悪魔が作った虐殺の展示品
黒崎燐は呼吸を忘れそうになっていた。
なぜなら視界に映る全ての光景が現実とは思えなかったから。ただ血が散布されていく地獄絵図のそれは黒崎燐という頭に存在する脳みそ一つじゃ処理しきれない。
気づけば。
戦闘ではなく『虐殺』が始まって終わっていた。
「ハハ、ダメだわこれ。俺ってばエンジンかかってきちゃって歯止め聞かねぇよオイ。どー責任とってくれんだぁクソ野郎。あぁ? ここまで人のこと楽しませてんだから、ちったぁ気持ちよくぶっ殺されてくれるんだよなぁコラ」
五百人に単身一つで挑んだ悪魔には傷一つついていない。さらに驚くべき事実は、五百人いた武装集団が一分も経たずに『残り二人』になっていたこと。
悪魔はおそらく存在の格が違う。
銃弾が悪魔の体に突っ込めば蒸発するように消えるし、悪魔が軽く腕を振っただけでなぜか二十人近くの者は上半身から血しぶきが上がるし、悪魔に触られれば上半身と下半身を切断されて肉塊に変わる者もいたし、顔面をズタズタに引き裂かれて自分の肉がこびりついている者も転がっている。
残虐的なんてものではない。
嗜虐的なんてものではない。
悪魔にとっては『そんなことも思考していない』のだろう。ただ邪魔だから肉塊に変えた。ただ鬱陶しいから死体を生み出した。全てが悪魔と黒崎によっては考え方が絶対的に違う。
「なぁ、何をそんなチワワみてぇに震えてんだぁ? もうちっと笑ってくれよ、これじゃまるで俺がテメェらをいじめてるガキ大将みたいじゃん。ほら、笑え。もっとアヘアヘ笑って笑って笑顔で死ねよ。―――笑えっつってんだろコラァ!!」
悪魔はゆっくりと近づいていく。
その凶悪な笑顔が捉えているのは金髪の若い男だった。
「ひ、ひぃぃいいいい!! ゆ、許して! ご、ごめんあさい!! な、何でもするから! 頼むから助けてぇ!!」
金髪の男は思わず腰を抜かしていた。ペタン、と地べたに尻餅をついた金髪の男はジリジリと迫って来る恐怖から思わず涙を流していた。
ただし。
悪魔は気にも留めていないようで、
「何でもする、ねぇ……それってマジ?」
「な、ななな何でもする!! 頼むから、頼むから殺さないでください!! も、もももももうこんなことやめるか―――」
「ハハ、殺すに決まってんだろアホ」
そこで黒崎は気を失いそうになった。
ゴキィ!! という痛々しい音が爆発した。
なぜなら、悪魔が命乞いしている金髪の男の顔を容赦なく蹴り飛ばして首の骨を折ったからだ。グルン!! と背中のほうへ回った顔と目。つまり百八十度回転したその結果は明らかに即死だろう。通常ならばありえないその顔が見ている先には―――黒崎燐が悲鳴を上げそうになって怯えていた。
ドサリ、顔の向きを背中へ変えられた男は地面へ倒れて動かなくなる。
残ったのはこれで一人だ。
「ふざけんなよ。何ィ勝手に命乞いしてんだよバーカ。散々人を殺してきたテメェがいざ殺されることになった瞬間、ウルウル目ぇ涙で輝かせて助けてくださいだぁ? ぎゃっははははははははははははは!! ふざけんじゃねぇぞクソが!! 声ぇ張り上げて殴りかかってくるぐらいして俺に挑めよ、そうして生き残ってみせろよ。テメェは命乞いした野郎を殺してきたんだろ? だったらテメェが命乞いして許されるわけねぇだろうがよコラ。平等ってクソ素ッ晴しい言葉知ってるか? あー?」
悪魔は最後の一人にギョロリと目を向けて、
口を引き裂いて笑った。
「なぁ、テメェは俺とヒーロごっこしてくれるよなぁ? 何か他の奴らは俺をハブにしようとしてんだか知らねぇが、ビビって近寄ってこねぇんだよ。俺もただ遊びたいだけなのにさぁ、これって社会問題になってるイジメだろ? テメェはそんなバカバカしぃことしねーよなぁ?」
黒髪の男は呆然としていて、戦意喪失している。
その様子に悪魔は大きな舌打ちをした。
「チッ! あーあ、無駄な時間だなぁこりゃ。仕事ほったらかしてまで、噛み付いてきやがった野良犬のしつけなんざするほどのこっちゃなかったな。期待を裏切ってくれてどうもありがとう、お礼に撲殺決定だドクソ野郎」
そこから先に何があったのかは分からない。黒崎は悪魔の邪悪な笑顔をこれ以上見てられなかったのだ。瞼を閉じて、耳を両手で押さえ込む。
―――目を閉じなければ吐いてしまうほどの虐殺劇が映る。
―――耳を封じなければ身が竦むような悲鳴が聞こえてしまう。
