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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第四章:ニヴルヘイムの亡霊-2『戦士の館』
91/91

91. 高緯度地域の人々の初春雪崩災害時に於ける対応と心理状態に端を発する様々な文化圏に散見される基礎的な力比べに見る古典力学の三法則の異世界の日常的領域に於ける成立を暗示する事例の一つ

すみません!! メチャメチャ遅れちゃいました~!!

その、ちょっと実地研修に行っていた関係で……。

「……どうしてこうなった」


 自分のニ倍はあろうかというゴツい手は、汗が滲んでヌメっていた。

 腰程の高さの酒樽に肘をついたマルスは、同じ体勢で差し出された男の手の平を握り返してため息をついた。

 握り潰そうとしているとしか思えない程の握力が、マルスの右手を圧迫してくる。


「遠慮しなくていいぞ~?

 ほらほら、全力でお父さんに掛かってきなさい?」


 口調こそ穏やかなものだったが、一重瞼の奥に光る男の眼光は全く笑ってなどいなかった。

 それは、明確な“殺意”を心の奥底に宿した者だけが体得し得る目だった。

 数々の修羅場を経験してきたマルスだからこそ分かる。内に地獄の業火を内包し、それを薄皮一枚の冷静さで覆った、抜身の刃のように見事な――殺気(・・)!!


 一瞬でも気を抜けば、殺られる(・・・・)

 心配そうなフォルの視線が、チクチクと右頬に刺さるのを感じながら。

 妙に乾燥している口内のツバをゴクリ、と飲み込み、マルスはなんとなしに事の発端を思い返していた。



―――――



 話はマルスがフォルと出会った直後に遡る。

 ほっぺたを抓られ、「ヒドいですよぉ~」と一頻り涙目で悶絶したフォルは、マルスにどこか行きたい場所はないかと訊ねたのだった。

 町を案内したいという、先の言葉に嘘は無かったのだ。

 マルスにしてみればどうでもいいというのが正直なところではあったのだが、街道が復旧しない限り、暇を持て余しているのもまた事実であった。

 結局。適当な無駄話をしている内に、マルスが朝食を食べ損ねた事を悟ったらしいフォルの提案で、どこか近場で軽食でも取ろうかという方針に決まったのであった。


 フォルに引っ張られてマルスが向かった先は、フォルのおすすめだという喫茶店であった。

 入り口は格子模様の付いた白い木製扉に区切られ、内装はドールハウスのように山ほどのフリルやら水玉やらに覆われている。

 雪景色が覗ける窓の手前には、極寒の氷の国には似合わない瑞々しい観葉植物が花を咲かせ、どこから湧いてきたものか客はどいつもこいつもイチャイチャしていやがった。


「どんなギャグだ……」と、マルスは頭を抱えた。

 入って一秒で分かった。これほど自分にそぐわない店も珍しいだろう、と。

 そもそも、一体何なのだこのメルヘンは。メルヘンで料理の味が変わるのか? 妙に単価が高いクセに、あんなに量が少ないのは何かの嫌がらせか? それに、ナニ? なんでみんな、あんなお上品に食器なんか使い熟しちゃってるの? 新手の コントか何か? そもそも、酒も女も無い飲食店に一体何の存在価値があろうか。

 ……悲しいかな。当たり前のようにそう考えてしまうのが、マルスという少年の持ち合わせる常識なのであった。


「うぅ……、叶った、叶っちゃいましたぁ。

 マルスくん、ありがとうございますぅ~。

 わたし、一回でいいからこのお店、入ってみたかったんですよぉ」


 夢見心地の表情で、ハートでも振りまきそうな仕草でフォルはそんな事を言っていた。

 ――入ったことも無い店を勧めてたのかテメェはよぉ!

 マルスは張っ倒す勢いでそう突っ込んだつもりだったが、店の甘ったるい空気に酔っていたせいか、実際に出たのはため息混じりの呆れ声であった。


「う……だ、だって、仕方ないじゃないですか……。

 このお店、普段から恋人連ればっかりで、女子だけで入っても浮くんですよ?

 男の子が一緒じゃないと、スゴく入りにくいんですから……」


 フォルがブツブツと何かを言っていたが、マルスには斟酌する余裕もしてやるつもりも無い。

 彼に出来たのは、毎秒ごとに酷くなっていく眉間の鈍痛を堪えながら、フォルが適当に頼んだラセル(クッキー生地で挟んだサンドイッチのような軽食)を飲み物で流し込むように胃に収めることだけであった。甘ったるくて胸焼けがする食べ物だった。飲み物まで甘ったるくて、破壊力は倍増だった。似たような食べ物を美味そうな顔で口に突っ込んでいたフォルを見て、“こいつ、味覚おかしいんじゃね?”とマルスは思ったとか思わなかったとか――。

 町の動脈に等しい街道が通行止めだというのに、周囲から聞こえるカップルたちの反応は、「大変だね」や「ウチのお父さんも、それで朝から出かけてるんだよ~」などといった、話の種だけに利用しているような他人事のような物であった。


 軽食店を出ても、フォルはマルスを引き摺り回し続けた。

 買い物の途中だったとかで、行きつけのパン屋に行く傍ら、マルスに是非見てもらいたいという店の数々を紹介――とは名ばかりで、レパートリーはどう考えてもフォルの趣味と興味が丸出しであった。

 よくもまあ、ここまで何の興味も唆らない店ばかりをチョイスできるものだ、とマルスは逆に感心したほどである。


 入浴用品店なんか紹介されてどうしろと言うのだ。理髪店もアクセサリーショップも間に合っている。服屋でさんざっぱら試着するのを見せられた挙句、結局何も買わずに店を出た時には、つい本気で張っ倒しかけた程であった。

 どうせ紹介してくれるのなら、裏通りにある穴場の酒場か、いい感じのドラッグでも捌いている路地でも紹介してくれりゃいいものを……と思ったところで、マルスはやっぱり考え直すことにした。路地裏でラリっているフォルの姿など、自分に傅いて酌をするメルクリウス以上に想像出来ないと思ったからであった。

 行く先々でも聞こえてくる雑談はやはり似たり寄ったりで、「まだ開通しないってね」とか「帝都の救援は何やってるんだ」といった内容ばかりであった。


「――それで、その時の英雄さんにちなんで、“エルド”っていうこの町の名前が付いたんです。

 “エルド”って、古語で火っていう意味らしいですよ?

