裏切らない
「なん、で……」
涙が落ちた。
雨粒のように、床へ静かに落下した。
「なんで、アンタは……」
両目から出てくる涙の激流を止められない清姫は嗚咽混じりの声で、
「なんで、アンタは裏切らないのよぉ!!」
夜来の顔を突き刺そうとした清姫の手は、直撃する寸前の場所でぷるぷると震えながら止まっていた。
いや、止められていた。
清姫自身が意識して『男』を突き刺そうとしたのに、現在は清姫自身が『男』を殺すことを良しとしていない。
その証拠に、清姫は自分の凶器と化している手を、自分の意思で止めていた。
「何で、アンタは裏切らないの!? 何で本当に殺されようとしてるのよ!!」
「……」
清姫は息を大きく吸い込んで、
「あんなこと言われたら……味方だって言って、本当に裏切らないアンタを、私が殺せるわけないでしょ!!」
夜来は本当に裏切らなかった。
雪白千蘭と清姫を裏切らなかった。
―――俺は『お前ら』の為に死んでやるよ。味方だからな。
―――俺は、雪白と『お前』が男を殺したいって思ってる気持ちの味方をすっから、殺されてやるって言ってんだ。
―――俺は『お前ら』の意思を裏切らねぇ。
『お前ら』とは誰と誰を指す言葉だ?
雪白以外の『お前』とは、一体誰のことを言っている?
状況から答えを探そう。
この場には、夜来初三と彼の中にいる怪物、サタン。
雪白千蘭と彼女の身体を乗っ取っていた清姫だけしかいない。
だったら、答えは簡単。
夜来が話していた相手は、雪白千蘭と彼女の意識を奪っていた清姫だけ。ならば、必然的に解は出る。
雪白の名前は既に出している。ならば、雪白以外の者が『お前』に該当する。
つまり、
「なんで、なんで私の味方までしてくれるのよぉ!」
『お前ら』や『お前』とは、現在涙で顔をくしゃくしゃにしている清姫をも意味する言葉だったのだ。
夜来は上げっぱなしだった両手を下ろし、彼女の頭にぽんと手を乗せた。
「裏切らねぇよ、俺ァ。お前のことも絶対に裏切らねぇ。だって雪白とお前の考えは同じなんだろ? お前も雪白も男を殺したい、そう思ってる時点で俺はお前も裏切らねぇよ。約束してるからな、意思の味方をするって」
長い前髪のせいで彼の表情は分からないが、
清姫だけは、その場に座り込んで大泣きしていた。
理由はただ一つ。たった一つ。
男に裏切られなかったからだ。
清姫とは、過去にとある男を愛したが、あっさりと裏切られてしまい、怒りに狂った怪物なのだ。だからこそ、男を憎むようになり、今回の騒動を巻き起こした。
「分かってるわよ! アンタが裏切らないことなんて、さっきので分かってるわよぉ!!!!」
そんな彼女の、男から裏切られた彼女の『男を憎んでいるから男を殺す』という意思の味方を最後までしてくれた夜来初三を、清姫は殺せなかった。
いや、殺せるはずがないのだ。
なぜなら、本当に死ぬつもりだったから。本当に、清姫の憎しみをぶつけられる役をやり通し、殺されるつもりだったからだ。夜来初三は。
裏切られなかった。
清姫は、今度こそ『男』に裏切られなかった。
夜来初三だけは、裏切ることがなかった。
「何で、何で裏切らないのよバカぁ! ありが、とう!! 裏切らないでありがとぉ!!」
「……俺はただ約束を守っただけだ。誰も助けてなんてない」
矛盾したお礼の仕方だったが、はっきりと気持ちを伝えられた清姫。
それに対しての夜来の返答は、やはり『一流の悪人』らしいものだった。
「あああああああ! うわあああああああああああああああああああああッッ!!」
「おいおい」
腰に抱きついてきた泣きじゃくる清姫の頭を、やや乱暴に撫でてやる少年。彼は床に倒れこんだままの雪白千蘭の姿を確認して、一息吐いた。
すると、
「う、ん……」
ようやく意識が覚醒した雪白千蘭が、ゆっくりと体を起こし始めていた。
彼女は両目を猫のように両手でこすってから、ふと周りを見渡す。
そして、視界に映った一つの光景。
見知った少年に抱きついている、白金の髪をした少女の光景を凝視する。
「や、らい……」
「んだよ眠り姫もどきが。俺ァキスなんざしねぇぞコラ」
そのガラの悪い口調や喋り方を耳に入れた雪白千蘭は、しばらく呆然とした顔を見せた。しかし、小さく笑うとすっと立ち上がって、夜来のもとまで歩いてくる。
雪白の存在に気づいた清姫が気を遣って夜来の腰から離れると、二人の少年少女はしばしお互いの瞳から目を離さなかった。
そして、
「帰って、きたよ」
雪白は夜来に向けてニッコリと微笑んだ。彼女の笑顔は、容姿も含めて完全に天使そのものである。
一方、髪も元の黒髪に戻っていき、紋様も小さくなっていった夜来は、
「クソ遅ぇお帰りじゃねぇか。もし朝帰りなんてしやがったら叩き潰すぞ」
口の端を釣り上げ、容姿も含めて悪魔のような威圧感を放つ失笑に近い笑みを作った。
雪白千蘭は彼の胸に子供のように飛び込んだ。
何とかバランスを保った夜来は、倒れないよう無意識に雪白を抱きしめていた。男が嫌いな彼女に、この行動はまずいと思った夜来だが、彼の考えは的外れだった。
男を憎んでいたはずの彼女は、自分から夜来を強く抱きしめて、彼の耳元で囁くようにこう言った。
「ただいま……夜来」