嫉妬
(……全っ然わからねぇぞオイ)
吐き捨てるように心で呟き、数学の教科書を穴があくほど見つめている夜来。
現在は一時間目の数学の時間だ。
故に数学の教科書を開いて目を走らせている夜来には特に問題がないのだが、不登校だった彼にとって『勉強』というものは基礎が成り立っていないので、授業に追いつけていないのだ。
日本語を書きたいのだが、そもそもペンを正しく握れないのと同じ状況なのである。
アニメや漫画などでは授業なんて聞かなくてもテストで満点を取るような完璧キャラが登場することがよくあるが、現実は甘くない。
故に夜来初三は勉強ができない。長年不登校だったから。
(ふざけやがって……! 何なんだよ因数分解ってなぁ。この公式は生きていく上で必要な知識か!? 無駄に脳みその空き容量減らすだけじゃねぇのか!? あぁ!? この問題考えたクソ野郎絶対ェ死体に変えてやる!! はらわたァこねくり回してやる!!)
自暴自棄に等しい状態だった。
問題作成者の殺害を決心するほどまでに彼は追い詰められている。
そしてついに。
「舐めやがってェ……!!」
バキィ!! 握っていたシャーペンを―――折った。
中に埋められていたスプリングやプラスチックなどが飛び散っていく。その様は明らかに噴火直前の状態だった。黒板の前で授業を進めている女性教師も、夜来のシャーペン破壊を見てしまい、青ざめた顔で震えている。
しかし教師として見過ごせなかったのか、女性教師は意を決して口を開き、
「や、夜来、くん。……そ、その、ね? ものは大切に扱ったほうが―――」
「そうですねぇ、反省しますゥ。本当反省しすぎて仏になれるレベルまで反省しますゥ」
ギロりと女性教師を睨みつけて返答を行った元不登校生徒。
教師の方は短い悲鳴を上げて震えながら黒板に文字を書いていく。……震えすぎて、もはや日本語として解読不可能は文字になったが。
夜来は短い溜め息を吐いて、
(授業、ダリィ……)
机に突っ伏してしまった。
それはもう、筋力が消えてしまったのかと錯覚するほどに脱力してしまっている。もはや教科書を開く活力すら沸かないようだ。
彼の怠けっぷりというか、やる気のなさを隣の席で見ている……というか堂々と凝視している唯神天奈は、教科書すら開いていな格好だった。
視線に気づいた夜来は、唯神に顔だけ向けて、
「ンだよコラ。何か文句でもあんのかよ? 俺がバカだとでも言いてぇのかよ? そうだよ俺はバカでアホでスクラップだよ文句あんのかコラ」
「……いや、君が勝手に自分を傷つけているように見えるんだけど……」
唯神は夜来の机に広いたままの彼の教科書を指し示し、
「それ、答えは3x+2y、だよ」
「……見ただけでわかったのか……?」
なんと彼女は、問題文を一瞬視界に収めただけで、あっさりと難問を解き明かしてしまった。仰天している夜来だったが、まだ半信半疑である。
しかし、そこでタイミングよく、唯神が解いた問題の答え合わせに選ばれた雪白が立ち上がって、
「その問題の答えは3x+2yです」
「正解です! さすがですね雪白さん!」
先生の感心する声が響いた。
雪白の答えと唯神の答えは完全一致だ。つまり唯神の解いた正解は正しいことになる。
夜来初三は隣席の少女に視線を移して、
「テメェ、勉強できるタイプの生き物か」
「人間と言って欲しいね。しかしまぁ、確かに私は勉強が得意だ。反論はしないよ」
「……ふーん」
会話はやはり弾むことがない。
そもそも夜来初三もコミュニケーション能力は限りなく低いし、つい最近まで不登校だった身だ。さらに唯神天奈まで人と付き合うのが苦手ならば、尚更弾む会話など行えるはずがない。
唯神は面倒くさそうに溜め息を吐いて、
「……退屈、だね」
「……同感だ」
夜来初三も溜め息を吐いて、
「……授業、暇すぎるだろ」
「……同意、だね」
彼女と彼は似た部分が多い。
面倒くさがりなところや、人付き合いが苦手なところ。無愛想なところや、コミュニケーション能力が低いところ。夜来もそのことには気づいているようなので、、
(同類……か)
そう思った。
「んで、お前みたいな孤独好きな女が俺に喋りかけるたァ、どういう了見だ?」
「別に理由はない、よ。ただ、君は他の人間と違って共感できそうな人だから、話してみただけ」