 こんなに雪ばっかりなのに、ちょっと不思議ですよねぇ~」


 商店街を歩きながらも、フォルはマルスに脈絡の無い話を語って聴かせた。相変わらず構成が酷く、必要な情報が半分も含まれていない話をするヤツであった。

 どうやらフォルがいま話しているのは、この町に伝わる英雄譚であるらしいが――。

 何でももう数百年も前の話。地方豪族が反乱を起こした際、正に現在通行止め中の街道をたった独りで守護し続け、皇族を守る為に死ぬまで戦い抜いた少年が居たとかなんとか。

 ……はっきり言って、どうでも良いとマルスは思った。

 丘の上の総合墓地には、今もソイツを記念した像が飾られているとか何とかとフォルは言っているが、興味を引かれないものは引かれないのだから、仕方がない。

 マルスは鬱陶しそうに紅蓮の髪をモシャモシャと掻いて、それを返事とする事にした。


「――あっ、そ、そうだ、マルスくん!!

 エルドポム、もう食べてみました? その時の英雄さんに因んだこの町の名物で、甘くてとっても美味しいんですよぉ。

 あ、あとあと、あっちの通りをず~っと真っ直ぐ行くと、温泉街があって、何件か回るとお肌がスベスベになるんです。温泉なら、マルスくんも宮殿で入り飽きてるかもしれませんけど――でもでも、この辺りの温泉は、またちょっと効能が違って――」


 甘ったるそうな土産萬寿のようなモノを売っている菓子店や、遠くでウザったい湯気が立ち上っている路地を指さしてフォルが言う。

 間を取り繕おうとしている努力は買うが、やはりマルスには逆効果にしかならなかった。

 あんな、見ているだけで胸焼けしそうな菓子類を見せつけて何がしたいのだろうか。

 この国では“オンセン”とかいう熱い湯が出る場所が多数あって、お陰で毎日ソレに浸かる習慣が浸透しているという事くらい、召喚されて早数ヶ月のマルスだって理解している。

 だが――生憎と、その習慣に魅力を感じたこともマルスは無かった。

 汗なんか、掻いたらその都度拭けばいいではないか。熱い湯になんか浸かったら、逆に汗を掻くではないか。みずを落としたいのにびしょ濡れになるとか、マジで意味が分からないではないか。

 ……それが、彼の文化からすれば常識的な意見なのであった。

 温泉宿の方からは、「まだ帰れないの!?」とか、「帝都の奴らめ、見捨てやがって」なんていう慎ましやかな悪態が聞こえていた。


 人々に踏み固められ、土気色に汚れた雪を踏み締めながらマルスは歩く。

 そうこうしている間に、いつの間にか彼らは街の中心部から外れ、寂れた隠れ家的な店が立ち並ぶ寂れた通りに来ていた。中には変わった店名の、少々いかがわしい雰囲気の店も紛れているように見える。

 フォルが案内したのでは無かった。フォルの案内に任せていても時間の無駄だと悟ったマルスが、自分の勘と鼻を信じて、面白そうな雰囲気のする方向にさり気なく歩いてきた結果によるものであった。

 フォルは何度も、さり気なく引き返すように誘導していたようであったが――、任せていても砂糖を吐きそうな健全店に案内されるのが関の山だったので、マルスは半ば押し切るようにしてここまで進んできたのであった。

 そして、ニヤリと口端を吊り上げた。


「あんだよ、探せば良さげな店もけっこうあんじゃねぇの。

 フォル。んで、お前のオススメはどのへんなワケ?」


「し、知りませんよぉ~ッ!!

 こ、こんな通り、いくら地元だってそんなに来るわけないじゃないですか!!」


「あん? なんでぇ、何回かは来たことあるって事じゃねぇの。

 んじゃ、そこでいいや。先ずは酒場からよろしくな~っと……」


「あっ、ま、まま待って下さいよぉ~!! うぅ……」


 フォルの手を引いて、マルスはズカズカと怪しげな店が立ち並ぶ通りを進み始めた。フォルは居心地が悪くて仕方がないとでも言いたげに俯いて、始終あぅあぅと唸っていたが、彼女が強く押されると断れない性格である事をマルスは知っていた。

 先の商店街で引っ張り回された意趣返し、というわけでは無いが、完全に立場が逆転した形であった。


 マルスは宣言通り、先ずは場末の酒場のような店を適当に指差しては、取り扱っている酒の種類や客層などをフォルに訊ねた。尤も当のフォルは「知りませんよ!!」とか「あぅ~……」と言って涙目になるだけで、はっきり言って使い物になどならなかったのだが。

 しかしその態度がまたなんとも嗜虐心を刺激するもので、マルスはたまに、分かっていながらわざといかがわしそうな雰囲気の店を指さし、フォルに訊ねた。その都度、フォルはソバカスが見えなくなるほど真っ赤になって、湯気でも出そうな顔で俯いていた。


