ファンタジーの化身
木々のざわめきが鼓膜へ届く。葉が枝から飛び離れ、風にのってしばらく空を泳ぎ、いずれは重力に従ってカサリと地面へ落下する。そんな些細な音さえも聞き取れる静寂。まさしくそれが、大柴亮と上岡真の間で発生している世界だった。
「上岡さん。逃げる暇なんてない。今すぐ連中を叩きに行くべきです」
「……」
変化のないやり取りである。しかし大柴は、なかなか指にかけている引き金を引く様子がなかった。躊躇っているというよりは、少しでも時間を作って引き金をひかない展開に持っていこうとしていた。理由は単純。上岡真の気持ちも、人間としてならば少なからず分かるからだ。理解し、共感し、納得できるからだ。
だが。
悪党としては微塵も理解できない。理解してはいけない心であるのだから。
再び静寂が流れる中で。
突如、
崖の先から竜のような化物が浮上してきた。
一対の翼に鋭い牙、鱗を持った頑丈そうな皮膚から見るに、間違いなく竜であろう。
「「ッ」」
忘れてはいけなかった。ここは敵陣のド真ん中である。故に敵に見つかって攻撃されることは、部屋の中を飛んでいるハエを叩き潰すようなもの。それくらい当然の出来事だった。
「チッ!!」
舌打ちを吐き捨てて、大柴は急いで黒塗りワンボックスへ乗り込んでいく。運転席に座り、的確かつ素早い動作でエンジンを一瞬でかけた。
ここまでの時間、わずか二秒という手慣れた動きである。
さらにアクセルを空き缶を踏み潰すような勢いで押し込み、ギュルルルルルルル!! とタイヤを高速で回転させて山道へ突っ込んでいった。整備なんてされていない道故に、激しく車内がガタガタ揺れる。
と、必死の逃走を始めた大柴の耳に。
「いやいやよかった。何だかんだで僕ついてますよねー。状況的に大柴さんも『悪党失格』になっちゃいましたね、はは」
いつの間にか助手席に座っていた上司。
彼の聞きなれた明るい声に一切の反応を見せず、大柴は高度な技術を持ってワンボックスを走らせる。
しかし余裕が出来てからは、速攻で胸の内を言い放った。
「あんたのせいだからな!! 全部全部マジであんたが悪いんだからな!! 責任持ってあれどうにかしろよドアホ!! あんなファンタジーの塊に狙わてれんのも何か知らんがシリアスな感じで仲間割れしたのもアンタ一人の不抜けた行動が原因なんだからな!!」
「あり? 何だかさりげなく敬語を忘れられてる気が―――」
「うるせぇぇぇぇええええええええええッッ!! うぜぇ!! うるせぇ!! 黙ってろアホ上司ぃぃイイイイイイイイイイっっ!!!!」
もはや聞く耳を持たない大柴。何だかんだでワンボックスの後ろには子供達の慌てる声が聞こえてくるため、結果的に、状況的に、本当に何だかんだで上岡の思い通りになってしまった。
非常にムカつく。
そして同時に、バックミラーに映る全長二十メートルは超えているだろうファンタジーの化身に顔を青ざめる。
(何だよありゃあ!? マジでモノホンのファンタジーじゃねえか!!)
今までもいろいろと非現実的な相手や能力を伺ったことはある。実際、自分以外のチームメイト三人は破壊ドS悪魔に、不老不死ゾンビ野郎に、怪物の集合体ときた。しかしどれもこれも形はいたって普通の人間なので、後ろから迫ってくるリアリティ溢れた竜なんてものは初経験だ。
「マジでどうにかしろよ!! あんた怪物なら怪物の一匹や二匹いけんだろ!? 行けよ!! 行って『怪物同士よろしくねテヘペロー』的なノリで友達になってこいよ!!!!」
「すんごいテンパってますねー大柴さん。何だか立場的に僕がツッコミキャラになれそうです、はは何か新鮮」
「感想吠えてる暇ァあんならアレどうにかしろよォォおおおおおおお!?!?」
さすがに大柴も竜から逃げるだなんて状況で、いつもの冷静沈着な判断は下せないようだ。めちゃくちゃな絶叫を上げながら、彼はハンドルミスをしたら命の終わりだということを肝に銘じてアクセルを踏みなおす。
そうして、ギュン!! とほとんど飛びながら整備がされた一般的な道路へ出た。国道だとありがたいことを祈りながら、ハンドルを切って白線と白線の間を進む。ようやく見晴らしのいい景色が訪れたことに安堵の息を漏らす大柴だったが、
(っ……!? あのバケモン、一般人もいるかもしれねぇここまで追ってきやがる!?)
「くそ、マジで理不尽だろが!!」
バックミラーには、未だにドラゴンの巨体が嫌というほどに映っていた。さらに注意深く観察して分かったことだが、だんだんと腹の辺りが膨らんでいる気がする。まるで水風船が作られていくように、次第に腹が膨れ上がっていくのだ。
「は、はは」
思わず、大柴は乾いた笑い声を漏らす。
竜が腹を膨らませる? そんなもの、ファンタジー系のテレビに映るアニメや映画で腐る程見てきたではないか。特別アニメオタクでも映画オタクでもない大柴だが、誰だって大方の予想はつく竜特有の行動。
すなわち、
「腹からファイヤーって厨二病の域超えてんじゃねえか!! クソッったれが!!」
グルン!! ハンドルを大きく回した大柴。彼は一気に車を右に寄せることで、竜の口から飛び出てくる炎を回避しようと的確な行動を取った。
だがしかし。
「っ!?」
現実は甘くない。竜の口から予想通り飛び出てきた炎は、大柴の『回避した場所をも飲み込む』膨大な規模だったのだ。炎なんて生易しいものじゃない。まるで太陽が落ちてきたかのような熱とサイズを誇っていた。
死ぬ、と誰もがそう思った。
しかしそこで、パチンと上岡真が指を鳴らす。彼の指同士が弾けあった音が車内で反響し、その行為に眉を潜めた大柴だったが……。
直後のことだ。
追尾してきた竜の腹が内側からパンパンに膨れ上がり、すぐさま血飛沫を上げて破裂してしまう。
犬が悲鳴を上げた時のような絶叫と共に、竜はその巨体を道路に墜落させる。地響きが炸裂した。竜の巨体が落下したことで、その振動がこちらまで伝わり、ワンボックスの車内がドスンと上下に一度だけ大きく揺れる。




