1幕
風が渡ってゆく。草原をなびかせて。
風のリズム。
草のメロディー。
青空からこぼれる光。
古びた遺跡の柱が影を伸ばしてゆく。
草の間からひょっこりと顔を表す彼女。
辺りを見回し、何かを探している。
この辺りの多くの村の娘と同じ様に、頭からすっぽりと被る大きなワンピースに各々が好きな色に染めた帯を締めている。
彼女のそれは全てが緑色に染められ、手足や顔だけがポッカリと浮かんでいるように見える。
真剣に辺りを窺う。
子狐が親の真似をして獲物を狙うかのような仕草に、思わず笑みがこぼれる。
突然、柔らかな黒髪が跳ねる。
草間を縫うように二つに結んだ髪が揺れる。
右に。
左に。
相手を追い詰めるように逃げ道を選ばせない。
シャン、シャン、シャン、シャン。
帯に付けてあげた鈴の音が揺れる。
風を切る黒髪が揺れる。
シャン、シャン…。
ザザァッ!
小さな何者かが僕の足元へ飛び込んでくる。
木製の髪飾りを口にくわえた野良猫だ。
悪戯のつもりだったが、突然人に襲われて恐ろしくて口を放す事無く逃げてしまったのだろう。
猫は僕の姿に驚き立ち止まってしまう。
「待ちなさ〜い!」
彼女の声が、指が猫を捕まえようと伸びてくる。
猫はまだ躊躇している。
僕の目の前で彼女の指が光る。
「やめろ!ユリ!」
声に驚いた猫の体が飛び跳ねた。
バンッ!!
今まで猫のいた辺りで砂煙が上がる。
猫は…いない。
辺りに細かい木っ端が散乱している。
それは多分髪飾りだった物。
そして猫は…。
猫は死んだ…。
彼女の力で…。
「ユリ!」
彼女の手を掴み大きな声を上げると、反射的に震える体を縮こまらせた。
「何て事をしたんだ!これじゃ猫が…あの猫は…。」
彼女のしでかした事に怖くなり、声が震える。
僕は恐ろしさに目を閉じる。
そんな事をしても世界はなくならない。
事実は消えたりしない。
解っているけれど、どうしても恐ろしかったのだ。
あの力を使って、一瞬にして猫を殺してしまった…。
そんな力をユリが持っていることが。
無邪気にそんな事が出来る今のユリが。
怖かった。
「どうして壊しちゃいけないの?」
少し拗ねた顔で。
でも赤子のように純粋な瞳が僕に聞き返す。
僕はゆっくりと首を振る。
「壊した、じゃない。猫は死んでしまったんだよ。」
「死んでしまった…?」
「そう。猫や人間は死んでしまうんだ。」
「アキも?」
「うん、僕もだよ。」
「ヤダ!」
彼女は僕の服を掴み、声を張り上げる。
「アキは死んじゃダメ!ね。お願い。」
「ありがとう。僕もユリが死んだらヤダよ。」
なだめるように髪を撫でてあげる。
「本当はね、あの猫さんも同じように大事にして欲しかったな…。」
「…ユリ、悪い子?悪い事しちゃったの?」
「うん。…そうだね。」
「どうしよう…。ユリ悪い子なの。だって悪い事って知らなかったから、だからユリ…。」
「じゃぁ、猫さんに、ごめんなさいしよう。ね。」
ユリは頷き何度も何度も謝った。
「猫さん、ごめんね。ごめんねぇ…。」
僕はその背中をそっと抱いてあげる。
本当は20歳の女性。
でも記憶をなくし彼女の頃にまで退行してしまった精神を抱えている。
本当は謝らなければいけないのは僕のほうなのに。
今はただ抱きしめる事しか出来ない。
いつ来てもここは嫌な場所だ。
どんなに気をつけていても、憂鬱な死にたい気分になる。
暗闇がジワジワと首を締め付ける。
祭壇の模様が眼球を潰そうと迫り来る。
とぐろを巻き絡み合う双頭の蛇。
黒く浮き上がるしみ。