 生来嗜虐的な嗜好の持ち主たるマルスとしては、フォルのこういう仕草がたまらないのであった。

 普段のようにメルクリウスの目がある時には、決して出来ない遊びである。

 気を良くしたマルスは、フォルがフラフラになって音を上げるまで、夜に入り浸れそうな酒場を探しながら、適当にこの通りを散策してやろうと思った。完全に調子に乗っていた。

 昼間から開いている吹き溜まりのような酒場からは、「オウ、手伝ってきたらどうよ?」「冗談だろぉ? 酒さえ飲めりゃそれでいいの、ガッハッハ!!」などという、聞くに堪えない酔っぱらいの戯言が聞こえていた。



「あ……」


 ――その時。

 不意に、フォルがピタリと足を止めた。


「あん? どうし――」


 訊ねようとしたところで、マルスは言葉を飲み込んだ。

 フォルが、ただ足を止めたのでは無いと分かったからであった。血色の良かった顔から、寒さだけが原因とは思えないほど血の気が引いて、青くなっている。華奢な肩も、隠しようも無いほどに震えていて――マルスにはそれが、まるで何かに怯えているような態度に思えた。


 マルスは訳が分からないまま、揺れているフォルの瞳の先を追った。

 そこには大きな屋敷があった。いや、元屋敷と言った方が正確だろうか。氷の国に特有の上下開閉式の門には板が打ち付けられ、数年来開閉された気配も無い。その奥に見える劇場のような造りの屋敷は寒々として、人の気配という物を全く感じなかった。

 わざわざ取り繕う必要もない。それは明らかに廃墟だった。元々は高級宿か何かだったのか、門の隣には文字も読めないほど風化した、看板のようなモノの名残があった。

 そのボロボロの煉瓦造りの建物を見やり、マルスは首を捻った。


「酒場――って感じじゃねぇな。

 おう、フォル。ありゃ何の店だったのよ?」


「えっと……」


 フォルは、微かに目を泳がせて、


「質店……、みたいなものでした。

 でも、あんまり行ったこともないお店です」


「――――?」


 釈然としないフォルの答えに、マルスは眉を潜めた。

 マルスは問いただしたい欲求に駆られもしたが、フォルがそれを遮るように、いつも以上に明るい笑顔を見せてきたので、思考を止めた。


「えっと、そのぉ……み、見ての通り、そんなに行かないうちに潰れちゃったんですよ~。

 ――ほらほら、マルスくん。こんなトコさっさと離れて、そろそろ別のお店行きましょうよぉ。

 あんまり変なお店ばっかり見てると、後でご主人様に言いつけちゃいますよ?」


「か、勘弁してくれぇ……」


 マルスは頭を抱えた。

 まったく、なんと恐ろしい事を言い出す駄メイドなのだろうか。

 あのドS鬼畜拷問狂女帝に今までのやりとりを知られたら、どんな目に合わされるかなんて、自分が一番よく分かっているだろうに。

 そんな事を考えながら、いつも以上に元気なフォルに手を引かれている内に。一瞬だけ頭を過ぎった些細な疑問は、すっかりマルスの中から消え失せてしまったようだった。

 通りを引き返す途中、先ほどの酒場からは「くぉら!! アンタはまた真っ昼間から酒飲んで――」「ひぃ!? でで、出たなオニババ!!」「だぁれがオニババだい!! 無駄口叩いてる暇があったら、さっさと通りの開通でも手伝いに行ってきな!!」という会話が、割りと大声で聞こえていた。



―――――



 商店街に戻ってきた頃には、既に日が傾ぎ始めていた。

 本日の除雪作業が終わったのか、魔犬(ガルム)の犬橇が掘削道具を手にした男たちを街道方面から運んでくる。少しは進展を願いたいマルスではあったが、明らかに疲労だけとは思えないほどに憔悴した男たちの顔色を見るに、街道の復旧はまだまだ旗色が悪そうだという印象は拭えなかった。


「――テメェ、もう一度言ってみろや!!」


 その時、マルスは男の怒鳴り声を聞いた。

 雪が擦れるザラついた摩擦音に混じって、金属が擦れる嫌な音が響いてくる。目を向けると、犬橇の降り場付近で若者が中年の男に胸ぐらを掴まれているところだった。

 若者は犬橇の荷台に背を押し付けられている。先の金属音は、どうやらベルトに付いた金具が車体に当たる音だったらしい。


「無駄だって言ってんだよ!!」


 若者は、中年の男を睨み返しながら言った。


「手伝いに来いだ? 巫山戯るなよ!! 行って来たならアンタだって分かってんだろ!?

 街道塞いだ雪崩なんか、どうせここ三日の晴天でアイスバーンだ。ガチガチに固まっちまってるよ!! そんなチャチな道具で汗水垂らしたって、魔術もろくに扱えない俺たちじゃどうにもならねぇじゃねーか!!」


「それでもやるしかねーだろがよ!!

 帝都から救援が来ないんじゃ、ちょっとずつでも自分たちでやるしかねーだろが!!

 町の皆が頑張ってるときに、若造が遊び呆けてりゃぶん殴られても文句言えねぇぞ!?」


「だから帝都から救援が来るまで、無駄な体力なんか使いたくねーって言ってんだよ!!

 大体、そんな焦って開通させたがってんのはアンタら運送業の連中だけだろが。自営業の俺たちには関係ねーんだよ。

 皆が頑張ってる? どうせ声がデカい奴にくっついてるだけの金魚のフンどもだろ?