どうやら彼女も夜来と自分が似た人間だと気づいていたようだ。確かにそれならば、同種の人間に興味を持ったという理由で夜来に話しかけたと納得がいく。
彼女は時計に目をやる。
もうすぐ授業が終わる時間帯だ。
「あと、五秒で終了だね」
「……中学生にも、そういう授業終わる時間正確に把握してる奴いるよな」
彼女は苦笑する。と、そのタイミングと合って授業終了のチャイムが鳴り響いた。教師も退散し、生徒達は各々の休み時間を満喫し始める。
夜来はまた雪白の機嫌を損ねないように、彼女のもとへ行くために椅子を引いて立ち上がった。しかし雪白の姿はどこにも見当たらず、キョロキョロと教室に目を走らせる。世ノ華の姿さえない。二人でどこかに行ったのだろうか。
すると、
「おい、夜来」
眼鏡をかけた男子生徒の一人がドスが効いた声で脅すように話しかけてきた。
気づけば他の男達にも囲まれてしまっていて……明らかにクラスメイトとの交流、などの平和的な考えはなさそうだった。敵意に満ちた眼光をどいつもこいつも光らせている。
隣席で読書を始めている唯神天奈は、眉をピクリと動かすだけの反応を見せた。
「あぁ? なんだよ」
「ちょっと、話がある。ついてこい」
少し、夜来の目つきに鋭さが増した。
命令されたことに腹が立ったのだろう。
「おいおいどうしたなんだよその口の利き方はァ? モブキャラAの分際でこの俺になに命令してんだよ。あぁ? しばかれてェのかな、メガネくぅン?」
「―――っ」
圧倒的な恐怖を感じた眼鏡の男子生徒。
しかしここで引くわけにはいかないのか、
「い、いいから来い!!」
そう叫び声を上げて、無理やり夜来の手を引いて歩き出す。他の男達もゾロゾロと後を追っていき、教室から姿を消した。
連れて行かれたのは空き教室だった。
机や椅子は全て後方にびっしりと整えられていて、明らかに使われているような跡はない。誇りも棚の上などには溜まりに溜まっているし、正直空気も濁っている。
早急に立ち去りたい場所だが、今は目の前にいる男達の話を聞かなければならないようなので、夜来は壁に背中を預けて寄りかかりながら、
「んで? 話ってなァ何なんだよ」
「雪白さんに近づくな」
夜来は小さな舌打ちを吐いて、
(どうせ、そんなことだろうと思ってたっつーの)
おおよその見当はついていたのだ。
男子生徒が敵意全開の雰囲気で夜来を呼び出すのならば、彼らが共通している『何か』が話題になるはず。しかも温厚に話し合うような感じではない。ならば、男子生徒全員が共通して抱ええている『不満』
が話というやつになる。
……なので『学校一の美少女と仲良くするな』とでも言いたいのだろう。つまり嫉妬丸出しの行動だ。
「もう一度言う。二度と雪白さんに近づく―――」
「無理だね」
即答で拒否してやった。
「俺ァ単純に雪白の奴と一緒にいるのを気にってるし、雪白の奴から『私の傍を離れるな』とか言いつけられてるし、一緒にいるっつー約束もしてるんで。無理だ」
「雪白さんが貴様みたいなクズと一緒にいたいと思うわけがないだろうが!! それは雪白さんの気遣いなんだよ! 夢見てるんじゃねぇよバカが!! 雪白さんだって本当はテメェみたいなカスと一緒にいたら気持ち悪いに決まってんだろ!!」
激昂した男子生徒。
それを彼は鼻で笑って、
「ああ、まったくの正論だ。お前の言うとおりだ。くっくっく!」
あっさりと肯定した。
首を縦に振って、笑いを堪えるようにこくこくと頷く。
その思いもよらない反応に、他の男子生徒達も少し動揺を見せる。
「俺みてぇな悪党が雪白の奴とつるむのはどうかと自覚してんだよ。でもよぉ、それをさっき雪白に言ったら、めっちゃキレられたンだわ。だから俺、雪白さんのことが怖くて怖くて仕方ないんだよぉ。離れたくても、怖くて離れられねぇんだよ。だからさァ―――」
眼鏡をかけている目の前の男子生徒を指差し、
「テメェが雪白に言ってくんない? もう夜来くんとは関わらないでください、ってよォ」
「そ、それはダメだ!!」
彼は理解不能な否定の声を上げて夜来の胸ぐらをつかみあげる。
なぜ、ダメなのだろうか。
「ゆ、雪白さんは優しいから、お前から離れたりしない。だからお前が雪白さんから離れろ」
……なんとも理不尽な状況なのだろう。と、夜来は思った。
