから。
それは夜来初三が雪白に放つセリフであって、決して現在の雪白が紡ぐべき言葉ではない。しかし彼女は守っていた。夜来初三の心を、悪に染まろうとする精神を、彼の内側を支えてくれていた。彼の身を支配する闇を打ち払うべく、常に守り続けてくれた光。
だから。
こんな状態の雪白に守ってもらっている今の自分には、情けない気持ちしかない。ここまで来てもなお、彼女に背負われている自分は、やはり弱者だと実感していた。
(俺は弱者だ)
絶対的な実力を持つアルスも言っていた。
お前は弱者だと。
今になって、それを彼は心から肯定できてしまうのだ。
(弱者だよ。ああ最弱だ。だがそれでいい。別に最強になろうってんじゃねぇ。どんだけ無様でも、どんだけ最弱でも、どんだけ三下だろうといい。全部殺せるなら、それ以上は望まない)
全ては雪白千蘭に永遠の安全を与えるため、彼女を二度と苦しませない為に、全てを葬れるならば他に希望はない。殺人鬼の汚名も背負うし、凶悪犯罪者の烙印だって受け止める。そんなことで彼女を守れるのならば、もはや幾らでも闇に染まれる。
もっと黒へ堕ちろ。
もっと闇へ堕ちろ。
もっと悪へ堕ちろ。
結論は出た。
人間という心を捨て、完全完璧な絶対を超える究極の悪へなり果てろ。後ろを振り返るな。自分が進むべき道は地獄であって絶望の深淵。光に惑わされるな。死んで地獄に堕ちた後も地獄をさらなる地獄に支配してやれ。全ての命を血塗られた我が手で握りしめ、いつでも容赦なく全てを絶命させる悪であれ。
ただ一人。彼女だけを救うために。
万物全てを敵に回す魔王となれ。
己の視野に映すものは漆黒の一本道ただ一つ。
自分が持っている全ての悪を凝縮して世界を滅ぼせ。
「俺は、やっぱり、悪だ」
決意を固めた。
邪悪な決心を確定させた。
二度と光が差し込まないほどの、完全な闇を受け入れてしまった。
「だから、俺は、やっぱり、殺して護る。それしか知らない」
そう言って、雪白に微笑んだ。この命を護ると悪人は再確認したのだ。
そのとき。
バゴンガゴンッッ!! と、天井から衝撃が走った。それだけでは終わらず、横の壁からや機体全体が大きく揺れる。天井は至る所がへこんでいて、明らかに何者かが機体の上に飛び乗ってきたと推測できる。しかし問題なのは、この高度四千メートルを飛空している大型飛行機にどうやって飛び乗るか。
そんなことを実現出来るのは、奴らしかいない。
『エンジェル』だ。
(……来たか)
いつかは来るだろうと分かってはいた。アルスという男が自分の意識を刈り取る前に『破壊のコントロール力を上げてもらおう』と告げていたことを考慮すると、恐らくは『こういうやり方』で夜来を鍛え上げるようだ。ひたすらに殺し合わせて、ひたすらに魔力を振るわせることで、計画の道具を完全なものへと成長させる。
「ど、うした……? なに、か、あったのか……?」
「……何もねぇ。お前は寝てればいい」
夜来は言って、雪白を椅子に寝かせる。体には念の為に毛布をかけてやって、可能な限り温めておいた。この白い体には指一本触れさせない。この真っ白な少女に汚れが付着するなんてことは、あってはならない現実だ。
だからこそ。
あいつら泥人形は早急に駆除するべきである。
「すぐに戻る。待ってろ」
夜来初三は立ち上がって雪白の頭を一度撫でた。
そして温もりを確かめてから、己の前髪に一本のピンを留めた。右顔が露わになる。そして彼女の白い前髪にも、同様の髪留めをつけてやった。
「同じだ。同じモンをつけてる。これで安心だろ」
「……ああ。……す、ぐ……また、会えるな……」
「そうだ。だからお前は待ってればいい」
夜来は今度こそ戦場へ向かおうとした。
だがしかし、そのタイミングで雪白はこう言ったのだ。
「また、……自虐なんて、してないよな……? また、悪い奴になろうなんて、思ってないよな……?」
「ああ。安心しろ」
一切、躊躇うことなく嘘をついた。
しかし雪白は、その一言で心から安堵したのか、
「私が……待ってるから、すぐに、寂しくなったら……帰ってくればいい、からな」
「……ああ。すぐに戻る。寝てろ」
夜来初三は直後に、彼女との約束を守るために、ずっと一緒にいるべく即座に行動を開始した。あの命の脅威となる障害を打ち砕くために。あの白い体を血で汚そうとするふざけた輩を破壊するために。
ガゴッッッ!! と、天井を突き破って飛行機の屋根へ姿を現す。
高度四千メートル、雲海という白い世界が広がる天空に、一つの黒が降臨した。
ギョロリと目玉を動かして確認すると、どうやら追っては五人ほどらしい。ゴツイ装備に囲まれている五人の襲撃者達は、いきなり現れた魔王の姿に思わず動揺して後退する。しかし己の任務を思い返したのか、すぐに手に持っている銃器の照準を夜来の黒服に突き立てる。
「……ろ……が」
ボソボソと、夜来は何かをつぶやいていた。
まるで呪いの儀式でも始めているような、背筋が凍る声が雲に囲まれた空で鳴る。
『エンジェル』の襲撃者達は、全員が全員耳を立てて聞き取ろうとした。
そこで。
ハッキリと、全ての心臓を摘み取る闇を飲み込んだ夜来初三はこう言った。
「……ドタバタドタバタ、足音うるせぇんだよ。あいつが寝れねぇだろうが、あ?」