 俺は無駄な努力はしない質なの、やるなら勝手にやってこいよバーカ」


「――あぁ!? もういっぺん言ってみろや糞ガキがぁ!!」


 火に掛けたケトルのような顔になり、中年男が若者の横っ面を殴り付けた。若者は唾を吐いて睨み返し、中年の男の鳩尾に肘打ちを見舞う。皮膚を打つ高い音に混じって、骨がぶつかる鈍い音が響いた。

 いつの間にか、殴り合いが始まっていた。人々にストレスが溜まりやすくなっている状況では、どこの世界でもよくある話なのであった。


「ニッシッシッ、おもしれぇこと始めたじゃねぇの」


 中年男が若者の髪を鷲掴みにしたところで、マルスはニンマリと破顔した。

 生来より、比較的ルールや規則に縛られない文化に生まれ育ったのが彼という少年である。

 この程度の喧嘩など、余興の華として楽しむくらいの感性はデフォルトで持ち合わせているのであった。


「へ……? ま、マルス、くん?」


「ダメだな。ああ、ダメダメだぁ。お互い、殺気も狙いもてんで足りてねーでやんの。

 ――どれどれ、そんじゃま、おれっちが軽くお手本見せてやりますかね。

 ちゃちゃっとノシてくっから。フォル、テメェはここで待ってな」


「ほぇ!? だ、だだだ、ダメですよぉ~!!」


 袖を捲るマルスを羽交い絞めにして、フォルが悲痛な声を上げた。


「だ、だだ、だってアレ!! アレ、見てくださいよ~!!

 あんな、大きな男の人が、思いっきり殴りあって――。

 マルスくんみたいな子供が行ったら、怪我しちゃいますよぉ~」


「だ~れの心配してんのかにゃ~?

 つかなに? ガキ? え? いまおれっちのこと、ガキっつった?

 テメェらがジジババ過ぎんだよ舐めたこと抜かしてっと犯すぞゴラァ!!」


「ひぅ!? ご、ごごご、ゴメンナサイ!!

 子供扱いしてゴメンナサイ!! モフモフで可愛いとか思っててゴメンナサイ許して下さい犯さないで下さいごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃ……」


 マルスが犬歯を剥き出しにして凄むと、フォルは小さく息を飲んで平謝りを始めた。マルスには背後のフォルの顔を見る事はできなかったが、いつものように半泣きでオドオドしているのは明らかだった。だからきっと、この後はいつものように崩れ落ちて、地べたに張り付きながら自分に許しを乞い続けるのだろうとマルスは思った。

 かくしてそれは正しかった。フォルはマルスの身体を羽交い絞めにしたまま、崩れ落ちるように前方に倒れこみ、マルスを巻きこみながらドべチャッと地べたに張り付いた。――放し忘れたらしい。

 結果としてマルスは容易く地面に引き倒される形になり、煤けた雪の地面に強かに顔面を埋めた。

「――あれ?」と、フォルが小首を傾げた。

 マルスは奇声を上げながら、フォルの背中をゲシゲシと何度も踏み付けた。


 その時。

 ふと、マルスは誰かに肩を掴まれるのを感じた。


「……いま、犯すと聞こえたのだが?」


「あん?」


 マルスの肩を掴んだのは、やけに筋肉質なハゲオヤジだった。白い青年なら“ボディービルダー”という職を連想したかもしれない。引き攣った笑顔を貼り付けた顔面が、雪焼けとアブラでテカテカと褐色に輝いていた。

 ――誰だコイツ?

 マルスは訝りながら、ふとオヤジの後ろを見た。雪の上に残るオヤジの足跡を辿ると、そこには犬橇の荷台が置かれており、先ほどの中年オヤジと若者が伸びていた。わざとらしい悲鳴を上げていた取り巻き連中も今は静かになって、その全員が、何故かジッと目の前のオヤジの方に視線を向けていた。

 それで、なるほどとマルスは合点した。だから、挑戦的な笑みを浮かべた。


「ああ? あんだよオヤジ。え? なに? 一丁前に、おれっちに説教しちゃうつもりなわけ?

 ハッ、上等だよ。言っとくけど、おれっちをあんな雑魚どもと一緒にしてんなら……」


 そこまで言ったところで、マルスはピタリと言葉を切った。踏みつけているフォルの背から、ブルブルとした振動のようなモノが伝わってきたのを感じたからであった。

 妙に気になったので、チラッと、マルスは足元のフォルに目をやった。

 フォルは、何故か真っ青な顔色をしていた。そして、その死病持ちもかくやという程に蒼白な表情のまま、目の前のオヤジの顔を、真っ直ぐに、見上げ、て……、


「お……お、父……、さん――」


「……、…………」


 ナニか、酷く聞き慣れない単語を呟いたような気がした。それがあまりにも聞き慣れない、というか予想もしていなかった単語だったせいで、完全に理解するのにマルスは十秒ほどの時間を費やしてしまったほどであった。

 ――え? お父さん? あの、二人居る親の内の、男の方って意味の、あの(・・)


 自分の足元で震えているソバカスの少女と、自分の肩を握り締めている筋肉ダルマを何度も何度も見比べて。一番初めにマルスが思ったのは「ああ、似てねーなー」なんていう、酷く平和なモノであった。続いてフォルがこの町を“古里”だと言っていた事を思い出し、だったらそりゃ、父親の一人や二人住んでても何にも不思議じゃねーよなー、なんてやたらと客観的な分析に思いを馳せたところで、ふと、真っ直ぐに自分を向いているハゲオヤジのテカテカ笑顔に目が留まる。