心臓は早鐘を打つ。
不安な、嫌な予感。
結界が緩んでいるのだろうか。
今にも祭壇の蓋を開け、あの恐ろしい悪魔ルードが世界へ染み出そうとしているのか。
肉を喰らい、血を啜り。
全てを破壊し尽くそうと…。
ダメだ。
このままでは恐ろしい考えに心囚われてしまう。
身構えるように腰の剣に手を伸ばす。
神魔封じの剣。
封印の鍵となる悪魔殺しの剣。
これを受け取った私こそが、ただ一人の封印師なのだと、一人言い聞かせた。
「これからは…お前が…封印をまもって…。」
差し出された手から力が抜けてゆくのを引き戻すように力強く握り締める。
指の隙間を、命が滑り落ちてゆく。
「先生!先生!!」
ゆっくりと落ちたビー球が砕けるように。
崇高な魂が。
砕け散ってしまった。
私はもはや一人なのだと思い知るには暫らくの時間を必要とした。
まだ何も教わっていない。
何も恩返しする事もなく、大事な人はいなくなってしまう。
私は唇を噛みしめる。
泣いている暇など無い。
先生の後を継ぎ、遺跡の封印を守っていかねばならないのだ。
古より伝わる剣を握り締め立ち上がる。
「先生…これより私が…封印師です。必ず…かならず…。」
涙は止める事は出来なかった。
いいのだ。
今はこれで。
あの時私はそう願い、誓ったのだから。
回想に囚われていた頭を振り払う。
結界強化の儀を執り行わなければいけない。
世界を…。
この世界を守らねばならない。
この世界に住む、人々…。
いや。
本当はただ一人。
彼女を守りたいだけなのかもしれない。
人間が生きてゆく原理など所詮そんなものだろう…。
この想いはそこまで届かないだろう。
世間はそれを許さないだろう。
でも私はそれ以外に生きてゆく術を知らない。
再び廻り合えた運命を恨みもしない。
想いは消えない。
封印師になった事への後悔も無い。
あんな事件があった事を喜ぶ自分がいる。
暗い、暗い、残酷な想い。
それでも私は彼女を!!
…こんなにも欲しいと願う!
酷く、醜い、私の心。
神魔ユーステフを目の前にかざす。
本当に封印しなければならないのは、こんな私の心なのかもしれない…。
刀身が鈍く光を帯びた。
そしてそれは一瞬の出来事だった。
神魔ユーステフを奪い祭壇へと走り去る影。
私が止める間もなく、祭壇へと突き立てられる刀身。
光が消え、闇の密度が濃くなる。
「…ごめんなさい…でも、こうするしか…。」
苦しげな女の声。
私は動けない。
その声を耳にしては動けなくなってしまう。
何故?
何が彼女を?
そんな事よりも、私の心を凍りつかせる声。
「貴方に会わなければ良かった…。…こんな世界なんて!!」
影が、女が振り向く。
「貴方の所為で…こんな気持ちになるなら、世界など始めから無ければいいのよ!!」
それは私が心にただ一人思い続けた女性、ユリだった。
「何故君が封印を…。」
僕の手は、声はもう彼女には届かない。
鈍い音を立てて割れる祭壇の奥底から、果てしない暗闇から矢の如く光が飛び出す。
一つ。
二つ。
数を増し暴れ回る光は次々と彼女に突き刺さる。
呻き声を上げる間もなく彼女の体は光の矢に引き裂かれ、その小さな体は舞うように弾けた。
…。
声も出ない。
何も出来ない。
ただ、私は…。
ドサッ。
鈍い音に目を向ける。
そこに彼女の体はあった。
自分でも思わぬ力でユリに駆け寄る。
力なく横たわる肢体。
突然、ギョロっと目が見開かれる。
私は息を飲んだ。
もはやそれは人間の物ではなかった。