そんな本能的に『恐怖を拒絶』する行為を行っているだけだ。とにかく黒崎は怖かった。何者かは知らないが、あの悪魔だけは絶対に関わってはいけない。ひたすら存在感を消して立ち去ってくれることを祈るしかないのだ。
「た、助け―――い、ががァァ―――ゆる―――っし、死じゃ―――がががああああ――――――っァァァ―――!?」
耳を押さえていても、痛みに絶叫する声が時たま小さく入ってきた。
ぎゅっと、さらに両耳を封じて目を瞑る。
(な、鉈内さん、た、助けて……)
ひたすら、仲間の顔を思い浮かべながらもガタガタと震える自分を押さえ込んでいた。肉食動物に食われる前の小鹿のように震える黒崎の姿は、それだけ痛々しかった。
しかし逃亡なんて出来ない。
右太ももには弾丸が貫通していて立ち上がることすら難しいのだから。
が、そこで。
悲鳴も惨劇も全てが終わったかのように静かになる。耳は塞いでいるが、明らかに空気が軽くなっていた。まるで映画館で見ていた映画の上映が終了したような感じである。
「……?」
ゆっくりと、瞼を開けて視界に光を差し込んでいく。耳からも手を離して勇気を振り絞った。
このとき黒崎は知らなかったろう。目を開けたりしなければ良かったと後悔するだろう。きっと今晩見た虐殺ショー全ては彼女の脳にトラウマとして刻み込まれる。
なぜなら、目を開けた黒崎が真っ先に見たものが―――
文字通り、靴底で顔を地面にプレスされて『ぺっちゃんこ』にされた男の死に様だったから。
仰向けで転がっていた男の顔が本当に潰れてしまったのだ。ブシャァ!! と、ピンクのブヨブヨとした肉や固形状の赤い塊が周辺には散らばっていく。
空き缶を踏み潰すように、男の頭を足で潰した悪魔は笑っていた。
ニヤニヤと、殺人に対する罪悪感なんてないように笑っていたのだ。
「な、ん……で、こんな……こと」
黒崎はポツリポツリ言葉をつなぎ合わせる。その高い声で気がついたのか、悪魔は満月を背にしてその恐ろしい顔を倒れている黒崎に向けた。
「あ? テメェはまだ死体ごっこなんざ続けてたのかよ。さっさと失せろ」
「な、なんで、殺して……」
「何で殺したか? ああそりゃ単純単純―――俺の出張中だってのに営業妨害しやがったからだよ、このハエ共は」
悪魔はサラリと言ってのける。
プルプルと体を小刻みに上下させる黒崎の反応に、悪魔は押し殺すように笑い声を上げた。
「おいおーい、ンなビビんなって。こっちも別に好きで殺したわけじゃねぇんだからよ」
「で、で、も……」
「俺がこんなクソ面倒くせぇ仕事してる理由は『あいつら』の安全を確保するため。だから仕事の邪魔したコイツらクソどもは無意識に『あいつら』の敵になったってわけだ。だったら俺がこいつらを殺すのには『あいつら』と敵対してるから、つー理由があんだよ。『あいつら』以外の生き物なんざ勝手に死んで勝手に朽ちろ」
悪魔は吐き捨てるように言うと、黒崎の右太ももを見て眉を潜めた。おそらく撃たれている状態に気づいたのだろう。しかし悪魔は踵を返して森の中へ向かって歩いていく。
黒崎を助ける様子は微塵もない。
おそらくそれは―――彼の言う『あいつら』ではないからであろう。
いや、もしかしたら悪魔は分かっていたのかもしれない。離れた場所にある小屋の中にシャリィ・レイン達が潜んでいて、黒崎の仲間だから手当できる人間がいると知っていたのかもしれない。
「ダリィ……」
再び闇の中に消えていった悪魔。どこへ向かっているのかは黒崎に分からないが、とにかく今は安堵でいっぱいだった。あの悪魔から放たれる緊張から解放されたことで、思わず、
「―――っはぁ、はぁ!!」
荒く息を整え始めた。胸に手を当てて、ひたすに空気を吸い込む。まるで水中に限界まで潜って、久しぶりに空気を吸ったような感覚が走り抜けた。
黒崎はあたりを見回す。
そこには吐き気を促すような作品が展示されていた。
太さ五センチほどの木の棒を口の中にねじ込まれて倒れているものや、指を全部ちぎられて動かない者や、顔の半分を原型をとどめていないレベルで叩き潰されているものや、明らかに腕や足などのからだの必須パーツが足りない者が血反吐まみれで転がっている。
まさしく地獄の光景。
悪魔が作り上げた芸術品の群れだった。
黒崎はシャリィ・レイン達が戦闘終了に気づいて小屋から出てきたのを見た。ただし、悪魔との対話から生まれた精神的疲労で思わず目を瞑る。
とにかく今は休まなくてはならなかった。