 ――ミシッ、と。

 “フォル父”の節榑のような指の感触が、更に深く、肩に食い込んだような気がした。


「……いま、犯すと聞こえたのだが?」


「……、…………」


 マルスは、言葉に詰まった。改めて述べる間でもないが、マルスという少年の持つ価値観からすれば、殺人だろうが強姦だろうが窃盗だろうが、それらは別段、後ろめたい事でも何でもない(そもそも、彼にはそれらが“犯罪”であるという概念からして無い)。

 故にマルスが言葉を詰まらせたのは――つまりは、目の前のオヤジが放つ気配が、それほどまでに異様に過ぎたからなのであった……。


「お、お父さん!! 違うの!!」


 滝のように冷や汗を流すマルスに、フォルが助け舟を出す。


「それは――、マルスくんの愛情表現なの!!」


「……、…………」


 火災現場にガソリンタンクをぶん投げるような、あまりにも見事なフォローを――!!


「……娘に、手を出すことが――、愛情表現だとぉぉおおおおお!?」


「ちょ、ま、待てやオヤジィ!!」


 マルスは殆ど条件反射で、ブンブンと首を左右に振りながら否定した。何を否定したいのか自分でもよく分からなかったが、身の危険を感じたのだから仕方がないのであった。今のフォルのセリフは、テンパったが故の紛らわしい一言に過ぎず、こんなのは愛情表現でも何でもない事を、マルスは懇切丁寧にフォル父に説明して、説明して、説明しつくした。


「――愛すら無かっただとぉぉおおおお!?」


「だからテメェは一々誤解してんじゃねぇよクソオヤジィィッッ!!」


 ……無意味であった。

 ナニかヤバいトランス状態にでも入りつつあるのか、フォル父は全く聞く耳を持とうとはしてくれなかった。

 フォル父は赤黒く充血した目でマルスを睨みながら、岩のような手に血管を浮き立たせ、胸ぐらをグイッと思いっきり掴み上げた。


「キッサマァァァアアアアッッッ!? どう責任とってくれるつもりじゃおんどりゃァァアアアア!!??」


 そのまま地面に叩き付けようと、マルスを掴んだまま腕を大きく振り被る。

 ――コイツ、マジでヤバい!!

 身の危険を感じたマルスは、フォル父の腕にしがみつきながら身体を捻り、回転させることで咄嗟に握り拳から掴まれた服を引きぬいた。

 元より、身軽さを利点とした空中戦を強みとしているのがマルスである。怪力の魔手から命からがら逃れたマルスは、そのままフォル父の腹を蹴って軽々と空中に飛び上がり、三回転と一捻り身を翻して雪の地面に降り立った。

「むっ」と、フォル父が唸り声を上げた。


 フォル父は無言で踵を返し、何故か悠々と犬橇の荷台の方へと向かっていった。

 帰るのか? とマルスは一瞬だけ思ったが、フォル父が酒樽のような物を荷台から担ぎ下ろしているのを見るに、どうやらそういうワケでも無いらしいと判断した。

 フォル父は酒樽を担いだまま、ズカズカとマルスの方へと戻ってくる。

 そして「ムンッ!!」と、気合一息。フォル父は腰程も高さがある、異様に重そうな酒樽を、雪の積もる地面の上にズドンと落とした。

 木板に右肘をつき、手招きをする。


「……きなさい?」


 そして右手をグッパグッパさせながら、フォル父はそんな不穏なセリフを宣った。

 それも拒絶を許さないような、ヤケに迫力ある笑みを貼り付けたまま……。

 ザワザワと鬱陶しい野次馬どもは、「あらあら、大人げない」「仕方ないよ。通りが開通しなくて、みんなピリピリしてるから……」「大変だね」なんていう、他人事以外の何物でもないような同情の声を上げていた……。



―――――



「……マジで、どうしてこうなった」


 そして、話は冒頭へと至る。

 酒樽の上に肘をつき、右手をガッチリと握り合わせたマルスは、空いた左手で帽子の下を引っ掻きつつそう愚痴った。目の前でテカるハゲオヤジに睨まれたのは、どう考えても事故のようなモノだったとしか思えないからであった。

元の世界に居た頃なら、悠長に付き合ったりせずに眉間を撃ち抜いている類の相手である。

 だがこの世界に召喚されて以来、愛すべきご主人様より“無闇な自国民たち(げぼくども)の殺害禁止”を厳命されている手前、ここで自慢の火炎銃をお見舞いしてやる訳にもいかなかった。何より、面倒くさい(マルス基準)フォルの性格や信条を鑑みれば、手早くその父を殺してやるのもどうか、という気持ちも、ほんの少しくらいは沸かなくもない。


「ほらほら、早くしなさい?」


 フォル父が急かしてくる。

 脂ぎったその手の平を握り返しながら、マルスは深くため息をついた。


「……あ~、と。フォルの親父よぉ――」


「貴様にお父さんなどと呼ばれる筋合いはないぃッッ!!」


「……、…………」


 取り付く島もなかった。というか、ちゃんと“フォルの親父”と言ったのに、コイツの頭の中では何がどう間違って変換されたというのだろうか。

 マルスには、ナニかヤバい神経がプッツンしているとしか思えなかった。


 仕方がないので、マルスは右肩を軽く上下させて、力を入れる準備をした。フォル父が提案してきたこの勝負は、相手の腕を倒した方が勝ちという、どこの世界のどんな文化にだってありそうな至極簡単な力比べである。マルスの世界でも、たまに“パーティー”などで盛り上がっていたバカどもがワンサカ居た。実はマルスもその一人であり、しかも割りと強い方でもあった。