しかしこれは別に雪白のせいではない。彼女の容姿が良いだけで目の前の男達は嫉妬に狂っているだけなのだから、雪白のせいにするのは明らかにお門違いだ。
見た目がいいだけで、これだけのバカ男共を惹きつける彼女には同情さえする。
いい加減面倒くさくなってきた夜来は、
(……ちっと脅してとっとと帰るか。これ以上は面倒くせぇし)
殴るような真似はさすがにしないが、襟首を掴んで軽く大声を上げて怯ませようと考えた。他にも男子生徒達は五人程度いるのだが、もしも乱闘になったとしても負けることはない。
なので、作戦実行を行おうと決断したのだが。
「おいコラ眼鏡。あんま調子に乗ってんじゃ―――」
そこで空き教室のドアが乱暴に開かれた。
「夜来!!」
「兄様!!」
そして二人の少女が乱入してきた。
なんともベストタイミングなのか最悪のタイミングなのかは、被害者である夜来が一番よく分かっていない。しかし、彼が雪白千蘭の顔が怒りに染め上げられた瞬間を見たのだけは確かだ。
「雪白さん!? ち、違うんです!!」「そ、そうです! 俺たちは雪白さんのために」「そ、そもそも夜来が悪いんですよ!! 調子に乗りすぎなんです!!」
彼らの言い訳の嵐を一通り耳に入れた雪白は、近くにあった必ずどこの教室にも設置されている掃除用具から一本の箒を取り出して、
「―――なぜ、お前如きの汚物が夜来に触っているのだ?」
眼鏡をかけた男子生徒が夜来の胸ぐらを掴んだままの状態を見て、雪白は言い放った。
冷たくもあり、鋭くもあり、憤怒に満ちた声で、だ。
「い、いや、その―――」
ようやく夜来から腕を離した男子生徒。今思えば、胸ぐらをつかみあげていた彼は乱入してきた雪白達から見て脅迫行為を行っていたように見えたのだろう。
雪白は静かに歩き出す。
足音も鳴らさずに、ゆっくりと、ふらふらとした危ない足取りで、夜来初三を脅迫していたカスを処理するために歩いていく。
「答えろ。何をしていた……?」
「い、いや、だ、だから、雪白さんを狙ってるクズに軽い忠告を―――」
「クズ、だと……!?」
ガン!! と、箒を床に叩きつけた。
男子生徒達は驚きでびくりと体を跳ねさせる。
「今、貴様は、夜来をクズと評価したんだな? 貴様らのように私の外見だけを見て欲情し、迫ってくるようなゲスとは違い、会ったばかりだった生意気な私を救ってくれて、命をかけて助けてくれて、普通に接してくれて、他のゲス共とは比べることさえバカバカしいほどの夜来初三を……クズと評価したんだな!? そうなんだな!? 間違いはないだろうな!?」
「ゆ、雪白、落ち着いて!!」
彼女のあまりの激怒した姿に危険を感じた世ノ華は、肩を叩いて落ち着かせる。しかし雪白は歩行を早めて、握っていた箒を潰す勢いで握り締め、
「落ち着け? 私は十分落ち着いているさ。安心しろ。そこのゲス共の汚らしい肉体をそこの窓から落ち着いて放り投げるから大丈夫だ。絶対殺す。殺してやる。なにもしていない夜来をこんな目に遭わせたゴミだけは生かしておかない。完全確実に殺して絶対完璧に殺す―――殺すッ……!!」
決意を固めたその瞬間。雪白は持っていた箒を夜来の胸ぐらをつかみあげていた張本人である眼鏡をかけた男の脳天に振り下ろした。
ゴン!! と、衝撃音が周囲一体に響く。さらにそれだけでは収まらず、雪白は激痛に悲鳴を上げている男の顔面にも箒の先端を容赦なく叩き込んだ。
男は吹っ飛び、転がって気絶する。
そして豹変した少女の姿に呆然としていた夜来に、彼女は気づいた。
「大丈夫か夜来!? 怪我はしてないな!? 何もされていないな!?」
箒を捨てて彼の胸に飛び込んだ。
雪白は目に涙を浮かべていて、とても心配をしていたことが分かる。
夜来は彼女を少し自分から引き離して、
「あ、ああ。全然大丈夫だ。つか、俺がンな簡単にやられるように見えるのか?」
「よかった、よかった……!! 心底心配したぞ、阿呆が……!!」
いつも雪白はクールだ。
素っ気なくはないが、どこか大人びた雰囲気や態度を取っている。武士のように生真面目なところがあり、本心を告げるときは少々頬を赤く染める。女らしくはない男のような喋り方が特徴的でもある。
そんな性格なのが雪千蘭白だが、彼女には優しさの心も豊富だ。
が、しかし。
