悪に染め変えられる
胸から腹部までの肉をバッサリと斬られた夜来は絶叫を上げる。しかし即座に相手の危険性を察知して後ろへ一時撤退した。よたよたと危ない足取りで下がり、折れそうになる膝に力を加えて立ち続ける。
しかし。
そこで気づく。
「なんだ、こりゃ……!?」
確かに斬られた感触はあった。中に詰まっている内蔵もボトリと落ちそうになるほど深く斬られたはずなのだ。だから溢れ出てくる血は止まらないはずのだが、なぜか即座に傷は収まって、
鮮血が吹き出す代わりのように傷口から服も肌も『白』に変色していった。
黒い服も健康な肌も、何もかもが傷口から白色へ変わった。まるで真っ白な化物である『悪』に塗りつぶされていくように。
『悪』は持っている刀を夜来に向けて、
「言っタろ? ここハ精神世界だッテ。だカら別に命落とシタり死体にナッタりはシネぇよ」
「じゃ、じゃあこりゃなんだ……!? 何で俺ァ白く―――」
「今の俺たチは精神世界の中にイル存在―――人格みテェなモンだ。ってことは、『どちらか片方が精神の死を迎えれば人格は一つに残される』ってワケだ。あの悪魔ヲ除ケバな。だカら斬らレタ部分が『俺の色』に染まっテルってコトは―――お前ハ今、俺の人格に飲み込まレテルってわケダよ」
「つまりテメェは……俺を殺してこの精神世界っつーものを奪おうってわけか」
「イイや違うネ」
『悪』は持っていた刀を蒸発させるように消滅させた。
まるで武器などいらないと言わんばかりの余裕さが見える。
「言っタろ? 俺はテメェの悪を維持さセテやっテる化物だっテ」
「意味分かんねぇよクソが。あぁ? 俺の悪だぁ? 具体的に説明するっつー素晴らしい方法を知らねぇのかテメェは? 脳みそ本当に詰まってンのか?」
夜来初三は目の前の化物に脅すように言った。
しかし相手は臆することがない。むしろ面白そうに笑顔を濃くしている。
「じゃアこッチも聞くケドよ。初三、お前の抱いテイる『本物の悪』ってナァ具体的にどォいう思考なンダ?」
悪。
その存在に対して夜来初三は即答した。
どこか論文を唱えるように、自分の『本物の悪』という考え方を述べてみせた。
「『誰も救わずに敵を潰す』って言い方が一番近ぇ。―――荷物が運べねぇジジィを『助けることで相手に劣等感を与える』のは人を傷つけてる。例え傷つかないにしても、『劣等感を与えて傷つけるリスク』は浮上してる。つまり悪行だ。こりゃ他の場合にも適用できる。だから、『老人にばれずに荷物を運ぶ』ことが正解だ。老人を助けずに『荷物』を運ぶことで始末した。これなら老人は『自分が運べない荷物が勝手に移動してた』としか考えねぇ。誰が移動させただとか思考しても、『気にしにない』ことは事実だ。つまり誰も傷つかねぇ。これは『本物の悪』だ」
「ホーん。ジャあ、てメェは今まデ誰も救っタことはネェんだな? 救うトイう行為は『間違った悪行』だカら『敵を始末した』ことシカねーンだな?『善』を抱いタこトはネェンだな?」
「当たり前だろうが」
「そノ『本物の悪』って思考には誇りヲ持ってンノか?」
「そうだっつの」
その返答を耳にした『悪』は。
ニタリと笑ってこう言った。
「そレは全部俺のおカゲだよ」
ピクリと夜来の眉が動いた。
そして敵意全開の視線をぎらつかせる。
「はぁ? テメェ何ほざいて―――」
「てメェ、今まで『おかしい』とは思わナカったノか? たっタ一度さエも『助けたい』だの『救いたい』だノという『善』を抱かナカったコとを『おかしい』とは思ワナかったノカ? どうシテ、てめェは『善』ッツー考えヲ微塵も持ってイナカったんだ?」
「……」
「『ありえない』んダッツーの。少しモ『助けたい』だの『助けてあげたい』だノと思ワナいなンて『ありえない』んだっツーノ。ソうだろ? 『微塵も「善」を抱かず』に、テメぇは呪いに苦しんデる女を何人『結果的』に救ったヨ。―――『助けたいと「善」を抱かずにどうしていろんなヤツを救った』んダ? なぁ、『おかしい』だロ?」
その言葉には反論できなかった夜来初三。確かに今思えば『おかしい』ことこの上ない。どうして自分は今まで微塵も『善』という存在を抱けなかったのだろう。
あまりにも『悪』に染まりすぎていた。
例えば。
雪白千蘭を救ったのは元々弟と重ねていたことによる結果だ。正確に言えば『約束』である。だがなぜ、『救いたいとも考えずに雪白千蘭を結果的に救えた』のだろう? ペンを握ろうと考えないでペンを握っているようなものだ。料理なんてしようと思っていないのにオムライスを作り上げているようなものだ。散歩なんてしようとも思っていないのに散歩しているようなほど不思議だった。
そう。
夜来初三は自分が今までに結果的に救った彼女たちに対する『動機』が一切―――分からなかったのだ。
そもそもなぜ、雪白を電車の痴漢から助けた? ああ、それは確か弟と重ねていたからだ。でははぜ、『弟と重なっている雪白千蘭』を見捨てなかった? 別に弟と似ているからといって、『今思えば命をかけてまで助ける』必要はなかったはずだ。いや、既にそこがおかしい。
なぜ、夜来初三は助ける気なんてないのに彼女を結果的に助けられていた?
混乱が激しくなってきた夜来初三。
彼は頭を押さえ込んで視線を泳がせ始めた。
「ソの答エを教えテヤるよ」
瞬間。
『悪』が自分自身の胸に五本の指を添えて、
「俺がテメぇの『善性』を『悪』に染め変えテたカラだ」