「――それじゃ、フォル。カウントをお願いするよ?」


 フォル父が、おどおどビクビクとしながら事の成り行きを見ていたフォルに言う。

 フォルはその圧力に気圧されたように、遠慮がちに小さく「3……」と唱えた。その声を聞きながら、マルスはフォル父の肉達磨のような腕を見て、思う。

 ――悪くはない肉の付き方だ。こんな勝負に誘うだけあって、力には自信がある方なのだろう。

 だが――このゲーム、それだけじゃ勝負は決まらないのだ、と。


「2……」


 フォルのカウントを聞きながら、マルスは腕の筋肉の調子を確かめ、不敵に嗤った。

 ――このゲーム。力も大切だが、それ以上に重要なのは――実は“スピード”なのだ。

 人間、どうやったって体重を掛けた方が力を出せるように出来ている。このゲームに於いて体重を掛けるとは、イコール自分の手を相手の上にするということで――つまり最初の“一瞬”で、体重を乗せられるところまで相手の腕を押し込んだ方が、俄然優位になる事を意味している。

 魔術なんて訳の分からない力がある、この世界であろうとも。恐らく、その大前提に変わるところは無いだろう。


「1……」


 だからこそ――この勝負、自分には十二分に勝ち目があるとマルスは思った。

 ノロマなこの世界の人間は、絶対に自分の速さに付いてくることは出来ないからだ。

 ――見ていろ間抜け。カウントがゼロになった瞬間、筋肉を動かす前にその腕押し切って、テカリ顔に吠え面を貼り付けてやる。

 このおれっちに喧嘩売ったことを、精々後悔し――!!



「ぜ――」



「ダラッシャァァァァアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」



 ――は? と、マルスは目を丸くした。

 奇声が轟いた。そう思った時には、既にマルスの身体から重力の感覚が消え失せていた。右腕を中心に三半規管がメチャクチャな方向に掻き回され、天地が逆さまになっていくようなイメージ。

 ……具体的に言うと、飛んでいた。否、一瞬で右腕を押し倒されて木板にぶつけられた後、勢い余って腕を引っ張り回され、空中でグルグルとぶん回されていた。それが三回を越えた頃、オヤジのアブラでヌメった右手がスッポ抜けて、カタパルトよろしくマルスの身体が射出される。

 数メートルは飛んだだろうか。道端に佇むおしゃれな喫茶店の壁に背中から激突したところで、マルスの身体はようやく無重力状態から開放されてくれたようだった。

 衝突のエネルギーが振動に変わって屋根に伝わり、マルスの目の前に雪の塊がボトボトッと落ちてきた。


「――、魔……?」


 マルスの口が、パクパクと何かを呟く。


「……魔……、護、魔……守護魔ぁ!?

 フォルゥッ!? テメェのオヤジ、守護魔だったのかよ!?」


「え? 守――えっと、なんだか分からないですけど、たぶん違いますよぉ~!!」


 フォルが慌て顔で、パタパタと駆け寄りながらそう叫んだ。

 マルスはぶん回された右腕の調子を確かめながら、雪焼け顔を誇らしげにニヤつかせているフォル父を見ながらまだ唖然としていた。

 マルスにとって、今のは武の国の某青い大男を彷彿とさせる怪力に思えたのだった。


「……お父さん、アームレスリングの町内チャンプなんですよぉ」


 雪まみれのマルスを抱え起こしながらフォルが言う。

 曰く。フォル父は交易町を行き交う中でも、特に重たい荷物の積み下ろしを生業にしているらしい。

 ほぼ年間を氷雪が支配するこの国に於いて、しかも魔術の素養すら無い平民の話である。町屈指の重労働である事は想像に難くないが――、しかしフォル父は長年の経験からか人一倍強い腕力を誇っており、普通なら二~三人で持ち上げる荷物を、たった一人で積み下ろしすることもザラなのだという。

 お陰で町祭りのアームレスリング大会では、ここ五年ほど、不動の一位を保持し続けているとかなんとか……。

 なるほど、道理で化物染みて強いわけだ、とマルスは合点した。


「ハッハッハ、まだまだ未熟のようだねぇ」


 高らかに笑いながら、何故か手招きしてくるフォル父。


「フォル、お前もやってみなさい?」


「……、え?」


 ……そして、そんな訳の分からない事を言い出す。

 マルスはフォルと顔を見合わせ、コクリと首を傾げ合った。


「ハッハッハ、大丈夫さ。お父さんな、フォルが心配なんだよ。

 付き合う男は、自分を守れる強い男にしなさいって、お父さん言ったよな?

 ほらほら、フォル、お前もやってみるんだ。ほら、早く!!」


 有無を言わせぬ語調で、フォルとマルスに力比べを促してくるフォル父。

「えっと……どうしますかぁ?」と、フォルがいつもの舌っ足らずな口調で訊いてきた。

 一応は疑問形ではあるものの、表情から“やらなくてはならない”と諦めているのが一発で分かる。

 マルスは、つい吹き出しそうになってしまった。


「え? なに? フォル、お前マジでやるつもりなワケ?