今回は明らかに彼女は鬼と化した。
非情なまでに敵を叩き潰し、情けをかけることなく沈めた。
これは豹変を上回るレベルの豹変だ。
当然、夜来は度肝を抜かれている。初めて雪白千蘭に恐怖を感じたほどだ。
「あなた達、ひとまずその気絶してるバカを持っていって消えなさい」
そこで、世ノ華が男子生徒達に撤退命令を出している声が聞こえた。
雪白が想像以上に怒りを覚えている状態に危険を感じている世ノ華は、ひとまず男達を避難させることを優先したのだ。彼らは雪白によって叩き潰された男を担いで、恐怖に身をすくめながらも空き教室から退散していく。
「大丈夫ですか、兄様!!」
「ああ。問題ねぇ」
即座に夜来のもとへ駆け寄る世ノ華。
雪白と同様に心配の声をかけてきた後に、夜来の返答を聞いてから安心の息を吐く。
すると。
「おい世ノ華。なぜあのゲス共を逃がした」
「……仕方ないでしょう。それに、あいつらは兄様に手は上げていなかったわ。なのにアンタがあそこまでボコボコにしたから、先生に報告するとこっちが不利になるだけよ」
確かに雪白の行った攻撃は正当防衛どころか過剰防衛なほどだ。この件を教師に知られてしまえば、雪白に何らかの処罰がくだされる。
「……良いだろう。夜来が無事なだけでも良しとしてやる」
渋々了承する雪白千蘭。その美しい顔には不満の色が残ったままだ。
夜来はようやく現状までの事態を呑み込めたようで、一番の疑問を尋ねることにした。
「ってか、お前らは一体どこのどいつに俺が連行されたのを聞いたんだよ。つーか今までどこ行ってたんだ?」
「えーっと、私たちはトイレに行って……クラスに戻ったら、あの人が教えてくれました」
机で睡眠を取っている少女。
よくもまぁ座った状態でそこまで熟眠できるな、と心底感心できるほど眠りの世界へ入っている。夜来初三はその眠り姫の机をコンコンとノックをするように叩く。
少女、唯神天奈は覚醒した後大きな伸びをした。そして自分を見下ろしている夜来に首を傾げて、
「なに、かな?」
「雪白達に俺があのクソ共に連れて行かれたこと、報告してくれたそうだな。……感謝してる」
「ああ、そんなことか。大丈夫、ちょっとした気まぐれ。夜九時に寝て朝六時に起きるくらいの気まぐれ」
「健康重視した睡眠時間だなオイ。今時そンな真面目な奴いねぇよ」
「そうだよ。だからそのくらいの気まぐれ。故に君は気にしなくていい」
唯神は自己完結するように頷いた。
そして再び睡眠の体勢に入ってしまう。
夜来初三も気にするなと言われれば、これ以上お礼の言葉を告げる気はない。黙って自分の席につく―――といっても結局は唯神の隣席なので大して距離は変わらない。
彼は彼で窓から見える景色を眺めて暇を潰すことにした。
もうじき二時間目の授業が始まる。
科目はなんだっけ? と考えていく内に、夜来も徐々に眠気へ襲われていった。おそらく学校という慣れていない場所にいるせいで疲れが予想以上に蓄積しているのだろう。
ウトウトとし始める夜来。
瞼が完全に落ちそうになった、そのとき。
「いいよ。寝ても。授業前になったら私が起こしてあげるから」
もう十分睡眠を取れたのか、唯神天奈が夜来のすぐ傍でそう囁くように言った。
しかし夜来初三は首を小さく横に振って眠気を吹き飛ばし、
「い、いや、いい」
「ん? そうかい? ならいいけど……」
残りの授業開始時間まではあと数分だ。その程度ならば睡魔に打ち勝つことぐらい夜来にだって可能なはず……だと本人も確信を持っていたのだが。
バタン、と突っ伏すように夜来は机に倒れて、眠りの世界へ入ってしまう。
やはり疲労だ。
そもそも不登校だった彼が二時間目開始寸前まで学校にいられるのは奇跡に近い。よって、休息を取るために眠りに落ちてしまっても仕方ないと言えよう。
唯神天奈は最終的に睡魔に敗北した夜来初三に苦笑し、
「やっぱり起こす必要性がある、みたいだね」
腰まで伸びた漆黒の髪を揺らし、深海を表すような紫の瞳を細めて笑う。
そして時計に目をやってから、まだ数分の猶予は残っていることを確認すると、机から本を取り出して残り時間を潰す為に開いた。
眠る少年の隣で本を読む少女。
彼と彼女は各々の時間を授業開始まで過ごした。
お互いに静かに、大人しく、音を立てるようなことをせずに。