 そんな細っちょろい腕で、一ミリパーでもおれっちと勝負になると思ってんの?」


「う……し、仕方ないじゃないですかぁ。

 お父さん、ああなったら、もうわたしの話なんか聞いてくれないんですからぁ……」


 しゅんと項垂れるフォル。彼女のこういう態度は、またなんともマルスの嗜虐心を煽るものなのであった。

 それに、フォル父に派手にぶん回された後なのである。少しは強いところを見せつけておきたいという、些細な自尊心のようなモノも無くはなかった。


「ハッ、上等だよ。怪我してもしらねぇぜ?」


 結局、マルスは勝負を受けてやる事にした。

 フォルの手を引き、酒樽の前に戻って右肘をつく。

 フォル父がどういうつもりでこんな提案をしてきたのかは分からないが、例えどんな消化試合だろうとも、やると決めたらやるのがマルスという少年なのであった。

 ――さて。さっきは紙一重(・・・)の差で振り回される羽目になったが、流石に今度はそんな事態にはなり得ない。

 フォル父が野太い声でカウントするのを聞きながら、ちゃちゃっと勝負を決めてしまおうとマルスは思った。

 ゼロのカウントが聞こえたのと同時に、マルスは全力で右腕に力を込めた。


「オァラァァァァアアアアッッッ!!」


 気合一閃、右腕の筋肉に血液をねじ込む。

 フォルは、思ったよりも力が強いようだった。速攻で勝負を決めるつもりだったマルスであったが、腕が思ったように倒れない。きっと、必死で全力で抵抗しているのだろうとマルスは思った。

 正面を見ると、フォルが不思議そうな顔で首を傾げていた。


「? えっと――、マルスくん? 力、入れていいですよ?」


「はぁ? オイオイ、痩せ我慢ならもっと上手くやれよなぁ?

 そんな演技、おれっちには効かねぇっつーの――オァァアァアアラァァァアアアアアアアッッッ!!??」


「???」


 マルスは額に血管を浮き立たせながら、更に右腕へと力をねじ込んだ。

 少々可哀想ではあるが、まだなんとか抵抗を続けているフォルの右腕に、さっさとトドメを刺してしまう為に――!!



 ――ときに唐突ではあるが。

 古典力学の世界には、“運動の三法則”という物が存在している。


 これは今日の物理学の基礎を成す、相対論的又は量子論的効果を無視出来る領域に於いて、物体の運動の極めて近い近似値を求める為に用いられるルールである。慣性の法則、運動方程式、作用反作用の法則から成る、高校物理の基礎であるとも言い換えることが出来るだろう。

 1687年にアイザック・ニュートンが著書・プリンキピアでそれまでに発見されていた物理法則を完結に纏め上げ、ニュートン力学を成立させて以来。これらの法則は二十世紀にアルベルト・アインシュタインが現れるまで、電磁気学的効果を含まない場合の物体の運動を完全に予想し得るツールとして長く使用され続けてきた。

 否、それは例え今日であろうとも、量子レベルのような極小領域や光速付近、或いは天文学的レベルの超重力などを持ちださなければ、我々の生きる世界に於いては、ほぼ完全に成り立つ理論であると断言して良いだろう。

 ……少々話が逸れたが。

 ここから予想出来る現象が、ここに一つ、存在する。


 それは、例えどんなに怪力無双の英傑であろうとも、自分より重い物体を水平に殴り飛ばす事は出来ないという事実である。

 何故なら作用反作用の法則と運動方程式より導かれる帰結として、それをした場合、殴り飛ばした本人は殴った物体よりも更に大きな速度でもって反対方向にぶっ飛ばされる事になるからだ。(もちろん慣性の法則により、その後は何かにぶつかるか空気抵抗、地面との摩擦で減速されるまで止まれない)

 作用反作用の法則――対称を好むという自然界の性質を端的に表すこのルールは美しく、そして非常に偉大な概念であると言える。何故ならいま目の前で起こっている現象について、我々にとても重要な事実を暗示してくれるからだ。


 ……えーと。

 つまり、ナニが言いたいのかというと……。


「? え、と……。

 マルスくん……ごめんなさい!!」


「――は? アベバァァァアアアアアアアアアッッッ!!??」


 ……この世界に於いて、マルスがアームレスリングに勝利するのは不可能である。

 何故なら体重五キロの彼が全力で腕に力を込めた場合。我々にとっての水中よろしく、彼の身体の方が(・・・・・)簡単に持ち上がってしまうし――そうで無い場合にも、体重僅か五キロの彼を体ごと押し倒すことなど、その十倍の体重を持つ普通の人間にとっては難しい話でも何でもないのだから……。


「ね? フォル、悪いことは言わない。

 この子がもっと強くなるまで、交際はやめなさい? ね?」


「あぅ……だ、だからそうじゃなくて――!!

 あ、ま、マルスくん? ごめんなさいごめんなさいえっと、大丈夫、ですかぁ?」


 地面に倒れ伏したままのマルスの頭を、フォルがじゃらすように撫でる。

 何やら打ちひしがれたようにピクリとも動かないマルスは、宛ら雨曝しにされた氷像のようでもあった……。

 ちなみに、後で聞いた話ではあるが。

 フォルも昔、アームレスリングの町内大会・子供の部で三連覇を達成した経験があったとか無かったとか……。

 突然のアームレスリング大会に盛り上がっていた野次馬どもは、「フォルちゃん強いねー」「坊主、頑張れよ」「ねぇ、お姉ちゃん。まだカイドウ、通れないの?」と、相変わらず何やら自分勝手な盛り上がりを見せていた。



 ――そうして、馬鹿騒ぎをしていられた時点で。

 彼らはまだ、誰もその“異変”には気づいていなかったのだろう。

 野次馬達が声を張る通りの裏。一人の青年が、腫れた頬を擦りながらフラつく足取りで歩いていた。


「クソッ、あのハゲオヤジ。思いっきり殴りやがって」


 切れた口からは自然、血液とともに悪態が漏れる。

 彼は、先ほど中年の男と殴り合いを演じた若者であった。家の自営業を継ぐことが決まっている彼は、通りが雪崩で封鎖されようとも、運送業者の連中ほどには困らない。帝都からの客足や、仕入れが滞るのは少々痛いが、通りの開通作業などという無意味な重労働と天秤に掛けて取れる程度には生活に余裕もあった。特に困ってもいない自分が、無理矢理に駆り出される目的で絡まれることも、それが正義だとでも言わんばかりの連中の態度も、喧嘩両成敗とでもばかりに理不尽に殴りかかってきた筋肉オヤジも、何もかも全てが癪に障って、とにかくムカついていたのであった。

 このムシャクシャした気持ちをぶつけられるのなら、もう対象は誰でも良いとすら、この時の彼は考えていた。


 ――だからこそ。

 人気の無い裏通りで“その男”を見かけた時には、丁度いい相手が見つかったと彼は思った。


「あ? おいおい、冗談だろぉ?

 お前、どこの金持ちのところから逃げ出してんだよ」


 若者は安っぽいチンピラのような口調をわざと作って、その男に声を掛けた。男は旅服のフードを目深に被っていたが、チラリと見えた緑色の髪だけは咄嗟には隠せない。

 どうでもいい相手としては、これ以上の生き物は無いと彼は思った。


「おいこら、無視してんなよ。

 アレか? お前もしかして、街道が通れなくってご主人様とハグレちまった口?」


 無視して歩き去ろうとする男を追って、若者は管を巻く。

 理由なんか何でも良かった。ただ絡む理由が欲しかっただけだったのだ。

 若者はそのまま、無警戒にも、男の肩をつかもうと右手を伸ばして、


「おいおい、だったら早く街道行って復旧作業手伝ってこなきゃだめだろ。

 俺たちが働いてるってのに、何でお前はこんな所ほっつき歩ってんだよ。だってお前、風の――」


 ――ふと、その右手に違和感があった。

 否、正確には右手では無い。何故なら若者の右腕には、手首から先が無かった。

 右手がついていないことこそが、彼の覚えた違和感の正体だったのだ。


「……、あ……?」


 見た瞬間、悍ましい激痛を彼は理解した。喉はヒュウヒュウと獣のような咆哮を勝手に生み出し、冷たいような、痺れるような、感じたこともないような喪失感が欠けてしまった身体の部位から迫り上がってくる。その嫌な感覚を消し去ろうとして、若者は咄嗟に自分の手を探した。

 果たしてそれは、ペンキに塗れたゴム手袋のように、すぐ足元で雪に半分埋まっていた。若者は半分蹲りながらそれを掴んで、何を思ったか棒きれのようになってしまった右腕の先に、グリグリと押し付けて元に戻そうと頑張り始めた。

 勿論。どんなに彼が努力しても、ズタズタに形が変わってしまった彼の組織は、二度と元の形にピッタリ収まってくれる事はなかったが。


「か~……ったく、駄目じゃねぇの。言葉使いにゃ気をつけねぇと。親に教わんなかったのかぁ?」


 泣き笑いを浮かべながら“ゴム手袋”で遊び続ける若者を見下ろし、緑髪の男が言う。

 若者は反射的に顔を上げ――そして、愕然とした。

 なんで――、


「な、なんで……、お前、首、輪――!?」


 言い切ったところで、凍て付くような風が、ヒュウと首筋の皮膚を撫でたのを若者は感じた。何かと思って、左手で首筋を探って――ふと、ヌルリとした感触。

 左腕に目をやると、何かがデジャヴした。あるべきものが無くなってしまったような、欠けてしまったような、あまりにも非現実的で信じられなくて信じたくなくて事故のような、有り得てはならないあるとしても実際に自分の身に起こるなんて事は一度も考えたことがなかった、その――、


「――おい、チンピラ。テメェいま、通りはまだ開通してねぇっつったか?」


 緑髪の男が、更に何かを訊ねてくる。

 その男の濁った目や、絶対にあるべき物が無い男の首筋や、輪っか状に浅黒く変色した首の皮膚を見やって。「ああ、これは夢なのだな」と若者は思った。

 そう、そうに違いない。きっと自分はあのハゲオヤジに殴られて、気を失ったまま、まだ目が覚めずに犬橇の隣で伸びているのだろう。もしくは世話好きなマーシャや父親辺りに担がれて、家のベッドにでも寝かされて今は看病を受けている真っ最中か。

 最悪な夢だが、起きたらまた仕事がある。街道が封鎖されているせいで客は少ないが、それでも生計を建てる為には働かなくてはならない。起きたら先ずは暖かいスープでも飲んで、ホットワインでも舐めて、それから――、


「ああ、良かった。教えてくれて、ありがとよ」


 粘ついた笑みを浮かべながら、男が自身の先天魔術(ギフト)を示す魔法円を光らせ、右手を振った。

 首に何かが刺さるような感触と、ミチミチと肉と皮を引きちぎられる音と振動が、若者の鼓膜に直接伝わった。

 ――ああ。これで、目が覚める。

 ゴロリと傾いていく景色を漫然と眺めながら。声も出せなくなってしまった若者は、最期に唇だけでそう呟いた――。

えっと……本作・朝日真也の魔導科学入門は、ちょっぴり変わった不思議生物さんたちがゴロゴロ出てくるお話です。

その、そんなわけで、やっぱり実物を見てこないと、あんまり良い描写は出来ないな~、なんて、思っちゃったりとかしまして……。


ごめんなさい!! 次の実地研修がつかえてたりしますけど、次はなんとか遅れないように頑張ります!!

ホントにすみませんでした(>_<)。

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